ロームシアター京都のプロデュースシリーズ〈レパートリーの創造 ホープス〉のアソシエイトアーティストのひとり、野村眞人による『吉日再会』、新作『観光客』が10月末から11月頭に上演される。
ドラマトゥルクを担う長澤慶太がインタビュー・構成をした記事を、前・中・後の計3編にわたって掲載する。
インタビュー、編集構成:長澤慶太

(ベルリン・シャウビューネ劇場 撮影:野村眞人)
――野村さんは2025年に、文化庁の新進芸術家海外研修制度で、ドイツに1年ほど滞在されていました。そこでの経験について教えていただけますでしょうか。
野村:私はベルリンのシャウビューネという劇場を拠点に、ベルリンを中心とした、レパートリー作品やフェスティバルのリサーチをしてきました。シャウビューネという劇場は、日本でいえば、公共劇場にあたるような位置づけの劇場ですが、その都市の中での存在感は、日本の劇場と大きく違います。
この滞在研修より以前から、このシャウビューネに限らず、特にドイツの劇場におけるレパートリーというシステムの特徴的な点などは、知識としてはよく知っていました。ただ、それが実際に、劇場を訪れる観客や、その街全体との関係や役割といったものについての、言葉の知識だけではわからない部分も多かったので、そういった実感的なものを知れたらと考えていました。
1年かけて、ベルリンの街に滞在しながら、シャウビューネに限らず多くの劇場に足を運びました。多くの劇場で、演劇作品がレパートリーとして、ほぼ日替わりで作品が毎日上演されている。そのレパートリーにも色々なものがあって、1年で終わるものもあれば、25年間ずっと上演されるものもある。特に長く上演される作品には、やっぱり凄みのようなものが感じられました。それは上演のクオリティの高さを当然として、さらに、ある作品が上演され続けているということ自体が、街に住む観客との関係を通じて、その街の歴史の一部になっているということに驚きました。
その上で、印象に残っている作品があります。それは私がベルリンに滞在していた頃に見た、上演時間が4時間30分くらいの、まだ歴史の若いレパートリー作品です。内容は、ロシアによるウクライナ侵攻が開始された日までの近現代史を扱っており、その上演を私が見た日は、実際にロシアがウクライナの侵攻を開始した当日でした。劇場が意思をもって、観客にはたらきかけるということを目の当たりにしながら、そのようなはたらきかけを通じて、観客である市民と対話をしたり、現在について考えるといったことを、劇場が自らの責務としているのだと実感しました。レパートリー作品というものは、そういったことを通じて、やがて歴史のなかのひとつになるのだということも知りました。ふつう劇場のレパートリーというものは、何年もの長期的な上演を通じて、観客に向けて届けられることを前提としたものであり、その長期的な上演を通じて、観客と劇場のあいだの関係性を築いていくものです。しかし、その関係性のはじまりは、そのつどの時代において必要なものを、ひとつずつ積み重ねていくような作業でもあるということを考えました。時代を観測する定点として、劇場がそこにあるのだということを、強く感じました。
――日本とヨーロッパにおける「劇場文化」の違いを、あらためて感じさせる内容だと思います。その上で、ご自身の作品との関連において、なにか考えたことがあれば教えてください。
野村:ベルリンで上演される作品には、おおまかな言い方ですが、いわゆる政治的な内容が扱われることが非常に多いです。かつ、その内容は、戦争の被害者やマイノリティの声をすくい上げるような戯曲作品、あるいは同様のドキュメンタリー演劇がとても多く上演されています。
そのなかに、先ほどの作品とは別のもので、ウクライナから避難してきた女性たちが出演し、その彼女たちが、戦争の暴力や自分たちのおかれた悲惨な状況を、合唱のように歌い上げるといったドキュメンタリー演劇的な作品がありました。ゴーリキー劇場という劇場のレパートリーになっていた作品で、これは、その劇場で定期的に上演されていました。その作品を最初に見たときは、扱われている内容があまりにも現在的であり、かつ、あまりに過酷で悲惨な状況を、演劇を通じて表現していることに対し、もちろん扱われている内容には衝撃を受けつつ、ある意味でとても感動しました。
その上で、レパートリーに採用されているこの作品は、何度も繰り返し見るという機会が与えたられているわけです。もちろん、より多くの観客に開かれるために、レパートリーとして再演がされているわけですが、しかし私は、何度も見ることの可能なその作品を、再び見るかどうか迷っていました。本当は、作品が何度も上演されることでなく、まずは現実の戦争そのものが終わり、ゆえに作品に上演されている悲惨な現実への訴えが不要になることが良いはずだと、そんなことを考えました。
レパートリーであるがゆえに、彼女たち自身が、「再演」という形式を通じて、悲惨な現実についての告白を何度も続けなければならない。それは、たった一回それを見た観客にとっては感動的であっても、出演者自身にとっては酷いことではないかと感じました。ベルリンをはじめとして、ドキュメンタリー演劇とよばれる作品の多くは、悲惨な現実や現実の困難を題材に扱う傾向があります。そのような作品のなかには、今回の例にあげた作品のように、レパートリーとして何度も再演の機会を得る作品も少なくありません。しかし、そのような現実を扱い、その現実のなかに生きる当事者が出演している作品を、劇場のレパートリーとして再演を続けることに、なにか矛盾があるのではないかということも、ベルリンで強く感じました。
だからこそ、そういった現実の悲惨さを扱い、かつ当事者によってそれが何度も語られ直すような内容ではないドキュメンタリー演劇的な作品が、劇場のレパートリー作品として上演されるということに挑戦しても良いのではないかと思いました。そのときに、自分の『吉日再会』という作品が、その挑戦のひとつとして数えられることができないかと、そんなことを考えました。先の例にあげた作品の出演者たちが、自分の悲惨を告白し続けるあいだ、その出演者たちはずっと当事者であり続ける。そうではなく、自分がその現実の出来事の「当事者ではない」状態で、その出来事を語れる状態にあって、初めてそれは再演されるべき作品として繰り返されるべきではないかと、そういったことをベルリンではよく考えていました。

(2026年3月ワーク・イン・プログレス公演@ロームシアター京都 撮影:中谷利明)
――その上で、ロームシアターの「レパートリーの創造 ホープス」という枠組みで上演される今回の『吉日再会』について、また、そのつど変化を続けることが前提となっている本作について、野村さんが考える今後の展開などについて、考えがあれば教えてください。
野村:台湾での上演で出演者とともに感じられた、開かれたというか、広がっていくような感覚みたいなものを大事にしながら、日本あるいはアジアだけでなく、より多くの人たちに、この作品を見てもらえる機会をつくりたいと考えています。同時に、ある意味では非常に私的に見えるこの作品にきっと含まれているはずの普遍的なものについて、時間をかけて考えていけたらと思っています。その上で、二人の関係の変化によって、作品も当然のように変化すると思いますが、この変化についての不安というものはなく、楽しみというか、期待みたいなものは、最初の稽古の頃から変わらず感じています。
また、私のベルリン滞在があって、それからタイミングがなかなか取れていないのですが、この『吉日再会』を、精神科の病院に働く方たちに向けて上演したいという打診をいただいたことがありました。これも本当はすぐに実現したいのですが、とにかく劇場での上演だけでなく、そのつど新しい場所や、新しい関係性のなかで、上演を続けられたらと思っています。加えて、ベルリンで見たレパートリーがそうであったように、この作品のあり方が、京都という街での歴史の変化を通じながら、そのつど作品のあり方や、観客席との関係を築いていければとも考えています。
<公演情報>
ロームシアター京都〈レパートリーの創造 ホープス〉
野村眞人『吉日再会』
10月30日(金)19:00
10月 31日(土)14:00/19:00
11月1日(日)14:00
ロームシアター京都〈レパートリーの創造 ホープス〉
野村眞人『観光客』
11月6日(金)19:00
11月7日(土)14:00/19:00
11月8日(日)14:00