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レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」関連コラム

『妖精の問題 デラックス』と社会と社会に打つ鍼と

文:木村覚(美学者/「妖精の問題 デラックス」ドラマトゥルク)
2022.2.1 UP

 今回「ドラマトゥルク」という肩書きで『妖精の問題 デラックス』の創作チームに参加することになったのは、拙著『笑いの哲学』で、お笑いのみならずポリティカルコレクトネスやマイクロアグレッション[*1]といった事柄について考察していたからだと私は受けとっています。本作は2017年に上演された『妖精の問題』をもとにしたリクリエーション作品ですが、これまで落語の形式を採用していた第一部を今回は漫才・コントの形式で行うという大きな変更があり、その演出のサポート役として呼ばれたのは理由のひとつでしょう。ですが、もっと大きな課題がこの作品にはありました。

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 その点に触れるには、まず市原佐都子さん本人の言葉を引くことがなによりと考えます。「この作品は相模原障害者施設殺傷事件を受けて、自分のなかに潜んでいる差別や偏見をみつめた作品。この作品のなかで、できるだけ偽善的でない方法であらゆる人間の生を肯定しようと試みた。」[*2] とすると、この作品の創造にはいくつかの困難が立ち塞がっています。(1)直接的ではないとはいえ「相模原障害者施設殺傷事件」を受けた作品であること、(2)そこで市原さんは自分のなかに棲む「差別や偏見」を、いわば自分のうちなる「植松聖」を見つめようとしていること、(3)その上で「偽善」を避け、(4)しかも「あらゆる人間の生を肯定しよう」とすること。ことなかれ主義で行くなら(1)の段階でやめた方が良いでしょう。また自分を善良な人間だと見せたいのなら(2)に向かうのは自殺行為です。(3)を実行すれば、角の立つ表現は避けられないかもしれません。そして、もっとも困難なのはこれらすべてを引き受けつつも(4)へ至る道を見出すことでしょう。針穴に糸を通すような難しい仕事を、市原さんはあえて自らに課したわけです。
 正直に言いますと、五年ほど前に初演を見たとき、私はこの作品があまり良く分かりませんでした。個人の身体的な違和感がこの世の理不尽とともに炙り出され、そこから観客は、刺激された想像力を手がかりに、自然やいのちの実相へと導かれてゆく。そうした市原さんの作品のことは、舞台芸術の批評家として以前から注目していました。とりわけ、そうした違和感や理不尽が役者の内側をくぐり抜けて身体の痙攣的な動作となって露出し、それが一種のダンスとして迫ってくるさまには、稀有な可能性を見出していました。そしてこの作品で市原さんは、さらに一歩踏み込んで社会の「問題」に向かうのですが、上記した四つの点がバランス良く整理され望ましいかたちで観客に届けられていたかと言えば、かならずしもそうと言い切れない状態でした。もちろん、一人芝居となった竹中香子さんの演技は迫力があって見応えあるものでしたし、Q独特の面白さは随所にありました。ただ「差別や偏見」を語る言葉と「あらゆる人間の生を肯定」する言葉とがぶつかり合い、せめぎ合うなか、観客としてどこに身を置いたら良いのか分からないという戸惑いの気持ちを抱いた記憶があります。

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 ここまで書いたことは作品に内在する課題です。しかし、それはこの作品の「大きな課題」の半分に過ぎません。
 もう半分の課題は、この作品を見る観客の心の動きを考えることにあります。あるいは芸術と社会との関係を考察することと言い換えても良いでしょう。今、芸術表現をめぐる空間が揺さぶりをかけられています。「地域アート」が議論されたころにはまだ潜在していた懸案が、あいちトリエンナーレ2019で顕在化したようです。その中心点にあったのは「表現の不自由展・その後」でした。けれどもそこから大きく漏れ出てきたのは、その展示の是非以上の大きな問い、つまり芸術は社会に必要かという問いだったと言えるでしょう。
 芸術は社会を逆撫でする存在です。その振る舞いは、既存の社会の枠組みに光を当て、それによって明らかになった問題を私たちに反省させます。あるいは芸術は社会に謎を提供します。その謎によって私たちは、人間や社会をあらためて新鮮な目で見つめることができます。
 そうした芸術の価値に疑問が投げかけられています。少なくとも私はそう感じています。芸術は不快を内包しています。「逆撫で」することも「謎」も、私たちの社会やその基盤となる価値を脅かす力に映ることがあるでしょう。それはまた社会に安住した私たちの個を脅かす力でもあるでしょう。そのとき芸術は不快な対象となりえます。不快をくぐり抜けずには到達できない芸術的歓びがあるとしても、しかし、それが不快を強いる限り、その歓びは到達を目指すに値するものかと問われられかねず、その問いに押され、そうこうするうち、不快な要素を含む芸術は社会空間から斥けられてしまうかもしれません。
 ことほどさように、私たちは心地良さの価値を尊ぶ時代を生きています。おそらく今は心地良さの美学の時代なのです。とりわけこの状況は、インターネット社会が進行するにつれて強化されてきています。例えば、この点を考えるキーワードにフィルターバブルがあります。各個人に最適であるようあらかじめ選別された情報だけが届く、そうしたパーソナライズド・フィルターはバブルを生み出します。「バブル」とは要するに、各個人の周りを柔らかく包む泡であり、各個人がノイズと感じるものをあらかじめとり除いてくれるもののことです。ネットはこの「最適化」の快楽を与えることで、人をネット中毒にしています。イーライ・パリサーはこう忠告します。「消費者にとって、関係のないものや好みでないものが消えてくれるのは、まずまちがいなくよいことだろう。しかし、消費者にとってよいことが市民にとってよいとはかぎらない」[*3] 。その通りです。言い換えれば、ネットは人を市民ではなく消費者に仕立てる装置なのです。
 この状況を「監視資本主義」と呼ぶショシャナ・ズボフの認識はさらに深刻です。「自動化された機械処理は、私たちの行動を知るだけでなく、形成するようになった。すなわち、わたしたちに関する情報の流れを自動化するだけではもはや十分ではなく、私たちを自動化することが目指されることになったのだ」[*4] 。なるほど、私たちが物事の最適化を欲するだけではなく、インターネット社会の方が私たちに最適化を求め、私たちを自動化する時代が到来しつつあるというのです。「ご時世」の意向を忖度する、柔軟かつ滑らかな行動こそ、そこで求められるものでしょう。
 こうした世の流れに、芸術は相反します。例えば『妖精の問題』の提示する「問題」に向き合うこと自体辛いという意見が出ることも、容易に予想できます。だからと言って、世の人々の芸術に対する無知を非難し罵倒しても大して意味はないでしょう。「友か、さもなければ敵」という思考に油を注ぐことにしかならず、それは結局のところ、敵を排除して友と盃を交わす「心地良さ」に酔うだけのことです。

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 そこで私は、専門分野の異なる四人の方にインタビューを行い、彼/彼女らの意見から「問題」を語る際の良き語り方、その技を探し出そうとしました 。内容は公開されているので詳細はご一読いただくとして、四人のインタビューから湧出してきたのは二つの点でした。
 ひとつは、上述してきたインターネット社会に対する心構えについてです。小説家の大前粟生さんとは、TikTokやTwitterといったSNSが人の心に与える影響と芸術表現との関係が話題になりました。ベタ/メタ/ネタの違いを認知するというような、かつての若者が有していた知性は弱まり、それに代わって強化されているのが「パチンコみたいな笑い」と大前さんの言う適度な刺激に反応するだけの活動ではないか。そうした認識を共有しながら、小説はSNSと異なり非即時的なメディアであり、書き手と読者に距離があって、だから「本」として隔離されているところに安心がある、と大前さんは話してくれました。
 ジェンダー理論を専門とする研究者・高橋幸さんは『妖精の問題』に出てくる「政見放送」の暴力性を指摘して、これを目にしたマイノリティーが心傷ついてしまう可能性を心配してくださいました。その際印象的だったのは、演劇は早送りできないからと高橋さんがふと漏らした言葉でした。いかに私たちが(「心地良さ」に奉仕する)ザッピング視聴の環境に親しんでいるかを示唆しています。また誌面には載せられませんでしたが、高橋さんはインタビューの最後に映画のR指定のような事前情報を付したらどうか、という意見も出してくださいました 。[*6]
 もうひとつは、紹介した大前さん、高橋さんの意見にすでに出ている方向ですが、適切な開き方/閉じ方をめぐっての見解です。美術家集団Chim↑Pomのメンバーで、ギャラリーWHITEHOUSEの運営者でもある卯城竜太さんとの対話では「多チャンネル」という言葉が浮上しました。『ヒロシマの空をピカッとさせる』や『Level 7 feat. 「明日の神話」』の時期とは異なり、公共の場に「アートの論理」を持ち込むことでアートが社会を揺さぶるといった開くことの「実験」の季節は終わった、と卯城さんは言います。むしろ多種多様な空間が持つそれぞれの特徴にふさわしい「実験」があるはずであり、その意味では、空間の多種多様性を引き出すためにも「多チャンネル」の状態をうまく活かすことこそ重要だというのが、卯城さんの見解でした。
 なるほど、三人の意見を汲みとって考えるべきは、ロームシアター京都で『妖精の問題 デラックス』を上演するという「空間」にふさわしい開き方/閉じ方を、インターネット環境に深く浸かった観客をイメージしつつ検討すること、と言えば良いでしょうか。

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 ところで、私はこの企画でもう一人の専門家、鈴木励滋さんとも対話しました。「津久井やまゆり園」からそれほど遠くない横浜の施設、生活介護事業所カプカプの所長である鈴木さんは、障害を持つスタッフに喫茶店の接客を任せています。高齢のお客さんたちと障害を持つスタッフたちとの交流を観察していると、派手さはありませんが繊細で緻密な思考の果てにしつらえられたものであることが分かります。私はその場を独創的なひとつの演劇空間と捉えています。鈴木さんはその場の演出家です。劇場で上演される類の演劇と異なるのは、鈴木さんの言葉を借りれば「ここにいるのは一般名詞の“障害者”ではなくて、一人ひとり固有名詞を持った人」だということです。名札をつけたスタッフはもちろん、お客さんもスタンプカードをきっかけに名前を持った人としてこの場のプレイヤー(演者)になっています。「しつらえ」と呼ぶのは例えばこういうところなのですが、鈴木さんの試みる社会に実装された演劇、社会に場を開く演劇こそ、未来に望まれる演劇の姿ではないかと私は想像しています。
 というのも、急激に変化してゆく社会のなかで私たちが失っているもの、だからこそ心の底で猛烈に欲しているものは、これも鈴木さんの言葉ですが「一人ひとりの肯定」であり、それを育む信頼できる人間関係だと考えるからです。自己肯定感の低下は承認欲求を枯渇させ、優越感と劣等意識を増大させ、そうなると世界がますます椅子とりゲームに見えてきます。他人がみんな敵に見えてきます。その思考回路から一旦降りる術が必要で、その術が手中にない状態では芸術どころではない、というのが現状のように思うのです。
 だから、市原さんには、不要な誤解を周到に避けながら、しかし社会に打つべき鍼をしっかり打って欲しいと願っています。鈴木さんの演劇とも異なり、また『笑いの哲学』で私がユーモアに見出した方途とも単純には重ならない、市原さんらしい技があるはずです。困難な状況を忖度した末に、市原さんが自らの「わがまま」(ヘルマン・ヘッセ)[*7] を削ぐことになってもやむなし、とは私は思っていません。この世である芸術家だけが感知している世界の姿があるのだとしたら、私はその姿が見てみたいと望む一人です。仮に社会との関係がギクシャクしたとしても、どこかでそういうものだと思いながら、市原さんがひらく芸術の可能性を目撃したいと願望しています。

1:マイクロアグレッションとは、ほんの些細な攻撃性を意味する。この攻撃性の認識が、加害者とみなされた者に攻撃の意図があった否か以上に、加害者とみなされた者の行為の(他者による)解釈に重点が置かれている点に特徴がある。

2:【A MESSAGE OF HOPE(連載:希望へ、伝言)】Vol.142 市原佐都子──きっと生きていれば、その喪失感が救われる」(GQジャパンWEBサイト掲載、2020年7月)https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200706-satoko-ichihara-message

3:イーライ・パリサー『フィルターバブル』井口耕二訳、早川書房、2016年、34頁。

4:ショシャナ・ズボフ『監視資本主義 人類の未来を賭けた闘い』野中香方子訳、東洋経済新報社、2021年、10頁。

5:レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」関連企画 インタビューシリーズ 『妖精の問題』の「問題(クエスチョン)」をひもとく
第一回:鈴木励滋(「生活介護事業所カプカプ」所長/演劇ライター)
第二回:卯城竜太(アーティスト/Chim↑Pom)
第三回:大前粟生(小説家)
第四回:高橋幸(社会学・ジェンダー論研究者)

6:高橋さんへのインタビューは、構成作業中に、高橋さんからの依頼で、不要な「炎上」を避けるための大幅な改稿が行われました。このような点に神経が削がれる状況に私たちの身が置かれているということを再確認するような作業であったことを、付言しておきます。

7:ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳、草思社、2009年。

  • 木村覚 Satoru Kimura

    1971年生まれ。日本女子大学教授。専攻は美学、ダンス研究。20年以上、日本のコンテンポラリーダンス・舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSを始動。主な著書に『未来のダンスを開発する――フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)、『大野一雄・舞踏と生命――大野一雄国際シンポジウム2007』(共著、思潮社)、『スポーツ/アート』(共著、森話社)、『笑いの哲学』(講談社)などがある。
    BONUS http://www.bonus.dance/

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