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#インタビュー#演劇#レパートリーの創造#2021年度

レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」関連企画

インタビューシリーズ
『妖精の問題』の「問題(クエスチョン)」をひもとく

第一回:鈴木励滋(「生活介護事業所カプカプ」所長/演劇ライター)

インタビュアー:木村覚(美学者/「妖精の問題 デラックス」ドラマトゥルク)
構成:杉谷紗香、編集補助:松本花音(ロームシアター京都)
2021.11.15 UP

2021年度の「レパートリーの創造」で上演する市原佐都子 作・演出『妖精の問題 デラックス』。本作でドラマトゥルクを務める美学者の木村覚がインタビュアーとなり、さまざまなジャンルのゲストを迎えて、インタビューシリーズを全4回にわたって展開する。2017年の初演から5年の時を経て本作のリクリエーションをするにあたって、この作品が提起する問題を作者自身も含めてあらためて考え、創作に役立てていく試み。


インタビューの前に:木村覚のメッセージ 

今回、市原佐都子/Q『妖精の問題 デラックス』のドラマトゥルクを務めます、美学者の木村覚です。昨年刊行した『笑いの哲学』では、笑いは良いものか、悪しきものかを問いました。笑われたくない人間の意識を解明しながら、ポリティカルコレクトネスや自虐という現象を分析した上で、笑いの潜在的な可能性を開くユーモアへの道筋を探しました。
今回、インタビューシリーズを通して、表現する側(ex. アーティスト)とそれを受け取る側(ex. 観客)との有意義なつながりを生む「技」を見いだせたらと私は望んでおります。市原は本作を上演するに際して、表現というものがおびうる暴力性を意識しつつも、安易な「事なかれ主義」に陥ることなく、表現する側とそれを受け取る側とがしかるべき関係を結びうる「方法」を探しています。本作は、相模原障害者施設殺傷事件を発端にしており、この点に関連して市原は「私も事件を起こし得る危うい人間なのかもしれない。事件によって、自分のなかにある優生思想や、自分が抱えている生きづらさを意識させられた。その正体を知りたい、その危うさを見つめなければいけない。そして、できるだけ偽善的ではない方法であらゆる生を肯定することを試みたいと思った」と述べています。ゲストの皆さんとの対話を通して、そのヒントが得られたら幸いです。


写真:阿部太一

どんな人も、一人ひとりが固有名を持っている

木村 今回、インタビューシリーズを構想する際、最初に顔が思い浮かんだのが、鈴木励滋さんでした。鈴木さんは「喫茶カプカプ」という横浜市の生活介護事業所で活動を行っています。そこでは、いろんなかたちの障害を持った方が就労して喫茶店の接客をする中、鈴木さんはその場のコーディネーションなどをされています。また、現代演劇にも関心が高く、演劇ライターとして批評文の執筆もされています。
今回、鈴木さんにお聞きしたいのは、障害を持った方たちと活動する日々の中で、相模原の事件をどのように見ているのか、ということです。私が何度か喫茶カプカプにお邪魔した時に体験したのは、まるで演劇の空間に遭遇したかのような感覚だったんですよね。自然なふるまいのようでいて、巧みな演出がされているとしか思えない場に、お客さんと障害を持つ方たちとのとても幸福な空間ができていました。
こうした喫茶カプカプという場で鈴木さんが発揮している「技」というものがあるとしたら、お聞きしてみたいです。また、その技には、舞台芸術にフィードバックできるものなのかということも対話できたらと思っています。
まず、2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件について、この5年の間でどのようなことを鈴木さんは考えていたのか、教えてもらえますか。

鈴木 そうですね。私はもともと社会学を専攻していたので、得てして分析しがちなんですけれど、この事件に関しては、そういう気分にもならなかったわけです。事件に対して論評もたくさん出ていますが、ほぼ読んでいません。無力感というか、大きな失望がありました。
私としては、障害福祉の専門家である以前に、先ほども木村さんから言っていただいたように、「場を開いている」という想いが強いんですね。障害のある人とともに「喫茶カプカプ」という場を開いて23年になります。お店があるのは横浜市旭区の端、高齢化率が50%という「ひかりが丘団地」の商店街です。

写真:阿部太一

私自身は、この場所を地域に開こうとしていた人たちに呼んでもらって参加したので、事業を自分で立ち上げたわけではないんですね。障害福祉を専門に学んだわけでもなかった。
だから、カプカプに集まる一人ひとりの人と、障害者と支援者という関係というより、固有名を持つ同僚という感覚で関わりを深めていきました。やがて、私自身がやってきたように、一人ひとりの人間同士として重ねつつあった関係を、まずは、喫茶カプカプがある地域の人と少しでも作っていけないかと思うようになりました。
それで、どうしたかというと、この場所のことを10年ぐらい、あえて発信しなかったんです。カプカプのある地域の人々との関係がしっかりと築けないうちに発信だけしても、アンテナのするどい都会の人たちだけがやってきて、「あそこは、ああいう人たちが集まる場所だから」ってさらに孤立してしまうんじゃないかと考えたんですね。
喫茶店の接客に関しても、一人ひとりのおもしろさを押し出していきたいという想いがあります。障害福祉のスタンダードではおそらく就労支援というような流れで、喫茶の訓練みたいな形でやるのだと思います。「喫茶店ではこう振る舞う」という“正解”があって、そことズレると訓練される・指導される、というか。カプカプでは、むしろ一人ひとり好きなようにしてもらっています。うち以外では「やめなさい」と止められるかもしれないふるまいも、一人ひとりのおもしろさとして際立たせて、「カプカプ流の接客」ということにしちゃっている。それはやはり、「ここにいるのは一般名詞の“障害者”ではなくて、一人ひとり固有名詞を持った人なんだ」ということを知ってもらいたいからですね。

木村 「障害者」ではなく、一個人として存在が立ってくるということですね。

鈴木 はい。そのような関係を積み重ねていくと、カプカプに来てくださる地域の方の名前も当然覚えますし、ひかりが丘団地での関係がある程度できてからは、ここのことを私も文章で書いて発信するようになって、少なくとも旭区内では知られるようになり、また記事を読んだ人から呼んでもらえれば行って全国各地でも喋るようになってきていたのに……。事件が起きた時、喫茶カプカプがある隣の市の相模原に、まったく何も届いていなかったのかと愕然としたんです。

木村 植松死刑囚が喫茶カプカプを知っていたら、何かが変わっていたかもしれないですね。

鈴木 殺傷してしまった彼は、言葉でのコミュニケーションができない人、それから生産性のない人は無価値だという考え方を持っていた。喫茶カプカプでも言葉を用いない人や、寝ているだけに見える人もいますけど、その一人ひとりが、かけがえのない人なんだということを地域の人にも実感してもらえていたという手応えはあったわけです。福祉の専門家ではない人までも、言語以外の多様なコミュニケーションを楽しむような関わりを創れるのに、やまゆり園ではそんなこともできていなかったのかと、最初は腹立たしくもありました。彼の周りの同僚とか上司がまったくそういう対応ができていないからこそ、植松さんは「無価値」だなんて思ってしまった。でも一方で、やまゆり園の人たちに何も届けられてなかった自分に対して、ほんとうに無力感を覚えました。

写真:阿部太一

オーディエンスを「場」のプレイヤーにする技

木村 地域に根を張るまでは、鈴木さんが外向けに喫茶カプカプという存在について発信しないようにしようと思った、という点に興味が湧きました。つまりそれは、都会の人が興味を持って来てくれるかもしれないけど、その分、地域の方たちが自分ごととして思えなくなって疎外感を感じてしまう。その可能性を気遣ったことが非常に興味深い。
アートは得てして、逆の結果を生みがちですよね。地域アートを例に挙げれば、「アート」なるものが地域にやってきて、一種の経済効果をもたらすとも言われて、確かに興味を持った外の人たちが来てお金を落として帰っていくかもしれない。でも実際は、地元の人との交流がうまくできず、アートが地域との関係を見いだせないままでいることが多いように感じます。そう考えると、喫茶カプカプの場合、カプカプの空間の中にいるオーディエンス(地元のお客さん)を、その空間のプレイヤーにしていくことに注力されたという鈴木さんのお話は、重要な気がします。

鈴木 プレイヤーになってもらわざるを得ないんじゃないでしょうか。そもそも、私が障害というものをどう捉えているかという話になるんですけど、障害福祉には「個人モデル」と「社会モデル」という考え方があります。「できないことで不利益をこうむるのは社会側に問題がある」というのが社会モデルの考え方で、個人モデルでは本人の側に理由があるとされるんですが、社会モデルの方を考えようというのがいまの流れになっています。
ただ、「社会」というとあまりにも大きく、他人事になってしまう。「どこかの誰かのせい」にしてしまいがちなんですけど、そうではなくて、私は「関係」にあると思うんですね。違いは個人にあるけど、その違いによって優劣があったり、一方が有利でもう一方が被害をこうむる状況になったりすることは、それはまさに「間柄」にあって、障害は関係にあるんだと捉えるほうが私にはしっくりくる。そうすると「社会」という大きな話にするよりも、「私」もその関係の一端であるわけだから、違いによって誰かが残念な思いをする世の中だとしたら、「その片棒をかついでいるのは私だ」と、自分ごととしても捉えられる。そこからようやく始まる、という気がしているんですね。あなたも一端であるんだよ、と思ってもらうことから始めたいので、まずプレイヤーになってもらうしかない。ただし、プレイヤーになることを拒絶されたらおしまいなので、どのように働きかけるかがやっぱり重要かなと。

写真:阿部太一

木村 お話を聞きながら「24時間テレビ 愛は地球を救う」のことが思い浮かんでいたんですが、障害を持っている方たちとの共生を謳っているようで、募金はするけれども、結局は「あれはあれ、現実は別」ってところがあって、視聴者と障害を持つ方たちとの間に関係がうまく築けない仕組みになってしまっている気がします。そうじゃなくて、重要なのは「関係」なんですよね。
それと、喫茶カプカプのある地域が、高齢化がはなはだしい場所でよかったという話でもあるかもしれません。僕も何度かお店に伺っていますが、高齢の方たちが、別にやさしさをふりまこうとか、与えようとか思ってカプカプに来ているわけではなく、ただ来ている。遊びに来ている。お客さん自身が自分の弱さを隠さなくてもいい場だと捉えていて、それが来店しやすさや滞在中のリラックスにつながっているのを目の当たりにしたんですよね。関係が生まれる場所で、「お互い、弱いじゃない?」って開示できることが非常に重要なんじゃないかと思っています。障害を持つ人にとっての就労のよりどころ、ではなくて、地域の人たちにとってのよりどころ、開いていないと困る場所になっている。そうなるように鈴木さんの演出がこらされている。そういえば、スタンプカードをつくっているけど、お店で預かっているんですよね?

鈴木 そうなんです。カードをなくす人も多いから、ボトルキープのように店で預かっています。でもそれこそが、その人の固有名を覚えるきっかけになるんです。(障害福祉の仕事として)本来ならばあえて、そんなことまでする必要はないけど、アルバイトさんには名前で呼びかけてくださいと伝えている。固有名で呼びかけると相手も固有名で覚えようとしてくれる。カードをつくらなくて名前を知れなかった人もいたんですけど、今回のコロナ禍では、来店時の検温の際にお名前を伺うことができました。カプカプはそういう関係を築ける場なんですよね。

社会に受け入れられることが本当に「正解」なのか

木村 どの街にもコンビニがあるように喫茶カプカプのような施設があって、人々が自分の弱さを開示できて、そして固有名の関係を持つことができるとしたら、こんな幸福な街はないですね。
健常者も、実際は困る場面に多々遭遇していると思うんですよ。「自分を助けるのは自分しかいない」というところに追いやられていて、わからない、助けてって言えない。助けを求めると社会の不適格者だと思われてしまう。そういうプレッシャーを「普通」の人も抱えていて、しかし弱さを開示できないでいるんじゃないでしょうか。
植松死刑囚の主張の裏側には、「自分自身が、生産性のない人間や、自助努力のできない人間になったらどうしよう?」という不安が強くあるんじゃないかと思うんです。他人をディスるとか、そういう意味では「他人を笑う」ということも、自己肯定感の低さから、自分に対してまた他人に対してやさしくできないことが大きく影響しているのではないでしょうか。

鈴木 そう思いますよ。そこで、「24時間テレビ 愛は地球を救う」の限界は、がんばっている障害者はOKにしようとか応援しようとか、ともかく「条件付き」なんですよね。マイノリティや社会的周縁にいる人たちの中でも、がんばっている、適応しようとしている人のことは少なくとも認めてあげよう、というような。でもやっぱり、「OK」とされない人の方が圧倒的に多いじゃないですか。障害のある人たちの中でも、社会的不適応と言われるような人はたくさんいますが、そもそも私たちの社会の側に、単なる差異として許容されるようなことが差別につながるという現実が、放置されっぱなしである。それなのに、そんな社会に受け入れてもらえるようにがんばることだけが、本当に“正解”なんでしょうか? どうして、その人そのものが肯定されないのか。そういう偽善、欺瞞というものに対して、市原さんは真摯に切り込んでいると思います。

植松さんに対して、その愚行は断じて許せないと思うとともに、私自身としては「殺させてしまった」って感覚が強いんですよね。彼がよりどころにした、人間を序列化する愚かな価値観は私たちの社会に蔓延していて、それに対抗するものを僕らは実践の中で提示してきたはずなのに、彼にはまったく届けられなかった。生きづらいと思っている人の爆発をとめられない、生きづらさをゆるめられていない、価値観を揺さぶれていない、一人ひとりの存在を肯定できていないということでもある。福祉という業界での近さと、相模原とひかりが丘団地という地理的な近さもあって、とりわけそのように感じました。

「他人を笑う」というお話がありましたが、「笑ってはいけない」というのではなく、大事なのはそこに「肯定」があるかだと思うんです。一人ひとりの肯定。笑いでも演劇でも、カプカプでの日常的な表現でも、私が関心を持ち、自分でも心がけているのは、その人を肯定するということ。木村さんの本(『笑いの哲学』)の中にも「愛」という言葉がいくつも出てきましたが、やっぱり肯定は他者への愛だと思う。偽善と言われればそれまでですが、狭い価値観しか認められない世の中でしんどい思いをしている人が多すぎて、私の中にもそれはあるから、なんとかその人のしんどさをゆるめたいと思っちゃうんですよね。カプカプのメンバーの「異なり」へ差別的な眼差しを向けてくる人こそ、生きづらさを抱えているのではないかとだんだん思うようになりました。だからこそ生きづらい世の中に対して怒っていても何も変わらなくって、どうしたらゆるめていけるのか考えていくのが重要だと思います。
そのためには、一人ひとりが肯定されるのが不可欠で。そう思うといまの世の中は口先では「多様性」なんて言いつつ、どれだけ否定されているんだよということでもありますよね。いまの社会で主流となっている価値観こそが問い直されるべきだ、ということを我慢せずにみんなで主張していったほうがいい。その価値観のせいでみんなしんどくなって、ごまかしきれなくなって、噴出する形で殺傷事件が起きている。根本から私たちの生き方を変えていかないといけないと感じています。

木村 そういう意味では、芸術の話をしている場合じゃなくて、愛や人間の話をせざるを得ないぐらい日本社会が追い詰められているのは間違いなくて。そのうえで、じゃ、芸術は何をする? 芸術が提供するものは何なの?ということを、上演までの数ヶ月、考えていきたいです。

左:木村覚、右:鈴木励滋


インタビューシリーズ 『妖精の問題』の「問題(クエスチョン)」を考える 第二回の更新は12月中を予定しています。
  • 木村覚 Satoru Kimura

    1971年生まれ。日本女子大学教授。専攻は美学、ダンス研究。20年以上、日本のコンテンポラリーダンス・舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSを始動。主な著書に『未来のダンスを開発する――フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)、『大野一雄・舞踏と生命――大野一雄国際シンポジウム2007』(共著、思潮社)、『スポーツ/アート』(共著、森話社)、『笑いの哲学』(講談社)などがある。
    BONUS http://www.bonus.dance/

  • 鈴木励滋 Reiji Suzuki

    生活介護事業所カプカプ所長・演劇ライター
    1973年3月群馬県高崎市生まれ。97年から現職を務め、演劇に関しては『埼玉アーツシアター通信』『げきぴあ』劇団ハイバイのツアーパンフレットなどに書いている。『生きるための試行 エイブル・アートの実験』(フィルムアート社、2010年)にも寄稿。師匠の栗原彬(政治社会学)との対談が『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載された。
    生活介護事業所カプカプ https://www.facebook.com/kapuhikari

  • 杉谷紗香 Sayaka Sugitani

    編集者/ライター。1981年大阪生まれ。京都芸術大学情報デザイン学科卒業後、株式会社ワークルームにて書籍や企業媒体の編集・執筆に10年間携わる。2015年に独立し、株式会社ピクニック社を設立。冊子やフリーペーパー、Webメディアの編集・企画制作・執筆・インタビューを多数手がける。2008年より自転車情報フリーペーパー『cycle』編集長。著書に『神戸自転車ホリデー』(2013年 光村推古書院刊)。
    cycleweb.jp

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