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#インタビュー#演劇#レパートリーの創造#2021年度

レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」関連企画

インタビューシリーズ
『妖精の問題』の「問題(クエスチョン)」をひもとく

第二回:卯城竜太(アーティスト/Chim↑Pom)

インタビュアー:木村覚(美学者/「妖精の問題 デラックス」ドラマトゥルク)
編集補助:杉谷紗香、松本花音(ロームシアター京都)
2021.12.15 UP

2021年度の「レパートリーの創造」で上演する市原佐都子 作・演出『妖精の問題 デラックス』。本作でドラマトゥルクを務める美学者の木村覚がインタビュアーとなり、さまざまなジャンルのゲストを迎えて、インタビューシリーズを全4回にわたって展開する。2017年の初演から5年の時を経て本作のリクリエーションをするにあたって、この作品が提起する問題を作者自身も含めてあらためて考え、創作に役立てていく試み。


インタビューの前に:木村覚のメッセージ 

今回、市原佐都子『妖精の問題 デラックス』のドラマトゥルクを務めます、美学者の木村覚です。昨年刊行した『笑いの哲学』では、笑いは良いものか、悪しきものかを問いました。笑われたくない人間の意識を解明しながら、ポリティカルコレクトネスや自虐という現象を分析した上で、笑いの潜在的な可能性を開くユーモアへの道筋を探しました。
今回、インタビューシリーズを通して、表現する側(ex. アーティスト)とそれを受け取る側(ex. 観客)との有意義なつながりを生む「技」を見いだせたらと私は望んでおります。市原は本作を上演するに際して、表現というものがおびうる暴力性を意識しつつも、安易な「事なかれ主義」に陥ることなく、表現する側とそれを受け取る側とがしかるべき関係を結びうる「方法」を探しています。本作は、相模原障害者施設殺傷事件を発端にしており、この点に関連して市原 は「私も事件を起こし得る危うい人間なのかもしれない。事件によって、自分のなかにある優生思想や、自分が抱えている生きづらさを意識させられた。その正体を知りたい、その危うさを見つめなければいけない。そして、できるだけ偽善的ではない方法であらゆる生を肯定することを試みたいと思った」と述べています。ゲストの皆さんとの対話を通して、そのヒントが得られたら幸いです。


 

Chim↑Pom 近影 撮影:山口聖巴

「公」と「個」と「空間」

木村 インタビューシリーズ第二回では、アーティスト集団「Chim↑Pom(チンポム)」の卯城竜太さんにお話を伺います。どうぞよろしくお願いします。
現代美術家の松田修さんとの共著『公の時代』(朝日出版社、2019年9月刊)、読みました。この本でお二人は「公(パブリック)」を問題にされていて、現在の日本では、ヨーロッパの公園のように「あらゆる『個』に開かれている」という意味の「公」だけではなく、「『マジョリティ』園」という言葉で「多くの人にとってはすてきな感じ」というニュアンスの「公」が台頭していることを指摘されています。そして、この「公」には「すてき」ではないものを排除する意味合いが含まれているでしょう。また単に「ボトムアップ」であるばかりか、大衆の側がむしろ積極的にこの傾向に乗っかっている気もします。このような現在の日本社会を卯城さんはどのように見ていますか。

卯城 確かに「トップダウンの公」は、中国のように「人々の自由が抑圧されている」という風でもなく、日本的な特徴を持っている気がします。「トップダウンの公」をマジョリティが望む、というか。でも、『公の時代』刊行から2年経って、また状況は変わっていますよね。時々刻々と状況は変わってしまうので、問題意識があっても個人では解決できないまま、政治家にでもならないと無理じゃないか、みたいなところがあります。とはいえ、「WHITEHOUSE」などの実践の中で、こういうやり方もあるのかな、とわかってくることもあるんです。

「WHITEHOUSE」
2021年4月、卯城竜太が、アーティストの涌井智仁とギャラリー「ナオ ナカムラ」の中村奈央とともに新宿で始めたアートスペース。300名限定のパスポート制で会員制スペースとして運営を行う。撮影:高野ユリカ
https://7768697465686f757365.com/

木村 なるほど。その点、ぜひ聞かせてください。その前に、建築家の青木淳さんをゲストに呼んでいるところが典型的なのですが、『公の時代』で卯城さんが「場」あるいは「空間」を問題にしていることに興味があります。Chim↑Pomの主催した『にんげんレストラン』や卯城さんのWHITEHOUSEもまさに「空間」を作る試みですよね。そこには、「無前提に芸術空間があって、そこに作品を置けば、芸術の表現が成立する」なんていう無邪気なことじゃいけないという姿勢が表れているように思います。作品を置く空間を批評せずに芸術表現は立ち行かない状況にあるのではないでしょうか。
拙著『笑いの哲学』では、笑う者―笑われる者―笑わせる者の三者が織りなす空間を問題にしました。空間が変われば、笑いも変わるわけだから、笑いを普遍的に問うのは不毛で。むしろ「そこがいまどんな空間なのか」ということは、笑いを問う際に無視できない論点だと感じたからです。

『にんげんレストラン』
2018年10月、解体が決まった新宿の「旧歌舞伎町ブックセンタービル」最後のイベントとして、2週間限定で開催されたパフォーマンスイベント&レストラン。撮影:石原新一郎
http://chimpom.jp/ningen/

卯城 確かに、ユーモアって場によりますよね。例えば、友達と話す場なのかとか、お笑い芸人だとしたらテレビとオフでもTPOがあるから笑えることと笑えないことが変わるとか。つまり、笑いはその場の人々が特殊なリテラシーやレギュレーションを共有しつつ生まれるわけで、友達を笑わせる笑いをテレビでしても、テレビの笑いを友達といる場でしても、どちらもおもしろくないわけです。舞台が違うんだから。
その流れで言うと、いまChim↑Pomは森美術館で来年行う回顧展(*注1)の準備をしているんですけれど、森美術館は広く「開いた」場で、だから多くの交渉ごとが必要で、なにごとも難しいところがあります。一方、WHITEHOUSEは「閉じた」場です。でも、同じところがあって、両方とも「実験」なんですよね。開く場所で「開く」実験をしたり、閉じた場所で「閉じる」実験をしたり。どっちも楽じゃないし、どっちが正解ということもないんです。僕としては「実験」ができていれば、やりがいがあれば、どちらも楽しめます。

木村 それぞれの空間の可能性を探究するっていうことですね。

卯城 あと、かつて『ヒロシマの空をピカッとさせる』や岡本太郎の壁画(『Level 7 feat.「明日の神話」』)の時には、いまほどアートが「開かれ」ていない分、公共の場に「アートの論理」を持ち込むだけでバズが起き、アクションがリアクションを生んだんだけれど、いまはある程度リテラリシーが社会で共有され、バンクシーも資本主義に回収されたという状況だから、もう「実験」としては終わっているように思います。

Chim↑Pom《ヒロシマの空をピカッとさせる》(2008年)
2008年、広島・原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を描いた作品。撮影:Cactus Nakao
http://chimpom.jp/project/hiroshima.html

Chim↑Pom《Level 7 feat.「明日の神話」》(2011年)
渋谷駅にある岡本太郎の壁画《明日の神話》右下にある隙間に、福島第一原子力発電所の事故を描いた絵をゲリラ設置したプロジェクト。
http://chimpom.jp/project/real-times.html#lev7

木村 なるほど、社会にアートをぶつける式の発想は確かにもう意味をなさないかもしれません。

卯城 森美術館でできないようなことを提案して交渉もしてみたけれど、無理だし、押し通したとしても中途半端なものになりかねない。さきほど木村さんがおっしゃった「笑いの関係性」の話と一緒で、無理してやっても笑えないものになってしまうかもしれない。だったら森美術館でできることを考えた方がいいなと思う。「閉じる」ことと「開く」ことの両面を持って活動する方が僕にとっては気持ちよくて、「どちらか一方じゃないといけない」とか「どちらかに絞る」ということに違和感を抱くんです。

「実験」と「特異点」を考える

木村 「実験」って興味深いですね。アートにまだ未知数が残っている、ということなんだと思いますけど、(森美術館なら森美術館という)相手を試しているってことでもありますよね。

卯城 『にんげんレストラン』のコラボ相手は、Smappa!Groupという、新宿でホストクラブをいくつも経営している手塚マキさんの会社です。コロナ禍以前の話ですが、新宿をエンターテインメントシティにしようと考えたロボットレストランの経営者が賃貸主というビルがあって、Smappa!Groupはそこを一棟丸ごと借りていたんですね。2018年10月にビルが取り壊されることになり、最後の機会に何かしようという話になったんです。

『にんげんレストラン』 撮影:井手康郎

その時感じたのは、餅は餅屋というか、歌舞伎町という独特すぎる街では、例えば大きな音を出して警察や近隣の人たちが来た時とか、どう対応するかなどは歌舞伎町を熟知している彼らとでないと運営はできない。単純にレストランということもあって仕入れや経営も熟知しているし。

木村 歌舞伎町は、人間の生々しい部分が露わになる場所でもありますよね。

卯城 それこそ生々しい話ですが、2週間の開催期間中、8人の飛び降り自殺が近くであって、目の前のビルでも3人が飛んだんです。『にんげんレストラン』会場の内装には元々、青空レストランとして空と中をつなげるように作られた、ビルを縦に貫く穴があったんですが、その穴と、飛び降りが続く現象とが否が応でもリンクしてしまって。そこで、リスクマネージメントの視点で考えた時に、「これを作品にしてしまおう」と思ったんです。規制線を張るというよりは、作品にしてタイトルを付けて、むしろみんなに開くことで尊重されるようにした。参加アーティストの三野新さんもAokidくんも、この現実に応じて作品を変えていった。
普通の美術館だったらこんな状況では中止しそうなところですが、Smappa!Groupからは一度も「やめよう」とならなかった。そう考えると、(芸術表現と)運営はセットなんですよね。いろんな状況、いろんな場所に応じて、餅は餅屋らしくいろんな運営があり得る、ということなんじゃないですか。美術館ではこういうことができる、それならコマーシャルギャラリーでは、シアターでは、オルタナティブな場なら……と、「舞台」をさまざまな運営の思想で多様化していくこと自体に、いまは可能性があると思う。

『にんげんレストラン』展示風景 撮影:仙波理

木村 美術館って住所を持っていて、必ずどこかの場所に立っているけれども、一方で、その建物の「ホワイトキューブ」的性格として「ニュートラル」なところがあるじゃないですか。

卯城 そうなんですよね。変わらないんですよね、街によってとか。

木村 街に不十分な仕方でしか根付いていない美術館という問題が重要な気がしてきました。

卯城 「ニュートラル」ってわかりやすいですね。アートの前提となるギャラリー空間というのはどうしてニュートラルな位置付けになるんだろう?と考えた時に、アートがやたらと「普遍」を振りかざすことと関係があるかもしれないですね。「ニュートラル」と「普遍」がつながってしまう感じ。例えば、あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』(*注2)の騒動でよく言われた、「公金を使うなら、政治的中立なアートでないと」みたいな意見だったり、街に招かれたパブリックアート作品がしばしば抽象的なかたちをしていたり。

木村 (笑)

卯城 普遍性はあるかもしれないけど、具体的なことは感じさせないようにしている。これって「ホワイトキューブ」という概念と近い気がするんです。半年前に、ドゥルーズという哲学者のインタビュー映像(『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』KADOKAWA刊、2015年)を見た時に、おもしろいなあと思ったのが、哲学や芸術は普遍性と一切関係ない、ただの特異点だからってドゥルーズが言うんです。ああ、確かに、と。
自戒を込めて言うと、トークの場でアートの普遍性とか口にしたりしていたんですが、振り返ったら、自分たちが作品を作る上で、プランとか立てる時にはそんなことほとんど考えていなくて。それより、時代の特異点になるものを作ることにしか興味がなかった。そういうものを作れば社会に影響が残るし、それによって普遍的になるかもしれず、特異点こそ普遍とつながるはず。そう思うんだけど、世の中では「ニュートラル」=「普遍」みたいな発想が先に出てきてしまう。

Chim↑Pom《堪え難き気合い100連発》(2015年)
あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』は、日本で過去に何かしらの理由により展示ができなくなった作品を集めた展覧会。展示不許可になった作品がその理由とともに展示され、大きな話題となった。同展ではChim↑Pomが東日本大震災後に制作した《気合い100連発》と、それが検閲対象にもなった《堪え難き気合い100連発》も出展された。
https://aichitriennale2010-2019.jp/2019/artwork/A23.html

「観客」と「運営」とその都度の「レギュレーション」

木村 ここで聞いてみたいのは観客のことです。卯城さん(あるいはChim↑Pom)にとって観客ってどういう存在ですか。

卯城 舞台設定というか、時代によって観客は違うじゃないですか。時代によって通じるユーモアが違うように。観客が作品を受け取って作品から影響を受けることで、作品が自分たちから離脱してゆく、自立してゆく。その時、一回一回、舞台設定が変わる。マンチェスターだ、イスラム圏だ、東京だ、芸術祭だ、美術館だ、WHITEHOUSEだ……とか。

木村 あいちトリエンナーレでは、あのような状態になったことで、思いがけないオーディエンスがアート関係者の目の前に現れたわけですよね。

卯城 でも、観客と大衆を分けることは重要ですよ。あいちトリエンナーレにクレームをつけてきた人たちが観客だったのかという点では、ただの大衆だった可能性があるのではと思っていて。『ピカッ』の時も岡本太郎の時も、大衆が相手になっていたところがありました。でも、実際に現場で作品を観ないで、情報の思い込みだけでアプローチしてくる人までを、僕は観客とは捉えていません。観客は作品をちゃんと鑑賞する人たちだと思うし、「鑑賞」はインターネットの中でも成立するなどと言われるかもしれないけれど、それを認めすぎるのも馬鹿らしいなと思います。どのクレームに対しても本当に対応しなければならないものなのか、と(でも森美術館はそれを余儀なくされていて、その事情に応じた展示を模索する必要があります)。
その上で、僕自身がWHITEHOUSEを運営する中で、大切なのは観客との関係性だと気づいたのもあって、いまは「観客」を捉え直したいという想いがあります。

木村 なるほど。卯城さんの思考の内に「多チャンネル化」という発想がある気がします。チャンネルを一個だけと捉えないから柔軟に進めることができる、というか。その発想に至るのに、とりわけWHITEHOUSEの存在は大きいのではないでしょうか。

卯城 でも、最初に言っていたことが通用しないこともわかってきて、そのことも「実験」とすればおもしろく捉えられています。WHITEHOUSEではこれまで7か月で5つの展示を行ったんですが、有料会員しか見られないパスポート制を生かしたハードコアな展示もあれば、作家によってレギュレーションやルール自体が変わるものもある。磯崎隼士の個展『今生』は24時間営業にしたり、クサムラ・マッド・ラットの個展では会員以外が入場する場合は合言葉が成立する人だけ入れたりとか。その合言葉も、受付にいる僕が「好きです」と言うと、「ごめんなさい」と答えるというものだったり。
隼士くんの場合、彼は自分の血液を5リットルほど用いた作品で、でも過激さを意図したものではなく、自然な素材として用いるんだけど、打ち合わせは毎回、彼の住む横須賀に行って山の頂上で何時間にもわたって行うんですね。360度が見渡せて、山も海も街も見えるような場所で。こういう世界の中にやりたいことがあるんだってわかってくるんです。自然の光の変化によって景色が変わる――これがキュレーションでも大事なのではと思い、その個展では照明を入れるのをやめて、自然光で体験できるようにしたことから、どの時間でも見られるほうが作品の見え方も変わる、と24時間営業にしたんです。ドアの鍵もあけっぱなしにして。

磯崎隼士 個展『今生』 撮影:高木遊

木村 空き家みたいな設定ですね。

卯城 そう。自然の中と同じように、「開く」とか「閉ざす」とかいう主観的な意図を無くし、ただ「あいている」舞台にしよう、と。そうすると、確かに作品の見え方が変わるんです。何度か、夜中に気になって行ってみたら、部屋の中は真っ暗で何も見えなくても、作品に使われた血の匂いがして、明らかに何かがあるってわかる感じで。でも誰もいなくて、電気が消えていて…。や、一度知らない女性がいましたね。2階に上がったら女性がその場で寝ていたんです。

木村 空き家に猫がいついちゃったみたいな話ですね。

卯城 家出をしたらしく、「ここ、24時間なんですよね?」って真っ暗な中で聞かれました。ただ、会場は磯崎新設計の重要な建物で、1960年にはネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(*注3)の活動拠点でもあった美術史上重要な場所なんですけど、僕は管理者として管理や保全をする責任があるわけです。でも、その責任に抵触しそうな運営って、できるのかな?と思った。そこで、WHITEHOUSEのパスポート会員に集団管理を呼びかけたんですよ。「会場を何度も訪ねてきてください」と依頼したり、無料民泊OKにして泊まりたい人はどうぞと促したり。会員の方々からは個人情報をいただいているし、宿泊に際してのレギュレーションも新設して対応することで、信頼関係を持っても良いと判断した。結果、スタート時点では「観客」として設定された人たちと一緒に場の管理や運営を行うことになって、その一連のプロセスがおもしろかった。

「WHITEHOUSE」 撮影:高野ユリカ

木村 管理者になった途端に、観客の“鑑賞”は明らかに変化するでしょうね。観客を単なる「観客」にしない、観客の役割を多様化することが、新鮮な場の創造につながってくるということですね。

卯城 以前、商店をテーマにした建築雑誌からインタビューを受けた時に「公共性」の話になって、その時聞いたのは、商店街の公共性ってやっぱり「多チャンネル」なんだそうです。重要なのはいろいろなお店があること。商店の話と捉えるとあまりピンと来なかったんだけど、WHITEHOUSEで言えば、ユニークな建物でサイトスペシフィックな展示を余儀なくされるところで、結果、毎回まったく違う場所になっていくんです。
商店の場合、個々の店主がオーナーでオーサーシップを発揮するわけですが、WHITEHOUSEのオーナーたる僕自身は一定のオーサーシップがキープできずにいるんですね。なぜなら、個展するアーティストやコレクティブの表現によって、インスタレーションの変化はおろか、毎回ルールやレギュレーション、開館時間などががらりと変わることになるから。でも、アーティストはそうあるべきだし、Chim↑Pomはそうやってきたから、そうした変更については100%受け入れたいんです。

木村 個々のアーティストの「特異性」をどうやってキープするのか、ということですね。

卯城 特異点のアーティストが毎回その場のレギュレーションを変えていく。そうなると管理・運営者がその変化自体を管理や運営の特性と捉えるようになる。それこそ、その場が「ニュートラル」であることの意義になるのかなと思います。管理者の僕は管理者としては育たなくて、毎回素人の管理人をやっている感じです。

木村 でも、そういうあり方を卯城さんが志向しているわけですよね。一定のルールやレギュレーションを決めてしまえば楽だけど、そう決めないって決めたということですよね。その意味で、ただ「ニュートラル」に場の管理をしているのではなく、特異点が生む場の演出をしているのではないでしょうか。

秋山佑太 個展『Supervision』 撮影:松尾宇人

渡辺志桜里 個展『べべ』 撮影:WHITEHOUSE

卯城 「ここはこういう場です」ってアーティストに言っても意味ないだろう、という想いもあって。まあ、そういうアーティストを呼んでいるんですけど。まさに自分がそういうアーティストなんですよね。レギュレーションとかルールとか、僕は「世界は変えられる」とどこかで信じていて、一つの展覧会で一つの場所すら変えられなかったら、何にもできないじゃないですか。
一つの場は誰にどう運営されるべきか?という問いは、引いて見ると「世界は誰にどう運営され得るか」ということの実験でもあるように考えています。展示が一時的に生まれるパラレルワールドだとしても、その瞬間はその変化が社会に実装されるというか。
アーティストが違えばそれぞれの変化が社会に実装されるわけで、そうであればアーティストの存在が社会にあるべきものとして立ってくる。みんながバラバラであれば、その変化をお互い楽しめるじゃないですか。ギャラリーや美術館も、ただ内装が変わるみたいに展示を変えるのではなく、社会が変わるようなことをするべきだと思います。ただ、トップダウンによって与えられたレギュレーションに応えるのではなく、舞台設定も含めて変えていくことがアーティストに求められているのだと思うんです。

木村 今日お話を聞きながら、Chim↑Pomの初期作品《ともだち》(*注4)のことをずっと憶い出していました。恐ろしく、また稀有な意味を持つあの作品のように、いまでもChim↑Pomや卯城さんは、自分たちの予測やコントロールを凌駕するものに向き合い、その出会いを「実験」として大事にしながら、作品へと昇華させているだな、と再確認しました。

卯城 特異なことを経験してきたからこそ、特異点を大切にしたり、それをどう見せるかを思案できたりするのかもしれません。

木村 なるほど。「実験」「特異点」「多チャンネル」など、重要な概念がいくつも出てきました。この企画になんらか活かせたらと思います。本日はありがとうございました。

卯城 ありがとうございました。

左:木村覚、右:卯城竜太

1:「Chim↑Pom展(仮題)」
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/chimpom/index.html
森美術館(東京)で2022年に開催予定。初期から近年までの代表作と本展のための新作を一堂に紹介し、結成16周年を迎える活動の全貌を展覧会形式で検証する。

2:あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』
https://aichitriennale2010-2019.jp/2019/artwork/A23.html
日本で過去に何かしらの理由により展示ができなくなった作品を集めた展覧会。展示不許可になった作品がその理由とともに展示され、大きく話題となった。同展ではChim↑Pomが東日本大震災後に制作した《気合い100連発》と、それが検閲対象にもなった《堪え難き気合い100連発》も出展された。

3:ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ
https://artscape.jp/dictionary/modern/1198350_1637.html
1960年、吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作らが結成したグループ。アナーキズムを標榜し、従来の一切の芸術概念に反旗を翻した「反芸術」を実践した。

4:Chim↑Pom《ともだち》
2007年に発表された初期の代表作。この作品についての木村による論考「愚かであることの可能性」(2008年)は、木村のnote(2020年)の末尾に付録している。
【自著再考】 「愚かであることの可能性」(初期Chim↑Pom論)を2020年にもう一度、考えた
https://note.com/kimura_satoru/n/nbace9d7a516c#pmmUf

画像クレジット
©︎Chim↑Pom Courtesy of the artist, ANOMALY and MUJIN-TO Production
©︎WHITEHOUSE Courtesy of the artist

  • 木村覚 Satoru Kimura

    1971年生まれ。日本女子大学教授。専攻は美学、ダンス研究。20年以上、日本のコンテンポラリーダンス・舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSを始動。主な著書に『未来のダンスを開発する――フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)、『大野一雄・舞踏と生命――大野一雄国際シンポジウム2007』(共著、思潮社)、『スポーツ/アート』(共著、森話社)、『笑いの哲学』(講談社)などがある。
    BONUS http://www.bonus.dance/

  • 卯城竜太 Ryuta Ushiro

    Chim↑Pomメンバー。Chim↑Pomは、2005年に東京で結成されたアーティストコレクティブ。時代のリアルを追究し、現代社会に全力で介入したメッセージの強い作品を次々と発表。世界中の展覧会に参加するだけでなく、自らもさまざまなプロジェクトを展開する。
    また、ソロとしてはオーガナイザーとしての活動の他、執筆などを続けている。
    2022年、森美術館にて新作を含む大規模回顧展を開催予定。
    http://chimpom.jp/

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