はじめに 太陽劇団、アリアーヌ・ムヌーシュキンとその作品
1964年に創設された太陽劇団(Théâtre du Soleil)は、設立から60年近く、世界的に知られるようになってからもすでに半世紀以上の歴史を持ち、今日においてもフランスとヨーロッパを代表する集団である。設立以来、劇団を率いるアリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)は1939年生まれであり、日本のアングラ世代の演出家、鈴木忠志(1939年生)や唐十郎(1940年生)と同世代であり、美学的・思想的にも共通点が多い。19世紀末以来の民衆演劇(théâtre populaire)運動の流れを継承し、演劇における民主主義の実現に貢献すると同時に、ヨーロッパの前衛演劇の旗手たちと同様に、ヨーロッパ演劇の伝統には飽きたらず、「東洋」——神秘化・理想化されることも多く、特に今日では問題を孕んだ概念でもある——に演劇と俳優術の根源を求めて、実験と探求を重ねてきた。
1968年の五月革命の熱狂と混乱もまだ醒めやらぬ1970年に初演され、フランス革命を主題とすると同時に現代演劇にも「革命」を引き起こした『1789』(観客動員28万1370人、数字は劇団ウェブサイトによる<以下同様>)、その続編ともいうべき『1793』(初演1972、10万2100人)によって大きな成功を収め、その存在は世界中に——佐伯隆幸らによって日本においても——知られることとなった。コンメディア・デッラルテに着想を得た『黄金時代』(L’Âge d’or, 1975、13万6080人)、クラウス・マンの小説を翻案した『メフィスト』(Mephisto, 1979、16万人)がそれに続いた。
1980年代には『リチャード2世』(Richard II, 1981)、『十二夜』(La Nuit des rois, 1982)、『ヘンリー4世』(Henry IV, 1984)からなるシェイクスピア・サイクル(Les Shakespeare、計25万3000人)が上演された。これによって1982年、ムヌーシュキンは教皇庁栄誉の中庭にてアヴィニョン演劇祭の開幕を飾る最初の女性演出家となった(2023年の今年になってようやくジュリー・ドゥリケJulie Deliquetがそれに続いた。いずれもジャック・ルコック国際演劇学校の出身であるのは興味深い)。その後、『アウリスのイフィゲネイア』(Iphigénie à Aulis, 1990)、『アガメムノン』(Agamemnon, 1990)、『供養する女たち』(Les Choéphores, 1991)、『慈しみの女神たち』(Les Euménides, 1992)の4作品からなる「アトレウス家の悲劇」サイクル(Les Atrides、計28万6700人、1作目はエウリピデス作、後の3作品はアイスキュロス作『オレステイア』三部作)によって、その評価は揺るぎないものとなった。
その後も『タルチュフ』(Le Tartuffe, 1995、12万2000人)、『堤防の上の鼓手 俳優によって演じられる人形のための古代東洋の物語』(Tambours sur la digue — sous forme de pièce ancienne pour marionnettes jouée par des acteurs, 1999、15万人)、『最後のキャラバンサライ(オデュッセイア)』(Le Dernier Caravansérail (Odyssées), 2003、18万5000人)、『はかなきものたち』(Les Éphémères, 2006、動員数不詳)、『フォル・エスポワール号の遭難者たち』(Les Naufragés du Fol Espoir (Aurores), 2010、10万人)などの名作を発表し続けてきた。半世紀以上にわたって、フランス演劇界で最も高い知名度を誇る(そして最も手厚く文化省の助成を受ける)劇団のひとつであり続けていることは特筆すべきことだ。
そうしたこれまでの業績が評価されて、2019年には京都賞を受賞したことも記憶に新しい。このたび東京と京都で上演されることになった『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』(以下『金夢島』、L’Île d’or — Kanemu-Jima, 2021)は、そのムヌーシュキンが『堤防の上の鼓手』に続いて日本とその演劇と文化に直接に取材してつくり上げた作品であり、日本公演は同作の2001年新国立劇場公演以来となる。京都賞授賞式の際に自ら語ったように、1963年に日本を訪ねた経験がムヌーシュキンの日本に対する関心、ひいては彼女の演劇そのものの原点にある。
独特の集団性 集団創造
太陽劇団の特徴はその独特の集団性にある。半世紀以上にわたって、アリアーヌ・ムヌーシュキンの強い個性とリーダーシップのもとに置かれた集団であるとともに、俳優を中心に据えた集団でもある。重要な決定は劇団の構成員による投票によって下され、その作品はしばしば集団創造のかたちをとる(『金夢島』もそうである)。
太陽劇団はSCOP(Société coopérative de production、生産共同組合)の法人格を持つが、SCOPにおいては従業員が株主となり、平等に利益が分配される。太陽劇団においては70〜80人が常勤で雇用され、月給2000ユーロが平等に支払われているという。俳優は舞台に立って演じるだけでなく、舞台装置の製作など裏方の仕事も同時にこなしている。カルトゥーシュリ(旧弾薬庫)では、幕間に提供される食事や飲み物も、舞台衣裳と化粧もそのままの俳優たちによって給仕されるし、そもそも、劇場の入口で「もぎり」として観客を迎え入れるのは、今も変わらずムヌーシュキンその人なのである。
俳優の道の追求 劇団を支える俳優と人脈
太陽劇団は、まず俳優の集団である。俳優の道を追求して極めるために、インド、中国、インドネシア(バリ)、日本をはじめ国外から数多くの俳優や芸術家を招き、ワークショップを重ねる。『金夢島』の創造プロセスにおいても、日本の関係者だけに限っても喜多流能楽師の大島衣恵(きぬえ)、和泉流狂言師の小笠原由祠(ただし)、横澤寛美ら前進座の複数の歌舞伎俳優、そして元鼓童の大塚勇渡(はやと)らが協力している。太陽劇団に招かれた芸術家はしばしばARTA(Association de recherche des traditions de l’acteur、俳優伝統探求協会)においてもワークショップの講師を務める。ARTAは1989年に設立され、太陽劇団と非常に関係が深く、同じカルトゥーシュリを拠点としている組織である(劇団の俳優や関係者が歴代の——後述するベルッジ=ヴァヌチーニ、デュロジエ、ビゴが現在の——芸術監督を務めている)。
現在の劇団を中心を担っているのは、ブラジル出身のジュリアナ・カルネイロ・ダ・クーニャ(Juliana Carneiro da Cunha)、母もまた太陽劇団の俳優であったエレーヌ・マドレーヌ・ポール・サンク(Hélène Madeleine Paule Cinque)、イタリア出身のドゥッチオ・ベルッジ=ヴァヌチーニ(Duccio Bellugi-Vannuccini)、フランスでも有名な旅回り一座の家系に生まれたモーリス・デュロジエ(Maurice Durozier)、一度劇団を離れ、『金夢島』で再び太陽劇団に合流したジョルジュ・ジャック・ビゴ(Georges Jacques Bigot)、日本出身の小野地清悦(Seietsu Onochi)らの名優たちである。ほかの作品と同様、『金夢島』においても、俳優のほとんどは複数の役を一人で演じている。
太陽劇団を離れた後にさらにキャリアを築いた俳優の名前も何人か挙げよう。1970年代に看板俳優を務めたフィリップ・コーベール(Philippe Caubère)、1980年代後半に劇団に所属したアルジェリア系のジネディーン・スワレム(Zinedine Soualem)とアルメニア系のシモン・アブカリアン(Simon Abkarian)らは俳優・演出家として、舞台で映画・テレビで活躍している。1990年代初頭に俳優を務めたクリストフ・ローク(Christophe Rauck)は演出家となって、ビュサン人民劇場、サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場、リールのノール劇場を経て、現在はナンテール=アマンディエ劇場のディレクターを務めている。
そのほかにも、パリ第8大学の教授となったジャン=フランソワ・デュシーニュ(Jean-François Dusigne)やフランシュ=コンテ大学(ブザンソン)で教授を務めたギイ・フレクス(Guy Freixe)ら、研究の道に進んだ俳優もいる。太陽劇団における俳優の道の追求が、多くの人材を輩出し、様々な可能性を拓いてきたことが分かるだろう。
俳優の多様性 移民と難民
太陽劇団は20を超える多国籍の俳優から構成されているが、これは今日のフランスでも依然として例外的なことである。その中には難民としてフランスに逃れてきた者も含まれている。アリアーヌ・ムヌーシュキンは、それが正規であろうと非正規であろうと、移民・難民の擁護者である。そこには、(ときにフランス人自身の意識に反して)フランスが歴史の古い移民国家であり、かつてはヨーロッパ諸国から、今日では旧植民地を中心に世界から移民を受け入れてきた伝統を持つことはもちろん、アリアーヌ自身、ロシアから亡命してきたユダヤ系のアレクサンドル(Alexandre Mnouchkine, 1908-1993)を父に持つこと、第二次世界大戦中のドイツ占領期にその家族の多くが収容所に送られたことも影響しているだろう。無声映画の撮影現場を舞台とした『フォル・エスポワール号の遭難者たち』は、フランスでも著名な映画プロデューサーであった亡き父に捧げられたオマージュであった。太陽劇団の近年の作品の多くは、ムヌーシュキン自らの手によって、単なる記録映像を超えて、新たな撮影と編集を加えて映像作品化されているのも、父の影響といえるだろう。
1996年、非正規滞在者たちが正規化を求めてパリ市内の各所(サン=ベルナール教会の占拠によって特によく知られる)を占拠したときには、300人を一時的にカルトゥーシュリに迎え入れた。ムヌーシュキンのそうした移民・難民問題に対する意識は、『そして突然、眠れぬ夜が』(Et soudain, des nuits d’éveil, 1997、5万5000人)、そしてとりわけ『最後のキャラバンサライ』(2003)に結集している。2000年前後の数年間、ドーヴァー海峡に面したカレー近くにあるサンガット難民センター(Centre de Sangatte)には多くの難民が——劣悪な環境の中で——収容されていて、彼らはユーロトンネルに向かう貨物列車に飛び乗って、鉄路で英国を目指そうとしていた。『最後のキャラバンサライ』は、絶望と希望が隣り合わせるその施設を作品の入口としつつ、多くの難民から聞き取った、彼らの人生の苦難の道のりをエピソードとして集めている。この作品は2005年、アフガニスタンのカブールでも上演され、同時に開催されたワークショップをきっかけに、アフターブ劇団(Théâtre Aftaab、アフターブは「太陽」の意)が生まれるもとになった(政情の不安定化に伴って劇団は解散したが、一部はフランスの太陽劇団に合流した)。
そうした俳優の全員がフランス語を母語とするわけではないとして、それが問題とならないような作品、演技と演出が目指されているのだ。文化は誰のものでもなく、みんなのものである、あらゆる俳優は、自らの出自や母語や肌の色によらず、どんな人間でも演じうる、そうしたユートピア的普遍性は太陽劇団の信条でもある。そのことをあらためて再確認させたのは、ロベール・ルパージュ(Robert Lepage)を外部から演出に招いてつくられた『カナタ エピソードI 論争』(Kanata — Épisode I — Controverse, 2018、2万7240人)が「文化の盗用」(cultural appropriation)批判の対象となり、主にカナダ芸術評議会の助成金が下りなかったことによって、上演自体が危ぶまれたときであった。カナダ先住民の暗い歴史を舞台化する際に、俳優や作家の中に先住民が含まれていなかったことが、カナダの先住民コミュニティによって問題視され、強く批判されたのだ。一度は公演そのもののキャンセルがアナウンスされたものの最終的には実現にこぎつけ、ムヌーシュキンはひとまずキャンセル・カルチャーに抗って自分の信念を貫いたかたちである。
カルトゥーシュリ 軍事施設から文化施設へ
太陽劇団の金字塔的作品『1789』の上演会場となったカルトゥーシュリ(Cartoucherie)は、パリ市の東端ヴァンセンヌの森の中にあり、フランス軍が所有しながらも放棄されていた弾薬庫・工場跡であった。それが、『1789』をきっかけとして軍事施設から芸術の場へと変貌し、今では太陽劇団、アクアリウム劇場(Théâtre de l’Aquarium、「水族館」「水槽」の意)、タンペット劇場(Théâtre de la Tempête、「嵐」)、エペ・ドゥ・ボワ劇場(Théâtre de l’Épée de bois、「木の剣」)、アトリエ・ドゥ・パリ(Atelier de Paris – CDCN)の5つの劇場組織が並び立つ、小さな劇場都市に生まれ変わっている(とはいえ、カルトゥーシュリといえば、今日でもまずは太陽劇団の代名詞である)。
カルトゥーシュリ内部の巨大な空間は、作品ごとにその姿を変え、舞台と客席(そして両者の関係)、さらに楽屋(やってきた観客の目に必ず留まるように配置されている)、ホワイエ(食事・休憩スペースを兼ねる)が新たに設計・構築される。上演される作品が日々、同一ではありえないように、カルトゥーシュリの劇場空間そのものも、作品が異なれば(外観を除いて)同一ではないのだ。「舞台美術」という言葉には収まりきらない、そうしたセノグラフィといえば、ギイ=クロード・フランソワ(Guy-Claude François、1940-2014)の名前と不可分であった。太陽劇団の作品のセノグラフィは、劇団創設期から2014年に没するまで彼が手がけてきた(『金夢島』の舞台美術はムヌーシュキンの考案に基づいている)。
同じように、太陽劇団の音楽といえばジャン=ジャック・ルメートル(Jean-Jacques Lemêtre、1952年生)である。1979年以降、自ら作曲を手がけるとともに、舞台の傍らで多種多様な楽器を使いこなす彼の姿は、太陽劇団の作品と切り離せないものとなった。そしてテクスト(戯曲)といえばエレーヌ・シクスー(Hélène Cixous、1936年生)の存在が欠かせない。シクスーはパリ第8大学で教鞭をとった英文学者・フェミニズム研究者であり、作家・劇作家・詩人でもある人物だが、1984年頃から太陽劇団に欠かせない協力者となった。ときに戯曲そのものや翻訳を提供し、ときに集団創造で生み出されたテクストを完成に向けて織り上げていく。エラルト・シュティーフル(Erhard Stiefel、1940年生)は、能楽の仮面に出会ったことをきっかけとして、ヨーロッパにおける演劇の仮面製作の第一人者となった人物だが、1970年代から太陽劇団の仮面製作にたびたび関わり、『金夢島』の人形製作も手がけている。そしてシャルル=アンリ・ブラディエ(Charles-Henri Bradier、1974年生)が、1995年から現在に至るまで、ムヌーシュキンの右腕として、劇団を切り盛りしている。彼らの名前は『金夢島』にもクレジットされている。
コロナ禍を超えて
『金夢島』は、2020年春から世界を襲ったコロナ禍によって、創造過程においても大きな困難と遅延を強いられた。2020年春に佐渡島で予定されていたワークショップは実現できないままに終わった。2021年秋の東京芸術劇場およびロームシアター京都で予定されていた日本公演(世界初演となるはずだった)も、プロセスに大きな遅れが生じたこと、日本政府による厳しい入国制限が続いていたことを受けて延期を余儀なくされ、同年11月にカルトゥーシュリで初日を迎えることになった。作品冒頭、日本に恋焦がれるコーネリアは、眠れぬ夜を過ごすうちに日本の夢、夢の日本を見ることになるのだが(したがって「ありのままの日本」ではない)、その姿にはムヌーシュキンや劇団関係者の苦悩と憧憬も投影されているのである。
紆余曲折を経ながらも来日公演がまさに満を持して実現したことを喜びつつ、この作品が日本の観客にいかに受け止められるのか、私自身も楽しみに待ちたいと思う。