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#公演評#演劇#2023年度

太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ) 「金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima」公演評

悪夢のなかで希望を生きる―太陽劇団『金夢島』

文:太田耕人(演劇批評家、京都教育大学学長)
2024.4.1 UP

撮影:桂秀也

 太陽劇団の集団創作『金夢島』は、アリアーヌ・ムヌーシュキンと俳優陣、エレーヌ・シクスーによるテクストに、絵画のようにうつくしい美術とルメートルの音楽が配され、演出ムヌーシュキンの美意識が細部までゆき届いた作品になった。
 フランスでの初演は2021年。新型コロナによる約1年の延期の末、パリ東郊ヴァンセンヌの森にある劇団の本拠地カルトゥーシュリ(旧弾薬製造工場)で上演された。夜間外出禁止令も発出されたパリで、人々の活動も演劇も、ようやく息を吹き返した時機である。自身も罹患したムヌーシュキンは、コロナ禍の状況に言い及びつつ、比喩的な意味で「病んでいる」世界の情勢をバーレスク風に戯画化した。
 初老の女性コーネリア(前作「インドの部屋」にも登場した)は、病床で感染症の熱に浮かされ、夢の中で架空の島「金夢島」に到着する。そこでは、漁港の古い船庫で、女性市長の山村と市長の右腕である安寿が、地域興しの国際演劇祭を計画している。次期市長を狙う助役・高野、島の漁業会社の株主である渡部は、演劇祭を失敗させ、山村を追い落とそうと謀る。礎石に媽祖が宿ると言われる船庫は更地にし、港も埋め立てて、カジノを誘致しようというのだ。「金脈」に引き寄せられて、悪徳弁護士の広川、ラスベガスの回し者ジャン=フィリップが一味に加わる。文化振興と環境保護を掲げる市長派は女、金と権力を求める反市長派は男と、善悪の構図が示される。ただし、市長派のうち、市長秘書の海斗だけは男で、スパイとして反市長派に潜入する(広川操縦のヘリに海斗が乗るシーンは、クレーンでヘリが動かされ、スペクタクルな見せ場になる)。
 下敷きにあるのは、ムヌーシュキンが2017年に訪れた金山の島、佐渡。親鸞や世阿弥ら知識人、芸術家が遠流され、30以上の能舞台が残り、文弥人形の人形芝居が伝承されている。35年続く国際芸術祭には鼓童が出演し、1万数千人が集まる。「日本のあらゆる自然や文化が凝集」(ムヌーシュキン)されている地である。
 むろん金夢島は、現実の佐渡ではない。漁業中心の鄙びた島、「神仏の加護で…守られ疫病の恐れはない」(海斗)ユートピアである。コーネリアの夢の中に学生時代の恩師スピノザ先生が現れ、「乳と神酒の川」が流れていた黄金時代を巡る一節をオウィディウス『変身物語』から引用する。その印象が金夢島に重なる。
 劇は何重にも入れ子構造を成している。演劇祭で上演される劇があり、その外に金夢島の世界があり、その外に島の夢をみているコーネリアがいる。彼女はムヌーシュキンの分身よろしく、ト書きを語り、俳優に指示を出す。さらに言えば、彼女の世話をする守護天使ガブリエルは黒子姿であり、黒子が彼女を操っているようにもみえる。入れ子構造が意識され、劇の虚構性が暴かれるたび、(ブレヒトのいう)「異化効果」が生じる。観客は醒めた現実へ引き戻され、突きつけられた課題を自ら思索するよう仕向けられる。

撮影:桂秀也

 異化効果を生じさせるには、異質なものを差し挟むのが常套手段である。ブレヒトは歌を挿んだが、ムヌーシュキンは文学作品の一節を差し込んだ。リルケ、ボルヘス、イランの詩人アクマド・シャムロウ等が引用される。例えば、警備員の明は、登場するなり、17世紀英国の詩人ジョン・ダンの散文を朗誦する。「人間は誰も完全なる孤島ではない/誰もが大陸の一片/本土の一部だ…誰が死んでも私は心を削られる 私も人類の一部だから/それゆえ問うな 誰がために弔鐘は鳴るのかと/鐘はあなたのために鳴っている」。ダンは疫病で重篤になった際、この『不意に発生する事態に関する瞑想』を書き、疫病との闘いにかけては、個人は人類全体とつながっていると訴えた。同様に、拝金主義という病との闘いにおいて、金夢島で起きることは世界全体で起きていることとつながっている。金夢島は世界の暗喩なのである。
 キャスター付きの台の上に載った美術を、俳優が舞台に押し出す。瞬く間にそれらを組み立て、解体し、場面が転換する。居酒屋、書店、露天風呂(全身タイツを着た「裸体」の俳優が入浴する)、噴火するミニチュアの富士山、満開の桜…。病床に臥せるコーネリアも、脚車付きの病院用ベッドをガブリエルに押させて、舞台を横切る。海辺らしく、北斎「神奈川沖浪裏」の大浪が背景になり、最後には歌舞伎の波幕も使われる。正面高くの窓からは、港の風景が見え、印象的な図像も覗く。パスティーシュ風の美術は、二十歳代のムヌーシュキンが衝撃を受けたという、浅草の大衆演劇に通じるキッチュな美を宿している。

撮影:桂秀也

 国際演劇祭参加の劇団は、いずれも政治的、社会的な問題を抱えた地域から来ており、その問題を反映した作品を演じる。中東、香港、アフガニスタン、ブラジル…。使用言語も、25カ国以上の俳優が属す太陽劇団らしく、日本語、フランス語(変則的に動詞を文尾に置く)に加え、ポルトガル語やペルシア語も織り込まれる。
 中東一座「偉大なる平和劇団バベル」の団員はパレスチナ人とイスラエル人の夫婦で、アラブ語とヘブライ語が飛び交う。夫が作り物のラクダに跨って長々と独白を語るため、芝居は遅々として進まない。「中東和平より遅い」と怒って、妻はラクダの引き綱を持ったまま退場する。引き綱に引っ張られてラクダの皮が剥がれ、木枠がむき出しになり、失笑を買う。
 深刻な政治諷刺もある。まず、スピノザ先生がドストエフスキー『罪と罰』を引く――シベリアの監獄で発熱したラスコーリニコフが、感染症がアジアで蔓延する夢をみるくだりだ(140年前の予言!)。その直後、島の文弥人形の劇団が現代中国を題材にした新作を試演する。武漢の医師、李文亮がいち早く新型感染症に気づき、宴の中止とマスクの着用を訴える。だが当局に逮捕され、それでも諦めずに直訴するが、習近平に罵倒される。
 ちなみに、『金夢島』の俳優たちは肌色のごく薄い生地で顔面を覆っている。透かし見える表情にはぎごちなさがある。そのせいで、人形を遣う俳優たちも人形のように見えてしまう、なんとも不思議な感覚を私は味わった。
 香港の劇団「民主主義=我が要望」は、巨大な椅子を舞台に据えた。ノーベル平和賞授賞式の際に、獄中にいた天安門の闘士、劉暁波のために用意された空席の椅子である。天安門事件を追悼する劉の詩が読み上げられる。やがて、稽古中の演出家に、香港にいる伯母から緊迫した電話がかかってくる。九龍の繁華街・旺角で、抗議活動中の民衆と警察が衝突したという。伯母が身を隠すレストランにも警官隊が押し寄せるところで、電話は切れる――。
 その後も、いかにも夢らしく雑多な出来事を巻き込みながら、劇は最終的には希望を示唆する結末に向かう。高野と渡部が捕縛され、パンチ・アンド・ジュディよろしく、滑稽にスラップスティックで叩き合い、罵り合いながら連行される。巨大な鶴の被り物が数羽登場し、佐渡で永く見られていない、「吉祥」の鳥が飛来したことが示される。最後は全員が登場し、英国歌手ヴェラ・リンの「また逢いましょう」(1939)に合わせて舞い納める。「♪どこでいつかは分からない。でも…私たちはまた逢える、明るく晴れた日に」。コロナ禍を乗り越えることができたように、世界に蔓延する反民主主義的な病である独裁や弾圧も、いつかは克服できる。この幕切れはそんな希望を仄めかす。「希望は幻想じゃない。希望は力なの。この劇には多くの希望が込められています」(ムヌーシュキン)。
 ムヌーシュキンは異化効果によって、劇の出来事と現実とを照らし合わせることを、間断なく私たちに要請した。希望の実現は劇中では果たされない。現実世界で私たちがとるべき行動、挙げるべき声に委ねられている。そういうことなのだろう。

  • 太田耕人 Kojin Ota

    1956 年生まれ。京都教育大学学長。英文学者として、シェイクスピアを初めとする初期近代イギリス演劇の当時の上演を研究する一方、演劇批評家として現代演劇の評論を不定期に『京都新聞』『シアターアーツ』などに寄稿。2015年度まで約28年間、演劇専門誌『テアトロ』で「今月の関西」担当。著書に『シェイクスピアを学ぶ人のために』(分担執筆、世界思想社)、共訳書にジェイムソン『政治的無意識』(平凡社ライブラリー)、タプリン『ギリシア悲劇を上演する』(リブロポート)など。 朝日舞台芸術賞選考委員(東京朝日新聞社)、文化庁芸術祭審査委員、日本芸術文化振興会評価委員、京都国際舞台芸術祭実行委員長などを歴任。 

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