携帯の着信音が鳴り響く。ふたりの黒子が舞台下から客席を探すが、携帯は見つからない。これでは舞台の幕が開けられないと黒子のひとりが訴えるのだが、鳴っているのは自身の携帯だったというオチである。
太陽劇団「金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima」はそんなシーンから始まる。物語の舞台は、病でベッドに横たわる老齢の女性、コーネリアの夢の中であり、幻想のニッポンだ。そして序盤の展開で、ああ、これは筆者の住む町でも聞いたことのある話だと思う。平田オリザ率いる青年団が拠点を移し、演劇で地域振興を企画していた市長が選挙で負けるという出来事があったあの町だ。とはいえ、この町に限った話ではない。近年、演劇祭は全国的におこなわれるようになっているし、カジノ建設も大阪をはじめとする都心部では誘致の計画が立てられ、侃々諤々の議論がなされ、また分断を生んでいる。
上演は3時間ほど。その中で場面転換の度に、劇中劇の舞台、銭湯、居酒屋等々と、舞台装置が暗転せずに何度も素早く入れ替わっていく。通常、場面転換は裏方による仕事となるが、それを舞台上の黒子だけでなく役者もおこない(この規模の劇団では稀であるだろう)、黒子が小道具の上に乗ってスケートボードで滑るように移動させたかと思えば、平台を収めきれずに難儀するような仕草も見られ、転換中の所作が非常にコミカルに演出されている。さらには主人公であるコーネリアが、雲海に見立てられた小道具の布を手に持ち、ゆらゆらと揺り動かすことさえあるのだ。つまりこのようなシーンでは、黒子と役者はその役割を入れ替え、見られる存在の反転が起こることになる。
このあたりのことは、太陽劇団という組織のあり方とも関わるだろう。この劇団は、パリ郊外のカルトゥーシュリ(旧弾薬庫)という施設を拠点として活動している。ここでは俳優からキッチン担当、照明音響映像スタッフ、守衛、さらにはトップである演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキンでさえ給料は平等であり、俳優であっても劇場設営を手伝ったり大道具を作ったりするそうだ[1]。
舞台上でも平等主義は貫かれている。冒頭で開演のシーンについて述べたが、黒子の存在はそのことを象徴するものなのではないだろうか。太陽劇団は、2001年に初来日した際、「堤防の上の鼓手」という作品を上演している。これは俳優が人形のように、黒子によって操られるという文楽の手法を用いた作品である。ここでも、黒子は背景に溶け込むのではなく、俳優を肩車して操るといった所作によって前景化されるのだ。今作において黒子は開演とともに登場したかと思えば、場面転換で滑稽な仕草を見せる。このようなシークエンスによって、黒子は役者の後方に位置するような場合でもプレゼンスを持つことになる。例えば次のようなシーン。
竿に吊り下げられた網籠の中に細かな紙が入っており、それを黒子が揺動することによって、移動する役者の頭上にだけ雪を降らせる場面。あるいは、吹雪の中を歩く役者のマントを傍らで持ち、それをばたばたと上下に動かすことで、マントが風になびく様子を表現するといったシーンだ。このような演出は、現代においてスペクタクル性をもった映像を見慣れているわれわれにとっては、ある種の滑稽さを与えると同時に、黒子の存在を前へと押し出す仕掛けともなっている。
ところで、ともすればフランスに拠点をおく太陽劇団が、文楽に代表されるこのような技法を演出として用いることは、昨今では「文化的盗用」と捉えられかねない。このことについてムヌーシュキンは、植物の種子が風に運ばれて拡散していくことを防げないように、文化は誰の所有物でもなく、決定的に純粋だと言うことはできないと述べる。その上で異文化を敬意と感謝を持って学ぶのだ、と[2]。
たしかに、文楽のルーツを遡れば、傀儡子という木の人形を操る芸能集団に行き着く。傀儡とは中国語を由来とし、諸説あるようだが渡来人によって伝えられた可能性もあるという[3]。そして太陽劇団がおこなうのは、文楽の技法をそのまま真似たものではなく、顔をマスクで覆った役者が人形の代わりをするといったことからもわかるように、現在の文楽のかたちとは異なったものとなっている。また「金夢島」では、日本の能楽師や狂言師、歌舞伎俳優等から協力を得て制作されたのだという。
とはいえ、そもそも演劇とは、古代ギリシャの時代から何者かを演じること、つまりは他者のアイデンティティを生きてみることで自己を越え出ていくものではなかったのだろうか。コーネリアが傍で仕えるガブリエルの問いに答えて言う『変身物語』はその典型であり、人間が動植物といった様々なものに変容する物語だ。この時、黒子の顔を覆う黒い布や役者が着用するマスクは、演じる俳優の属性を匿名的なものにし、変身を促すものとして機能している。顔を布で覆うことは、例えば肌の色といった固有性を観客から見えなくするのであり、そのことによって俳優の出自は宙吊りにされることになる。
しかしその一方で、匿名的なはずの黒子が頭巾を脱ぎ、顔を見せるシーンがある。その黒子はカジノ建設を目論む高野の娘、勝子であり、頭巾を脱ぎ捨て、その父親をこれでもかというほど罵倒するのだ。ここで俳優は黒子の衣装を身につけることによって、異文化に属する黒子に同一化していると言えるのだが、娘は正体を自ら暴きながら、父親の悪事を責め立てることになる(ただし勝子はさらに顔を覆うマスクを身につけている)。それだけでは終わらない。勝子を演じる俳優、アンドレア・マルシャンは中東の劇団員役として、さらにはブラジル人の演出家役としても登場する。これはこの人物だけに限ったことではなく、高野が歌舞伎の女形に変装し、ガブリエルが冒頭で黒子として客席に呼びかけるように、この舞台では、ひとりの人物の属性は複数化されるのだ。こうして黒子として不可視化されていた存在が時に現れ、あるいは仮面をすげ替え、転身していくことで初めて、固定的な属性といったものが突破されていくのではないだろうか。
黒子は役者になり、役者は黒子になってその役割を入れ替える。役者は幾つもの仮面を纏う。冒頭で黒子が携帯電話への注意を呼びかける先は、結局は観客ではなかった。黒子が慌てて言う客席への呼びかけは、自身へと照り返されることになる。携帯は観客の側ではなく自身のポケットに入っていたのだと認識は問い直される。そして、その黒子は素顔を見せ、ガブリエルであることが、何者であるかが明かされる。属性の変化とはこのような行為の反復の中にある。