会場は、黒い床の周囲を黒い壁が囲んでいる。観客は階段状に組まれた小高い客席に登って斜め上から舞台を見下ろす。そこには大道具や小道具は一切ない。ここはどこなのだろう。
一人の男が出てくる。手にはなにも持っておらず、トレーナーにチノパンという普段着である。男性は、背中に背負った荷物を床に下ろすような動作をして、黒い床の上を歩く。そしてある地点で止まって水道の蛇口をひねる動作をした後、コップで水を飲むように左手を筒状に丸め、口元に運んでゆく。それまで何も見えなかったのに、突然、水が見えた。男性は辺りを歩き回り、パントマイムをするように引き戸を開ける動作をする。ここは男性の家なのだろうか。別の男性がやってきて、二人は「こんにちは」という挨拶と少しの会話をして、鍵の受け渡しをする。二人とも抑揚がない声で、目線を合わせずに話す。
2021年1月に初演された、劇作家・演出家の松田正隆による「シーサイドタウン」は、2023年2月、 海辺の町 二部作として新作「文化センターの危機」とあわせて再演された。舞台上には、六人の登場人物のみが現れる。照明は終始大きな変化がなく、役者の衣装も変わらない。音は、役者の声と役者が歩いた時に床にこすれるキュッキュッという音が響くだけだ。さらに、シーサイドタウンの住人は決して表情豊かには話さず、声に抑揚がないので棒読みでセリフを発しているようだ。時折、大きな声や同じ言葉の繰り返しによって強調したり、パントマイムのように身振り手振りをしたりすることで、住人たちの喜怒哀楽がわずかに読み取れる。役者しか存在しない舞台上で展開される豊かな身体的言語のおかげで、観客はそれぞれの脳内でシーサイドタウンを再構成することができる。
物語の序盤で、シンジの隣に住む家族のギイチ、クルミと二人の娘ウミが次々に挨拶に来る。そして、市民センターで実施するJアラートの訓練について説明される。ウミがシンジにJアラートの訓練を予告した翌日、シンジと隣人家族たちは市民センターの訓練に備えて模擬訓練を行う。ギイチが弾道ミサイルの脅威について説明し、クルミ、ウミとともに、身振りもあわせて「建物がないとき」「田園地帯」「電車乗車中」などの場面を想定し、ヘルメットをかぶったり、近くにあるものに身を隠したりと、それぞれのシチュエーションに適した動作を完璧に行う。ギイチが「市街地」というと、クルミが「地下街へ避難」と言い、一家三人は地下街に逃げるようにジェスチャーをする。ギイチが「市街地」と言った瞬間に、私の脳内では自分の最寄り駅前の情景が浮かび、クルミが「地下街へ避難」と言った瞬間、京都駅の地下街の景色が浮かぶ。舞台上には三人の役者がいるだけである。だが私の脳内では、セリフが発せられた瞬間、彼らが動いた瞬間、場面がくるくると変化する。
登場する人物は、六人全員がトレーナーやシャツにパンツスタイルだ。そして、高校生であるウミが制服を着ていたり、母親であるクルミがエプロンを身に着けたりといった、「衣装」として分かりやすい記号は用いられていない。初演時の舞台写真を見ると、クルミとウミはスカートを着ていたので、パンツスタイルが決まった「衣装」ではないのかもしれない。しかし初演と今回の上演に共通して、彼らは皆、私たちが住んでいる日本の町を普通に歩いていそうな人たちの装いだ。町を歩いていて、すれ違っていても違和感のない服装なのだ。にもかかわらず、彼らの振る舞いには、どこか狂気めいたものが感じられる。
例えば、シンジの中学時代の同級生トノヤマは、ハザードマップにミサイルが落ちる複数の地点に赤い印をして、その場所で自慰行為や性交をするとシンジに語る。トノヤマが嬉々としてハザードマップを広げて語る様子を、シンジは半ば呆れて見ているようだ。しかし物語終盤、シンジと兄のケンイチが会話する場面で、シンジはトノヤマの語った内容をケンイチに主張する。ケンイチは町で起きた傷害事件について話したところ、シンジは強い口調でトノヤマが標したハザードマップの赤い印を次々に指差し、事件の現場はそのうちどこかで起きたと断定する。訓練に異常な執着を持った一家を不思議に思い、ハザードマップに執着するトノヤマに呆れていたシンジが、海辺の町の外にいるケンイチに熱心に持論を説く。東京からやってきたシンジは当初、海辺の町の住人それぞれに違和感を抱いていたが、次第に狂気に満ちたシーサイドタウンに適応していったように思える。どこにでもいそうな装いの彼らは、実はどこかおかしくて暴走が止まらなくなる。当初はこだわりの強い住人たちに戸惑っていた主人公のシンジこそが、住民に対して違和感を持つ観客の代弁者であった。しかし、シンジ自身がシーサイドタウンの住人になってしまうと、私たちは突然取り残される。住人たちの狂気に満ちた言動によって、ところどころ私の中でつくられた「シーサイドタウン」の再構築が難しくなってゆく。物語の終盤でシンジに兄のケンイチが、彼らの従妹が人を刺す事件を起こしたと告げる。ケンイチが事件の詳細を言わないうちに、シンジは刺されたのはトノヤマだと確信し、実際は死んでいないにもかかわらず「トノヤマくんだよ。死んだの。」とトノヤマが刺殺されたと決めつける。さらにハザードマップを広げて、事件の現場を予想してケンイチに訴える。その後、ケンイチとシンジは車に乗って警察に向かうのだが、シンジは急に車を降りてどこかにいってしまう。そして、ギイチがミカンを収穫し、ウミが昼寝をしているシーンで幕は閉じる。私たちはシンジの奇怪な言動に混乱しているところで、ギイチとウミの、のどかな生活の一場面を垣間見ることになるのだ。終幕を迎え、私は何を見ていたのだろう、と我に返るのである。
役者がどこにいて何をしているかが分からない場面は、登場人物の「影」を見ているかのような感覚だ。しかし、役者がガラガラと引き戸を開けた瞬間、ハンドルを握った瞬間に、急に家が、車が現れるのだ。役者の影は私の脳内で再構成され、彩りを与える。目の前のシーサイドタウンとは別に、もうひとつの「シーサイドタウン」が現れる。きっと、私が見た海辺の町と、隣の客席に座っていた女性が見た海辺の町は全く異なるものだろう。そして、住人たちの暴走によって脳内に再構築した「シーサイドタウン」は、次第におぼろげになってゆく。きっと、別の機会にもう一度見たら全く異なる「シーサイドタウン」が現れる。本作は、役者がそれぞれシーサイドタウンの住人の動きとセリフをトレースして舞台上で「再生」し、観客それぞれを再び立ち入ることが叶わない海辺の町に誘っているかのようだ。