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レパートリーの創造 松田正隆 海辺の町二部作『シーサイドタウン』『文化センターの危機』公演評

棒演技

文:筒井潤
2023.4.10 UP

 松田正隆の海辺の町二部作(『シーサイドタウン』『文化センターの危機』)の公演がロームシアター京都で実施されていた2023年の2月には、映画『イニシェリン島の精霊』も上映されていた。いずれも海に囲まれた場所の閉塞感と張り詰めた空気を描いているのは、硬直していた社会がコロナ禍でさらに緊張が増し、ちょっとした出来事をきっかけに亀裂が入り崩壊する様子がいたるところで見受けられたことと無関係ではないだろう。

 『シーサイドタウン』は、東京から帰郷した、町にとっての他者としての視点を持つシンジを中心に展開される。シンジの家の隣には、町で催される弾道ミサイルの着弾を想定した避難行動の訓練に、熱心に参加する3人家族が住んでいる。シンジのことを一方的に良き理解者と思っているトノヤマは、ミサイル落下予測地点を示した町のハザードマップを手に日々妄想を膨らませている。シンジの兄ケンイチは、何事にもマイペースで掴みどころがない。そのような人たちとの交流を重ねるうちに見えてきた町の生態系に、シンジは耐えられなくなる。
 『文化センターの危機』は、まもなく指定管理が民間会社になるために解雇されるのが決まっている文化センターの職員3人、文化センターでイベントを催したいと東京からやって来た加藤、万引きするほどに金に困りながらも見分けがつかない「ヤツら」が町に紛れ込んでいないかパトロールをする杉田、コンビニでアルバイトをしている高校生の里岡とその美術教師の神長といった登場人物たちの、大小様々なすれ違いが淡々と描かれている。

『シーサイドタウン』(2023年上演) 撮影:中谷利明

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

 私はどちらも複数性を扱った作品だと思った。海辺の町に暮らす人たちには各自に何らかの思い込みがあり、それぞれがそれぞれの世界のなかで生きている。そんな人たちに対してシンジはなんとなく調子を合わせていたが、ついに我慢ができなくなって兄が運転する走行中の車から突然飛び降りる。加藤は相手にされていない空気を読んで、杉田は追い出される形で、町から静かに去る。
 大事なのは、これらの作品に複数あるのは「個性」ではなく「世界」だということだ。近代演劇とその影響下にある演劇作品の多くは、人の「個性」を捉えて表現しようとする。まずひとつの確固とした世界観があり、そのなかで起こる出来事に葛藤しながら立ち向かう人々の「個性」だ。しかし情報が氾濫している現代では、客観的事実と主観的真実のせめぎ合いに個人の能力が追いつけず、ひとりひとりが異なる世界を見て、その物語のなかで生きるようになった。『シーサイドタウン』のトノヤマがその典型的な例だ。やることなすことすべてが滅茶苦茶なのだが、許しようがない彼の身勝手な行動にもどうやら彼の世界なりの論理が存在しているのがわかる。あらゆる衝突は、個人が生まれつき持っている個性によるものではなく、人それぞれの生きている世界が、比喩でもなんでもなく実際に違うということに起因するといった考え方もある。海辺の町二部作にあるそこはかとない不穏な雰囲気は、自分の見ている世界こそ真実だと信じて疑わない登場人物たちが、その秩序を悪気なく他の人に認めさせようとするときに生じる。モノローグを多用せずさりげない会話劇の形式をとりながら、世界の複数性による緊張を隅々まで張り巡らせた戯曲に圧倒された。

 さて、近年の松田正隆演出の特徴として、舞台美術や小道具がなく、照明や音響の効果も最小限であることと、俳優の〈棒読み・表情の少なさ・最低限の所作〉が指摘される。「棒読み」は、一本調子で抑揚のない発話を意味し、俳優の演技における台詞の下手な言い回しに対してもよく使われる。最近では特に濱口竜介監督の映画の演出方法として注目されたのがきっかけで、戦略的な「棒読み」も広く知られてきた。他方、「棒演技」はあまり聞かない。ネットで調べてみたらいくつか見つけたが、下手な演技というネガティブな意味でしか使用されていないようだ。福井裕孝の稽古場記録を読めばわかるが、松田演出は極めて緻密で戦略的である。そこで私は、戦略的な「棒読み」の存在に倣って、このレビューでは松田演出における演技の戦略的な〈棒読み・表情の少なさ・最低限の所作〉をまとめて「棒演技」と呼ぶことにする。
 その棒演技だが、私は松田演出でそれを用いるようになった理由を詳しくは知らない。ただそれを知るヒントになるかもしれない描写が『シーサイドタウン』にある。弾道ミサイルの着弾時に身を守るための行動を、シンジの隣に住む一家が彼にレクチャーする場面だ。屋内、建物や塀などに身を隠せるときの屋外、周りになにもないときの屋外、市街地、田園地帯、電車や自動車のなかなど、さまざまな状況に応じた説明がある。家族のうちのひとりであるウミが身を守る演技(=動作)をやってみせ、シンジも促されて同じことをする。このウミとシンジの演技は棒演技である。松田演出を受けた俳優が演じているのだから当然じゃないかと思われるかもしれないが、そう単純な話ではない。非常時における行動の訓練は学校や職場、自治体などでも催されるので、多くの人にその経験はあると思う。そこで想像してみてほしい。その訓練において、例えば藤原竜也のような熱演をしている人がひとりいたら…。たいへん申し訳ないが、笑う。その人がどれほど訓練の意義を理解し、真剣に臨んでいたとしても、私は笑いを堪え切れないと思う。人によってはふざけるなと注意するかもしれない。実際に、強盗犯の逮捕を想定した警察の実地訓練で犯人役の演技にある種の上手さがあると、その動画はSNSなどで話題になったりするが、そういう類の演技の上手さが本当の事件発生時に役立つかどうかは誰もわからないし、だから必要とされてもいない。訓練の演技に近代的な個性の表現はいらない。訓練の参加者たちは、事故や事件のイメージの最大公約数を探り合い、それに対する必要十分条件を満たした演技を誠実にやる/やってみせる。つまり、実際に訓練で私たちが行う公共で醸成された演技と松田演出の棒演技は、ウミとシンジが身を守る演技(=動作)を介して符合するのだ。
 戯曲に描かれている海辺の町とそこでの出来事のイメージの最大公約数を探りながら、俳優たちはわざわざ個性を表現することなく、必要十分条件の棒演技をする。すると自ずと観客もイメージ創りに参加し、上演中の劇場は世界の内も外もないクラインの壷のような思考空間となる。そして観客は客観的事実と主観的真実の擦り合わせをさまざまなレイヤーで粘り強く続けさせられる。松田作品はこのようにして、演劇の本質に迫る体験を提供する。
 クリストファー・バルミは著書『演劇の公共圏』で、モダニストによる美学的経験の閉じられた循環も、消費者志向のあるスペクタクルとナルシシズムの循環も“プライベート”だというようなことを述べている。松田正隆作品は前者の扱いを受けがちだ。マレビトの会を設立する前の作品を懐かしみ、近作を敬遠する声もいまだに聞こえるが、それもまた“プライベート”だ。この“プライベート”は、複数ある“世界”と言い換えることもできるだろう。私は、海辺の町二部作はとても開かれた演劇だと思うのだが、真に開かれているもの(例えば「公共」とかも)は、自分の世界を信じて疑わない人にとっては不可解で不気味に映るのだろう。

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

  • 筒井 潤 Jun Tsutsui

    演出家、劇作家。公演芸術集団dracom(ドラカン)リーダー。2007年、京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomの活動として、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017、19年、デュッセルドルフ)、東京芸術祭2019ワールドコンペティションなどに参加。dracom以外の活動として、DANCE BOX主催『新長田のダンス事情』(TPAM2014参加)、『滲むライフ』(KOBE-Asia Contemporary Dance Festival #4 参加)で演出、ルリー・シャバラ『ラウン・ジャガッ:極彩色に連なる声』(KYOTO EXPERIMENT 2021)では空間演出を担当。他にも山下残振付作品、マレビトの会、維新派、akakilike、ホー・ツーニェン、荒木優光などの公演や作品に参加。

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