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#公演評#演劇#レパートリーの創造#2022年度

レパートリーの創造 松田正隆 「シーサイドタウン」「文化センターの危機」公演評

不安の海——共同体の崩壊とファシズム、そこからの逃走線

文:森千香子 編集:中本真生
2023.6.15 UP

 2023年2月にロームシアター京都で松田正隆作・演出の「シーサイドタウン」「文化センターの危機」を観た。前者は2021年1月初演、後者はその続編で、今回が初演だった。いずれも松田が故郷・長崎に着想した海辺の小さな町を舞台としていることから「海辺の町」二部作とよばれる。

 だが「海辺」を意識して本作品をみはじめると、肩透かしを食らう。海を想起するものが一切見あたらない。視覚的な手がかりも、潮風や波音を喚起する音響もない。舞台装置や装飾すらない。ただ黒いむき出しの床と壁があるのみだ。

「文化センターの危機」より 撮影:中谷利明

 すべてを削ぎ落としたミニマルな黒い空間に俳優たちが浮かび上がると、再び面食らった。顔に表情がない。声にも抑揚がなく、棒読みのように聞こえる。身体の動きも緩慢で、服装は普段着そのものだ。自宅の居室から誤って舞台に出てしまったのではないか。

「シーサイドタウン」より  撮影:中谷利明

 だが俳優の発する短い台詞——「シーサイドタウン」では、隣人の高校生が「ちょっと海見せてもらっていいですか」と言って主人公シンジの家に上がりこむ——によって、にわかに海の存在を意識させられた。

 無表情の俳優たちは漫然と客席を眺めていたのではなく、その瞳には海が映っていることを観客は知る。海は見あたらなかったのではなく、私に見えていなかっただけだった。以降、舞台のまわりに海の気配を感じながら作品を観た。

 だがその海とは、太陽を受けて輝くような海ではない。ふと頭に浮かんだのは1950年のイタリア映画『ストロンボリ』(ロベルト・ロッセリーニ監督)の海だった。夫の故郷の火山の島に移り住んだ女性が、排他的な島民に苦しめられるストーリーだが、同作品にでてくる静かだが、暗く、不安をあおり、いきぐるしさを感じるさせる海を思わせた。

都会と田舎の非対称な関係

 松田の二部作にも独特のいきぐるしさが立ち込めている。それは一体、どこからくるのだろうか。
 
 松田は「海辺の町」を「田舎」、「最果の町」と設定している。そのような「海辺の町」の住民の日常は一見穏やかに見えて、不安に満ちている。

 仕事はその一例だ。「シーサイドタウン」の主人公シンジは魚市場で運搬や仕分けのアルバイトをしている。若者がなかなか定着しない仕事だが「もう若くない」シンジには選択肢がない。「文化センターの危機」では職の不安定さがより明確に表れる。センターの民営化で職員が全員解雇されることになったのだ。また無職で食べるものに困り、コンビニで盗みをはたらく男も登場する。

 疲弊した「海辺の町」の背後には都会の存在が見え隠れする。「シーサイドタウン」のシンジと友人トノヤマや、「文化センターの危機」の加藤のように、東京から来た、あるいは東京から戻ってきた人物が登場するだけでなく、都会と田舎という世界が「あっち」と「こっち」の対比というかたちで示される。「文化センターの危機」の次の場面でも「こっち」と「向こう」の需要供給関係や嗜好の対比があらわれる。

辻井「ジビエの店は続いてるみたいだけど」
吉村「あ、イノシシの肉のね」 
辻井「あれは、こっちの人が食べるって言うより、都会に出荷するんだってね、向こうでは需要あるから」
吉村「わざわざイノシシとか食べたいかな」
辻井「え、おいしいんだってよ」

「文化センターの危機」より  撮影:中谷利明

 このような都会と田舎の関係は対等なものではなく、あくまでも非対称的なものとして描かれる。なかでも「シーサイドタウン」で東京に居住経験のあるトノヤマが、音楽を聞きながら他の地元住民をバカにして「あいつら」呼ばわりする場面は印象的だ。

あいつら、こんなの聞かないでしょ。あいつらこんなの聞かない(・・・)わー。ここ、かっけー。ここ、ここ、かっけー。ここんとこ、かっけー(・・・)あいつら、こんなのわかんないんだよ。あいつら、こんなのわかんないのよ。聞いてんのださいのばっか。だっさださ。

「シーサイドタウン」より  撮影:中谷利明

「わかる共同体」の崩壊と成立しないコミュニケーション

 もっとも都会と田舎の非対称な関係は今にはじまったことではない。産業革命以降、両者の格差は拡大し続けてきた。だが同時に「田舎には都会にないよさがあること」も指摘されてきた。たとえばレイモンド・ウイリアムズが『田舎と都会』で示した「わかる共同体」がそうだ。それは、地縁にもとづいた文化を共有し、互いをわかりあい、強い絆をもつ共同体が「辺境」の人びとを包摂する。つまり経済的豊かさがなくても、都会には存在しない共同体が地方の人びとに質の異なる豊かさを提供すると信じられてきた。

 だが21世紀の日本を舞台とした「海辺の町」に、このような共同体はもはや存在しない。「シーサイドタウン」のシンジは海辺の町に越してきた途端、隣人一家から声をかけられるが、両者には共有するものがあるわけではなく、隣人へのケアは不信・監視と表裏一体であることが浮かび上がる。また「文化センターの危機」では同僚を出し抜いて仕事と恋人を手に入れようとする若い女性が出てくる。個人としての成功を追い求める個人主義は田舎にも浸透しており、ウイリアムズが描いた共同体の姿は見いだせない。

 「わかる共同体」の崩壊は、登場人物たちのやりとりからも感じられる。なかでも印象的なのが「え」「ああ」「いや」「へー」などの曖昧な表現が会話に多用されている点だ。意味の判然としない、または意味のない言葉の断片によるコミュニケーションは「言わなくてもわかる」関係性を前提とする。しかし前提が崩壊しているため、短く曖昧な言葉の断片は会話を表面上はつなげているようにみえて、実はつなげていない。だから会話がすすめばすすむほど、ずれや誤解が増幅されていく。シンジが、隣人のクルミに魚市場のアルバイトをしないかと誘われる場面をみてみよう。

クルミ「魚市場でアルバイト募集しているんだけど、やりませんか(・・・)信頼できる若い人いないかってことで」
シンジ「そんな、ぼく、もう若くないですよ」
クルミ「え」
シンジ「若くないです」
クルミ「じゃ、考えといてください」

「シーサイドタウン」より  撮影:中谷利明

 ちくはぐな言葉の連鎖、成立しないコミュニケーションをとおして、明確な言葉がなくても「わかる共同体」の崩壊がみえてくる。

脅威によって「つながる」ことは本当に可能なのか

 「外国からの脅威」は一見すると、このようにばらばらになった人たちを再び「つなぐ」ものとして機能している。「シーサイドタウン」では、弾道ミサイルに備え、市長の肝いりで全体訓練が実施されることになり、それに備えて集落単位で予行訓練が行われる。参加しないことは許されない雰囲気だ。

「シーサイドタウン」より 撮影:中谷利明

 訓練だけではない。ミサイルの脅威は若者同士の会話でも家族の団欒でも話題になる。つながっているようでばらばらな住民たちは、ミサイルの脅威を信じることでかろうじてつながっている。「文化センターの危機」では密航者がやってくるとの妄想に取り憑かれた男が海を見張り、住民に警戒を呼びかける。

「やつら」の脅威のおかげで「わたしたち」という単位はかろうじて成立しているように見える。しかし「他者の脅威」によって「私たち」は「つながる」ことができるのだろうか。

 この問いを考える上で重要なのは、他者の脅威とは目に見えるものでも、区別がつくものでもないという点だ。「文化センターの危機」では、海を監視する男が、「やつら」は「見分けがつかない」ため「紛れ込んでしまう」ことを警戒し、住民に注意を呼びかける(「紛れ込んだら最後、区別がつきません(・・・)私は、ヤツらが私たちの領土に紛れ込む前に通報する防波堤なんです」)。

「文化センターの危機」より

 だが、敵である「やつら」とは自分たちの「見分けがつかない」ということは何を意味するのだろうか。それは、外国人だけではなく、海辺の町の外から来た日本人、さらには同じ集落に住む人間まで、誰もが疑いの対象になりうるということである。「文化センターの危機」では、海を監視する男から密航者の話をきいた女性が、東京から来た男性を「実は密航者ではないか」と疑って逃げ出すし、「シーサイドタウン」でもシンジの兄ケンイチが自分の弟の事件への関与を疑い、弟自身が関与を否定しているにもかかわらず、警察に連れて行こうとする。

 目に見えない脅威が日常に浸透すると、他者への恐れが生まれるが、他者を脅威に感じることは、いずれ自分自身にも疑いの目が向けられることと背中合わせである——このことを松田は見事に描ききっている。「ゼノフォビア(外国人嫌い、移民差別)」とは、移民・外国人に向けられた敵意だけでなく、自分以外の全てを疑い、敵視することと地続きであり、誰しもが「明日は我が身」となるリスクから逃れることはできない。

 このようないきぐるしさから逃れることは不可能なのだろうか。この問いを考えるにあたり、「シーサイドタウン」の最後で、警察に向かう兄の車からシンジが飛び降り、行方を眩ます場面は示唆に富む。そこにとどまり続けるかぎり、疑いの監視網をかいくぐることが難しい状況において、「逃げる」という一見、消極的にみえる行為が、積極的な意味をもつことを暗示している。

フィクションと日常の垣根をとりさる

 「海辺の町」二部作は、「外国の脅威」が生活に浸透することが、隣人や身近な人間への疑いにもつながっていくという「日常のファシズム」の閉塞感を淡々と描きだす秀逸な作品だが、圧巻だったのは演劇を見終えた後の余韻だった。

 上演終了後、最前列で鑑賞していた私はたちあがり、歩き始めて、ふと、まだ作品が続いていて、自分自身がその一部であるような奇妙な感覚にとらわれた。

 その時になって、舞台と観客の間には一切の垣根が設けられていないことや、俳優たちの無表情や抑揚のない声、居室から抜け出てきたような様子、普段着の服装などが、日常と切り離された「演劇」に対する周到に準備されたアンチテーゼだったことに改めて気づかされた。そのような卓越した演出によってフィクションと日常の連続性を、舞台と現実の連続性を強く意識することになった。あの海の気配をそこら中に感じながら帰途に着いた。

 私たちも「海辺の町」をとりかこむ、暗い、不安の海のなかに棲んでいる。
逃走線はどこにあるのだろうか。

  • 森千香子 Chikako Mori

    同志社大学社会学部教員、都市共生研究センター(MICCS)代表。フランス社会科学高等研究院(EHESS)にて博士号(社会学)取得。一橋大学大学院社会学研究科、プリンストン大学移民開発研究所、パリ政治学院国際研究センターなどを経て2019年より現職。専門は国際社会学、都市社会学、比較社会学。著書に『排除と抵抗の郊外:フランス<移民>集住地域の形成と変容』(東京大学出版会、2016年、大佛次郎論壇賞・渋沢クローデル特別賞受賞)、『国境政策のパラドクス』(共編、勁草書房、2014年)、『移民現象の新展開』(共編、岩波書店、2020年12月)など。

  • 中本 真生(UNGLOBAL STUDIO KYOTO)

    撮影:井上嘉和

    中本 真生(UNGLOBAL STUDIO KYOTO) Masaki Nakamoto

    1983年、愛媛県生まれ。京都を拠点に活動。出版レーベル”EXCYC”共同主宰。文化芸術(舞台芸術・音楽・現代美術・映像・映画・漫画・漫才 他)に関する編集やインタビューを数多く手がける。近年の企画・監修・編集の実績として、関西の音楽家及び独立系レーベルからリリースされた音源のレビューを掲載した音楽批評誌『カンサイ・オルタナティヴミュージック・ディスクレビュー Vol.2: Since 2020』(2024)、現存するクラブでは日本で最も長い歴史を誇るCLUB METROの貴重な資料を収録したアーカイヴ・ブック『CLUB METRO ARCHIVE BOOK “DIGGING UNDERGROUND” VOL.1 1990-1994』(2023)など。また一方で、文化芸術に関するWEBサイト制作のディレクション、展覧会・コンサート・作品の企画・プロデュースなどを行う。近年の主なWEBディレクションの実績として、「オラファー・エリアソン展」(麻布台ヒルズギャラリー、2023)、「ミロ展──日本を夢みて:特設サイト」(愛知県美術館、2022)など。

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