物語によく慣れた私たちは、舞台に俳優が出てきて何か話し始めたら、自分が生きるこの世界のことや俳優の実際の人生についてはひとまず脇において、そこで起きているらしいことに入り込む。このような作法は、暗黙の前提として問い返されないまま生き延びるのだろうか。2021年に初演された松田正隆の「シーサイドタウン」、そしてその世界観を引き継いだ新作「文化センターの危機」が取り組むのは、まさにそのような問題である。
「文化センターの危機」は、民営化にあたって職員の大半が解雇されることになっている文化センターの面々のキャンプ、そしてコンビニでアルバイトをしている高校生である里岡の生活を物語る。コンビニで万引きをする無職の杉田は、ふだんは港で密航者を見張っている。彼が言うには、「ヤツら」は紛れ込んでいて、そうなればもう見分けがつかない。
何かしらの被害や証拠なしに、周囲からの攻撃を仮構するパラノイア。「シーサイドタウン」においては、よりはっきりと、そうしたパラノイアが主題化され、人物たちの行動を規定している。ここで人々が備えているのは、やはり隣国からの脅威であり、ミサイルのための訓練への参加と住民の一体化が静かに強要されるさまは、「凡庸なるファシズム」とあらすじで形容される。東京からこの町に帰ってきたシンジは、徐々にその体制になじんでいく。
一方、「文化センターの危機」で職員の辻井は、同僚の中野が彼女との交際を条件に運営移管先の新職員として推挙したと考えており、さらに、交際相手の庄司が吉村になびかないよう中野と吉村の仲を取りもとうとして、このキャンプを企画したのだった。しかし、彼女の考えは、中野には「変なこと言ってましたよね」と否定され、吉村からも、「庄司くんに関しては絶対ないし、文化センターだって、特に私、興味ないから」と一蹴される。とはいえ中野が庄司をキャンプからのけ者にしたことは事実らしく、そうなると彼らの思惑がすべて詳らかだとは言えないが、少なくとも彼女の思考はパラノイアと似た扱いを受けていることになる。
こうしたパラノイアを話題にするとき忘れてはならないと思われるのが、この演劇の演出である。小道具も大道具も用いられず、カジュアルな服を着た俳優たちが、縦横斜めのグリッド上を移動する。ものを取り出す、車に乗る、なにかを食べる、布団に入るといった動作は、すべてマイムによって行われる。俳優たちの身体は、リアリスティックに日常的な動きを模倣するわけでなく、演劇的に誇張された身振りをするのでもない。強いていうならRPGのドット絵キャラクターのように、体を部分ごとに記号的に動かす。とはいえ、ダンスのアイソレーションのようにキレがあるわけでもない。
人物たちが音楽にノる場面はとりわけ奇妙な感じだ。「シーサイドタウン」では、シンジが流した音楽にトノヤマが上半身を大きく左右に振りながら「これ、かっけー」「あいつら、こんなのわかんないのよ」と繰り返す場面や、山道を軽トラで爆走したあと、ウミ、シンジ、トノヤマがゆらゆら帝国の「Evil Car」を歌いながらツイストを踊る場面がある。「文化センターの危機」では、辻井がキャンプ場でラジオをかけ、重大な発言をする直前に、少し踊る。しかし、俳優たちの動きはその他のマイムと同様にどことなく気が抜けていて、歌声があるときでも、展開やグルーヴやノリらしきものを欠いているように思える。
そうした俳優の身体が一貫した空間に置かれているわけではないという点にはさらに注意を促しておきたい。誰かが誰かにものを渡すときや触れるときの位置関係が奇妙なのだ。ある人が前方に手を差し出すと、それとは随分離れたところにいる人物が別の方向に手を伸ばし、それで受け渡しは成立する。シンジとトノヤマが軽トラを触って会話する場面は、そこに一台の車があると想像するためには二人の位置が離れすぎているし、ウミがシンジの耳を引っ張る場面もまた、二人はやや離れて立っていて、身体は触れ合わない。つまり、空間は、ときにキュビズム的に寸断されている。しかし同時に合理的に省略されもする。その場駆け足が脱走を意味する、あるいは家に入るときは靴を脱ぐ動作をするが出るときはわざわざ履かない、というように。
このような演出が決定的になるのは、前述した「シーサイドタウン」のウミとシンジの場面だろう。物語上で起こっていることを、戯曲を参照しながら順に並べると次のようになる。まず、ウミがシンジの耳を引っ張る。次に、ナイフで耳を切ってみようか、という話をし、ウミは「私、ナイフ持ってるよ」と言って、シンジの耳を切るジェスチャーをする。次のシンジの「そのナイフはどこにあるの?」という台詞は、「持ってるよ」というのが、今その場でナイフを手にしているのではなく、所有しているという意味だと知らせる。しかし、この場面を劇場で見る観客は、ウミがナイフを持っているのか、本当に切ってしまったのか、ナイフを持った上で振りをしているのか、それとも何も持たずにジェスチャーだけを見せているのか、シンジの台詞を待たなければ知ることができない。
マイムは、観客に、そこにない物と出来事を想像させる装置であると同時に、俳優にとっても演技に困難や不安を覚えさせるものである。演出助手の福井裕孝による稽古場記録では、辻井を演じた深澤しほが、観客にどこまで見えないものや聞こえない声が伝わるのかという不安、そして、演者自身が、物語世界ではなく現実の劇場空間に引きずられることに対する恐怖を口にしている。松田は、そうした戸惑いを抱き続けると同時に、「ある」と信じ込んで「太々しく」ある葛藤を俳優たちに求める。
ないものを「ある」と信じることは、これらの物語の上で、パラノイアと同じ構造である。演者のみならず、観客はそもそも、いかなるフィクションに相対するときも、そこで起こっていることが現実に起きたことではないという当たり前の事実を宙吊りにすることでしか鑑賞できない。しかし、この両作では、信じるための舞台装置が不親切にも欠落し、舞台には俳優たち以外に何も存在しないという極限的な状況がある。その上、いない人物の言葉が間として取り入れられ、人物たちがいる場所がどこなのか分からないことまであるのだ。そのため観客は、何がそこにあるのか、いや、果たして何かがあるのかということについて、俳優が葛藤し続けるのと同じように、困惑し続ける。ゆえに両作は、いくらか劇的なものへのアンチテーゼでありながらも、演劇固有の仕方でフィクションの成立可能性を探っているようだ。