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#公演評#演劇#レパートリーの創造#2022年度

レパートリーの創造 松田正隆 「文化センターの危機」公演評

観劇の記録—体感・記憶・想像を行き来しながら

文:柏木純子
2023.4.10 UP

RECONSTRUCTION:再現

 演劇は作品を保存することができない。書き残せば文学となり、撮影すれば映画となる。大道具や衣装、照明などの視覚表現の記録は美術に分類される。演劇は上演が終われば、バラバラに解体されてしまう。私は時に100年ほど前の資料をかき集め、作品の再現を試みたりすることがあるのだが、やはり当時の上演の様子を把握することは難しい。

 では、上演を記録することは無意味なのだろうか。必ずしもそうではない。残された資料をもとに想像を膨らませ、過ぎ去ってしまった時間に思いを馳せることもまた、演劇の楽しみの一つだと思う。上演に居合わせることができたとしても、次の瞬間にはもう過去の出来事になってしまう。だが、そのまま去らせてしまうのはもったいない。頭の中で再演を繰り返すと、新たな発見があるものだ。

PREPARATION:準備

 ロームシアター京都への道のりは遠い。JR神戸線に乗り、途中、三ノ宮あたりで新快速に乗り換えて山科まで出る。そして、地下鉄東西線で東山へと向かう。片道2時間の道のりは、仕事終わりの身体をリセットするのにちょうどいい。

 2022年度「レパートリーの創造」では松田正隆の新旧2作品が同時期に上演されたが、その両方に足を運ぶ人は多かったのだろうか。私は遠慮することにした。都合がつかなかったというのもある。けれども、無理やりにでも時間をつくらなかったのは、両作を集中して見るのに十分な体力が備わっていないと知っていたからだ。

『シーサイドタウン』(2023年上演) 撮影:中谷利明

 『文化センターの危機』の上演初日、海から山へと移動しながら、私は自身が2年前に書いた『シーサイドタウン』の劇評[編集注1]を読んだ。作品が上演されたノースホールは全面黒塗りの一室で、仮組みの客席が設置されているだけの素舞台。情報を提供するのは俳優のみ。「とんでもない」と思うようなことばかりが起こる物語だが、舞台上は実に静かで、大袈裟な振る舞いが一切ない。淡々と進行する俳優の行動や台詞の積み重ねが、客席にいる自分の知識や記憶と結びつき、劇的な感情が自分自身に生まれ、驚く。「演劇は観客が居てこそ完成する」ということを体感する作品だった。

 暗闇で記したみみず文字の上演メモを解読しながら、『シーサイドタウン』では舞台上の出来事と共に、自分の思考が次々と思い返された。観客が舞台上の表現を能動的に受け取りにいく姿勢を必要とし、自らの思考を体感させる。この作品の鑑賞はエネルギーを使わせるのだ。

REPRESENTATION:上演

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

 前回と同様、何もない舞台を眺めるところから始まる。『文化センターの危機』にまず現れたのは、コンビニだった。正面奥に店員がおり、蚊の鳴くような声で「いらっしゃいませ」と発している。左手前から客が何人か入店し、立ち読みをしたり、買い物をしたりする。店員が帰路につくのを追いながら、場所が移り変わる。そしてコンビニにいた人物それぞれの家庭の断片が描かれる。

 『シーサイドタウン』では主人公の家という一つの場所が立ち現れていくことが印象的だった。俳優が動き回るうちに居間と台所ができ、奥には縁側と庭、そこから見下ろすようにして海があることが分かる。この家に住むのは東京から里帰りした男。そこへ隣人や同窓生、疎遠だった従姉妹が問題を持ち込み、最終的に彼はこの場所から追い出されることになる。

 一方、『文化センターの危機』は人と景色が次々と移り変わる。コンビニ、通勤通学路、子供部屋、居間、学校、事務室、ホール、車内、キャンプ場、森と、様々な場所が人の関係性と共に生み出され、また場面が変わるごとに人の関係性が解体される。

 コンビニでバイトをする高校生の居場所は、職場と家、そして学校だ。彼女は経済的な理由で大学進学を諦め、妹にその道を譲ろうとしているが、共用の子供部屋では勉強をして過ごす。学校では美術教師が彼女の拠り所で、絵を描きに行っている。ただ、教師に相談を持ち掛けたとしても、彼から具体的な解決策をもらえるわけではない。進学について口にした際に返って来た話題は「週末にピークを迎える流星群」についてだった。また、コンビニには怪しい常連がおり、ある日彼は万引きをする。一度目は取り逃すが、二度目は注視していたこともあり店長と共に捕まえる。しかし結局のところ、彼は警察に引き渡されることもなく、店長の温情で差し入れまで受け取る。彼女は彼を許すことはできないし、店長の優しさに共感することもできない。

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

 彼女の生活と平行して描かれるのが、文化センターの人々だ。自転車や車で出社し、職員数名が事務所に集う。それぞれが、黙々とパソコンに向かう。いつの間にか昼休みになり、女性職員2名が食事を取りながら話すのは、明日予定しているキャンプのことだ。両方とも積極的ではなく、「迷っているくらいなら、やめておこう」という言葉を最後に話題が変わる。そこへ男性職員が、加藤という東京からの客人を連れて来る。女性たちへの紹介のついでに、男性職員もキャンプのことを話題にする。彼は「どっちでも大丈夫」だという。このまま行かないことになるのかと思いきや、ひとりが「じゃあ行きましょう」と言って決行することになる。

 その後、男性職員は視察に来た加藤も誘い、翌日、男女2名ずつのキャンプが始まる。シチューを作り、酒を飲みながら焚き火を囲む。そこでやっと「文化センターの危機」の内容に触れられる。指定管理者の交代によって、現在の職員の解雇が決まっていたのだ。男性職員は唯一再雇用が決まっており、また、女性職員の一人を推薦することにしていた。この状況に勘違いや思い込みが積み重なり、話は思わぬ方向へと進む。

 こうした流れの中で繰り返し表現されるのが、嫌悪とそれによる無言だ。登場人物は生活圏に共存する人との関係性を良くしようと会話を続け、折り合いをつけようと試みる。だが、互いにとってどこかずれた答えが返って来る。戸惑いに続く沈黙。会話の行き止まりで、その場面は解体される。集まっては離れの繰り返しの中で、誰もが居心地の良い場所を求め、さまよい続けている。しかし、その地がどこなのかは知り得ない。彼らの漂流に終着はないのだろうが、加藤が東京へ帰るということを一区切りとして、上演は終了する。

RUMINATION:反芻

 劇場からの帰路は穏やかだった。『文化センターの危機』はそのタイトルに反して差し迫ったものがなく、何か重要なことに気づくこともなかった。登場人物は気まずい日常を過ごすが、希望を失うような事件は起きない。彼らは淡々と日々の生活を過ごしている。私は居心地の悪い時間が過ぎていくのを見守り、自然と日常へ戻って来た。

 あまり記憶に止まらなかったので、私はこの作品を振り返る際に、雑誌『悲劇喜劇』2023年3月号に掲載された戯曲の助けを借りることにした。すると今度は、情報量が多すぎることに困った。俳優の演技よりもテクストの方が、登場人物の背景に対して理解が及び過ぎてしまうのだ。

 高校生、不審者、先生、職員とカテゴライズしていた登場人物を、名前のある個人として認識する。互いに名前を呼ぶ場面もあったが、きちんと認識したのは東京からの来客、加藤だけだった。冒頭のコンビニのシーンで、キャリーケースを引いて通り過ぎる姿が印象的だったこともあってか、彼を軸に作品を見ていた。ところがテキスト上では、文化センターの職員の一人、辻井ひかりが物語の中心に思える。先述したように、彼女は「文化センターの危機」の影響をまともに受ける。指定管理者の交代によって、一時は職を失うところだったが、再雇用される同僚の中野浩介の推薦で仕事の継続が見込まれている。しかし、彼女は、中野との交際が推薦の条件だと勘違いしていた。そこで、キャンプを持ちかけ、何とかして中野の気をもう一人の女性職員、吉村まりあへ向けさせようとしていたのだ。

 この企みの背景は、彼女自身の口からも説明されるが、皆は過剰な妄想による奇行として解釈する。上演での彼女からは万引き犯、杉田進次郎に匹敵するほどの異常さを感じる。しかし、戯曲では、彼女の言動の背景を冷静に分析できる。そのせいで、上演の際に感じた気まずさの言い訳を付け加えて物語を再構成してしまう。これでは作品が損なわれてしまったように感じる。

 こうして振り返ると、私にとって『文化センターの危機』は共感しない作品として成立していることが分かる。舞台上にいる彼らは、他人を気遣うこともしなければ、理解しようともしない。自分の思想を第一として生きている。だからこそ、大きな事件が起きることもなく、日常をやり過ごせている。そして、彼らの態度に呼応して、私も上演をやり過ごしていたのかもしれない。

 「海辺の町 二部作」は戯曲や写真など、上演の断片を比較してみても、同じような内容に感じられるかもしれない。海辺の町で、若者が自分の価値に危機を覚える物語だ。何もない空間で、記号的な動きと、日常的な身体性で演じられる。しかしながら、上演で受ける印象は全く異なる。本来であれば、その理由を書き留めなければならないだろう。だが、まだそれはできる状態にない。とはいえ、上演の記憶はもう失われてしまった。また再演することはあるだろうか。次は、両作を同時に鑑賞して、その観劇体験の比較をしてみたいと思う。

1:大阪日日新聞「ステージ・オン」、2021年3月2日掲載

  • 柏木純子 Junko Kashiwagi

    1993年、兵庫県出身。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。兵庫県立宝塚北高校演劇科劇表現講師、日本大学歯学部兼任講師。歴史研究(専門:フランス演劇におけるジャポニスム)、演技指導、演出、衣装、コミュニケーション教育など舞台芸術分野において幅広く活動している。

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