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#公演評#演劇#レパートリーの創造#2022年度

レパートリーの創造 松田正隆「文化センターの危機」公演評

町を創るマイム

文:羽渕徹 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
2023.4.15 UP

『文化センターの危機』 撮影:中谷利明

 筆者は地方都市に住んでいる。車で少し走れば、文化複合施設がいくつかあり、海岸までも近い。「文化センターの危機」で交わされる言葉は、私の住んでいる町の中でも、そこかしこで聞こえてきそうな感じを受け、これといった山場のないどこにでもありそうなシーンが続く。海辺の町で文化センターの職員が、キャンプに行くという話を軸として物語は進行するが、全体を通して行われるとりとめのない会話はその典型で、万引きをする風変わりな人として描かれる男でさえ、筆者の日常の中ですれ違う人と重ね合わせることができる。

 とはいえ、ここまで漠然と感じられたことを述べてきて、はたと思う。果たしてそうだろうか。文化センターの職員がキャンプをするシーンはまだしも、筆者は万引きをする現場に遭遇したことはないし、働かず日々密航者を監視するために港に立つ男を知らない。にもかかわらず、どこかで見聞きしたことがあるように感じられるのはなぜだろうか。

 ところで、現代演劇では舞台装置は簡素化される傾向にあるが、ここまでそぎ落とされたものはあまりない。舞台上には何も置かれておらず、天井に吊された照明と、床に貼られた俳優の立ち位置を示す場ミリだけが見える空間。演技はというと、俳優によって多少度合いは異なるが、発話や表情における感情は抑制され、松田自身がいう「おろそかなマイム」によって行為が遂行される。「おろそかなマイム」とは、精度を落としたパントマイムとでも呼ぶべきもので、俳優たちの挙動は、ニュース番組で事件を解説する際に使われるアニメーションを想起させる。あるいは、次のように例えた方が適切かもしれない。ビデオゲームの中で、コントローラーを操作することによって動かされるエージェント。

 この舞台で俳優は何らかのエージェント(代行者)であるかのように見える。筆者は、最後尾の一番高いところにある席に座って観劇していたから、舞台を見下ろすような格好になり、舞台の矩形がより強調され、鳥瞰図的空間の中にいるようだった。エージェントである俳優は、矩形の舞台を出たり入ったりして、その中で次々と配置を変えていく。スクリーンに映るゲームの中のキャラクターのように。だとすれば、俳優は何を代行しているのだろうか。

 松田はある取材記事の中で次のように語っている。「地方に行くと感じる、男性と女性のあり方というか、明らかにはびこっているミソジニーのようなものを、顕在化させたいという思いはありました」[注1]。例えば、文化センターの職員がキャンプ場で朝を迎えるシーン。コーヒーを入れるのは女性であり、男性の方はというと、遅れて起床して当たり前のようにそのコーヒーを飲むのである。山場のないどこにでもありそうなシーンが続くと、冒頭で筆者は述べたが、どこにでもありそうで見過ごしてしまうから問題なのである。しかし、ここではそのような現実の再現について言いたいのではない。エージェントである俳優によって何が起こっているのか。

 俳優はその所作を「おろそかなマイム」で行う。何もない舞台にアフォードされた極めて自然な動きと捉えることもできるが、マイムはおろそかであるから、その場に無いものをありありと存在するかのように見せる、というのではない。マイムによる形象はおぼろげではっきりしない。注意深く見ていないと状況を取り逃してしまうから、観客には俳優の所作を能動的に見ることが要請される(とはいえ、大道具や小道具が何もない空間は、極端に情報量を制限させているから、自然と俳優の所作に意識が向かうことになる)。このとき観客が行うのは、コンピュータプログラムを滞りなく動作させるために、応急処置としてパッチを当てていくようなことだろうか。または、今にも崩れそうで風が吹き抜けるようなあばら屋に、何とかその形をとどめようと、辺りにある木片で補強していくような作業だろうか。つまりは、マイムという特殊な上演形式は、観客に状況を補完するように促す。そのとき使われるパッチや木片は、観客の過去の記憶だろう。

 その何とか繋ぎ合わせようとする過程で、観客は、俯瞰した視点から細部へとフォーカスすることを余儀なくされ、意識しないままにその舞台内部へと足を踏み入れることになる。今ここに、実際に現前する舞台の中にいるという感じがしてくる。あるいは、もしかしたらここに住んでいたかもしれないという気さえしてくる、というのは言い過ぎだろうか。ここで、観客の三人称的視点から、俳優の一人称的視点への転換が起こる。どういうことか。

 そのような転換が起こる印象的な俳優のマイムがある。俳優が舞台上にひとり立ち、何かをゆっくりと飲むシーン。ゆっくりと時間をかけて行われることで、俳優の動きが強調され、観者は、液体を喉に通すときの知覚を追体験することになる。また、体を左右に傾けながら車を運転するシーンは、車内で慣性に身を委ねているときの感覚を呼び起こす。だからマイムは、観客自身の俯瞰した視点に留まらない視点の転換をもたらす。

 故に、俳優は観客の過去の記憶や知覚を呼び起こし、状況を補完させるように導くエージェントである。俳優は何もない舞台上から、四方八方海であると発話することよって水平方向の視界を開き、流星群を見上げることによって垂直方向に空間を拡張させる。それは、観客がかつてどこかで見たことのある海であり、星空である。公演終盤、美術教師が高校生から送られてきたLINEを読むシーンがある。外見は先生だが、中身は先生じゃない。あなたは幽霊、いや異星人だ、と。これは俳優についてそのまま当てはまるだろう。俳優は過去に出会った人々の幽霊として観客の前に立ち現れる。二つの物語が別々に進行し、あるときは交差することで立体的に展開される海辺の町は、エージェントである俳優を媒介にして、観客自身が創造する町へと姿を変えるのである。

[1]SPICE ロームシアター京都で『文化センターの危機』『シーサイドタウン』を2本立てで上演する、松田正隆に聞く。「演劇によって、存在さえ無視される声に焦点を当てられたら」(2023年2月14日)
https://spice.eplus.jp/articles/314586

  • 羽渕徹 Toru Habuchi

    1982年生まれ、兵庫県豊岡市在住。かつて商業演劇で使われる舞台装置を製作する会社に勤務していたことがある。現在は特別支援学校講師。人が日常の中でするヘンな行動とその思考過程に関心を持つ。浄土複合ライティング・スクール二期生。

  • 浄土複合  Jodo Fukugoh

    制作、発表、批評が交差するアートスペースとして、2019年、京都市左京区にオープン。同年にスタートしたライティング・スクールでは、受講生が年間を通じて展覧会レビューの執筆や雑誌の編集に取り組んでいる。https://jodofukugoh.com

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