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#公演評#舞踊#2026年度

ローザス、アトラファイブ『和声と創意の試み』公演評

劇場で思いを馳せる地質学的時間と螺旋のオリエンテーション 

文:古後奈緒子
2026.10.1 UP

 はじめに光が浮かび上がる。蛍光管状の照明器具は舞台三方の壁を規則的に覆い、正面中央の一つをモールス信号のようにひとしきり点滅させた後、瞬きを広げてゆく。ランダムに繰り返される明滅が全面に行き渡る頃、いつまでも落ちない客電が橙色で照りつけていることに観客は気づく。ややあって一人のダンサーが静かに登場し、スパイラルを基本とするステップを丁寧に開示した。手先が描く弧の延長に繰り出されるイメージは、春の到来への期待を高める。ところが壁には「Autunno」の文字が投影され、聞こえてきたのも秋の一楽章であった。
 舞台美術と照明が示唆するグローバルな電化と温暖化に際して、今日、アーティストの少なからずが、地球住民としての責任に様々な取り組みを見せる。本作を演奏するリ・インコーニティも、エコ=リスポンシブルな独自の基準を設け、列車移動はその一項目にすぎない。ローザスはヨガやSlow Walkなどの機会をインクルーシブに提供し、自然の中で季節を感じ踊る体験を提供するサマーキャンプでは、ヴィヴァルディの《和声と創意の試み》が用いられるという。本作は同曲を用いたダンス作品となるが、劇場で標題はいかに体験され、私たちを方向付けるのか。

撮影:大洞博靖

 本作で提示される四季は、中世の芸術に源泉を持つ。創作過程では、16世紀の農民画家ブリューゲルの六連作の絵画と、曲の各季節に添えられたソネットも参照されたという。基本の弧から展開するジェスチャーには、春のソネットに続き繰り返し表れる小鳥の他、開花、落葉など四季折々の自然のイメージが見つけられる。合間に登場する人間も、種を捲き、狩りをし、飲んだくれ、そうした牧歌的な自然との関係に混ざり、火や銃など文明の徴も認められる。ヴィヴァルディの曲は8楽章の1725年版を用い、歴史的知識に基づいて演奏するアンサンブルを率いるアマンディーヌ・ベイエとの共働によって、《四季》のポピュラーな解釈を構成もろとも破壊した。冬より苛烈に表現されているという夏をクライマックスに季節は巡り、二巡目は短く不穏な調べも聴き取られる。終盤で読み上げられるアスマー・ジャマの詩「We, the salvage」は、さらに遠い地球の姿をロマン抜きでうたう。主語が太陽に始まり地と海になって終わる原文は、太陽が司る天体の運行とそれが大地にもたらす変化を地質学の視点でたどる。天地の変動は太古に遡り、「最初の人間」が登場して人新世になっても、進化のナラティブを排している。四頭の馬が勢いよく駆るヘリオスは、人間がいまだ御し切れぬ危険な光線をも示唆する。
 こうして導かれる人間中心主義を脱した目線でみれば、春夏秋冬は不変に円環するのでなく、螺旋を描いて移ろい続ける。変化のパラメーターは人類である。だから、回帰すべき理想をロマンチックに求めるのでも現実に失望するのでもなく、今ここで、何にチューニングするかが問題となる。

撮影:大洞博靖

 歴史を振り返れば、電気は劇場とバレリーナの身体を広告媒体に、国民主義と近代主義と手を組んで世界に広がった経緯を持つ。電化劇場のバレエは鋭く対立する光と闇に新旧を割り当て、ラディカルな進歩を必然とする神話の書き換えを行ったが、大衆が魅了されたのは、種々の視覚効果とともにスイッチで示される即応性だった。メディア論の古典に従えば、電気技術は知覚系の機能を拡張する点でそれまでの道具類と一線を画す。より高く、より強くより速くもっともっと・・・・・・そんな相対的価値を競う世界への移住も電化期に促された。同様の感性的方向づけの更新を、人類は繰り返し迫られてきた。もっと加速し続けるしかないと煽る向きもあるが、そうなのだろうか。
 演者が休む姿を見せる空間構成や、「stay」や「wait」を繰り返す詩が示唆するように、本作には休止や余白がふんだんに見つけられる。音楽とダンスを見てみよう。先に見た四季のイメージの破壊は、原曲の組み替えだけでなく、無音/沈黙との大胆な組み合わせにより完成する。曲と交互に配された無音の部分で、演奏家は休み、聴衆は曲を待つ。その間、演者たちの呼吸やステップ、客席のしわぶきなど、空間全体から立ち上がる響き、いわゆる環境音に耳が合ってゆく。生演奏での公演(注1)を見た時はこの沈黙が際だって感じられ、移行のたび異なる感興を楽しんだ。コントラストをなす要素の反復は作中至る所に見つけられ、二つの極の交替に知覚が主導で生み出すリズムの素材にもなっている。この現象にひとたび焦点が合えば、異種の組み合わせが重なり合うドゥ・ケースマイケルの振付作品では、めくるめくポリリズムの快楽に引き込まれる。
 聴取におけるリズム創出に最適の入門となるのは、ローザスの団歴が最長のアントニッチが冒頭で見せたベーシックな動きであろう。ローザスファンには今更だが、《Fase》でミニマルに表明された、永久運動機関に似たしくみは次のようにシンプルだ。まず持ち上げた腕を振り子のように用いて脊椎の捻りと戻りを生み、正転と逆転を切り替え持続する回転につなげる。さらに回転軸の端にある頭を傾けて倒れる方向にステップを踏み出せば、回転の軌道を空間における移動へと展開できる。人間が持ちうる位置エネルギーを利用した、この動き方の経済に気づいたときは感動したものだ。二足歩行の可能性に左右されはするものの、このように気持ちよいやり方で、人はムーヴメントのジェネレーターになれるのだと。
 ドゥ・ケースマイケルが創立した学校P.A.R.T.S.を通して、コンテンポラリーダンス界に広く影響を認められるこの基礎は、ダンスの様式や語彙ではなく、エネルギーに注目する姿勢と捉えられる。2007年のインタビューで、易経について、マース・カニングハムとジョン・ケージとの共通を問われた彼女は、自身の用い方ではエネルギーを重視すると述べている。「エネルギーが生み出されるのは、男女、天地、日夜の補完関係が、中国の伝統的な陰陽で、補完し対立する力が異なる水準で交代し続けるとき。それらは日常生活に、実践的レベルで、また作品を創るやり方でも適用される。」
 この視点で本作のダンスを見てゆくと、主に無音の部分を担ったとされるラドワン・ムリジガの振付と、多様なバックグラウンドを持つダンサーたちが生み出すグルーヴは、ジャンルの壁を越えて様々な社会層に届く可能性を持つ。たとえば本作から参加したバダクのブレイキン、サントスのタップ、クルンチェビッチの競技ダンスなど、入団前に持っていたダンス経験が鍵となっている場面が散見される。都市文化と結びついたこれらのダンス種は、対比、挑戦、融合など多様なやり方でローザスの基本に対する均衡をとりながら、記号的装飾的に利用されているのではなく、リズムのヴァリエーションを豊かにし、知覚のチャンネルを切り替える導きとなる。たとえば一巡目の冬から春にかけての流れでは、横一列に並んだ四人が競走の姿勢をとると、冬の三拍子に合わせてスケートが始まる。四人の並びはサークルのヴァリエーションやフィナボッチ数列の渦の軌跡を描き、観客はフロアに描かれるフィギュアに注目するようになる。以降のアンサンブルは、バロックの社交ダンスにも似て、自転と公転を優雅に組み合わせた天体の軌跡のようにも捉えられるだろう。続く無音の中、サントスがクルンチェビッチとタップを始めると、待ちわびた春の楽章のリズムを聞き分けた客席は大いに沸いた。

撮影:大洞博靖

 以上のように本作は、ピクトリアルな四季のイメージを散りばめつつも、参照や現実の指示に居着くことなく、現代社会の日常で不可視化、後景化されてきたリズムやエネルギーの知覚へと鑑賞者を導く。構造に組み込まれた空白は、演者にも観者にも「休む」「待つ」機会をたっぷり与える。留まりながら感じ、考える。私たちは動き、休み/待つことがあやなすリズムを各々で調整することができるのだし、堂々巡りでも一直進でもない方向づけを探ることだってできるはずだ。
 最後にもう一つ、本作が気づかせてくれたこととして、劇場の大切さ、特に経年価値を持つ劇場の存在意義に触れておきたい。劇場はマスにアピールするメディアでなくなって久しいが、デジタル環境に距離をとり五感を働かせる施設として、今日見直されている。いささか理念的な考えだが、それを肯定する感性的体験は誰もが思いつくのではないか。筆者は幸い、この作品を複数の劇場で見る機会に恵まれた。中でも印象的なのが、電化の第一波に際して別の方向に行きかけた都市の、19世紀後半に建てられた劇場だ。馬蹄型劇場の天井桟敷まで階段を駆け上がり、燃焼系の照明のルジメントに手が届きそうな席で、汗を拭いながら舞台をのぞきこめば、ピアノにしては大きい楽器を囲む音楽家たちの佇まい、平土間では見えなかったダンサーの軌跡、沈黙の「音源」などを、文字通り鳥のような目線で楽しむことができた。古い劇場の音響も素晴らしく、歌劇場ではないその空間が、年代物のヴァイオリンのように鳴り響くのを初めて体験した。舞踊フェスティバルの期間以外は演劇を専門にかけるその劇場の音楽性を引き出したのは、紛れもなく、強度と精度の高いエネルギーやリズムを生産したダンサー達である。地上と空を自在に移動する小鳥、おもむろに客席に向けられる銃などーーダンスはアクティングエリアの縁も舞台の端も越えてじつにいろんなものを客席へ届けてきた。舞台からはるか遠い席で、それらを確かに受け取った感覚は、ダンサーと音楽家とはなんと素晴らしい仕事であるかと、思わせてくれるものだった。彼らのリズムとエネルギーを見分け聴き分けることで、観客もまた、レスポンシブルなメディアになることができるのかもしれない。

注1)本作は録音音源版と生演奏版の二つの形態で上演されており、2026年の日本ツアーは録音音源版で上演された。なお、筆者が観劇したウィーン公演(2026年7月15日~17日 於:Burgtheater)は、アマンディーヌ・ベイエとリ・インコーニティによる生演奏で上演された。

  • 古後奈緒子 NAOKO KOGO

    大阪大学大学院人文学研究科アート・メディア論准教授。1990年代から関西とドイツ文化圏を行き来して、ダンス、パフォーマンスに関する通訳翻訳、記録、批評などを行う。現在は、100年以上前の舞台舞踊を、電気技術、複製技術、労働、ジェンダーなどの観点から研究し、2000年代以降の非西洋圏における舞踊史再考後の実践にも注目している。本稿と関連する論文として「エレクトラとダイナモの結婚 –ウィーン国際電気博覧会における電気劇場のバレエ 」『近現代演劇研究』2022年、他。

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