
撮影:大洞博靖
江戸時代後期の画家、鈴木其一の《夏秋渓流図屏風》を見ると聴こえてくる。ざあっとした渓流の音と共に、テクノミュージックの電子音が私の脳内に響く。夏と秋の光景を二双に収める古典的なしつらえながら装飾性にえぐみがあり、異容に大きく描かれた植物や独特の筆触は現代的なビートを打ち出して、ただならぬ季節の画に心がざわつくようだ。
自然の四季からインスピレーションを得て創作された詩や音楽は枚挙にいとまがない。古典的なバロック音楽であるヴィヴァルディ《四季》もその一つだろう。ソネットといわれる詩に合わせた作曲のため、描写音楽とも評される。18世紀イタリアの豊かな自然と人間の営みを謳う言葉を楽曲で表した。
ローザスとアトラファイブの協働による『和声と創意の試み』は、この古典的な音楽をモティーフとしつつ、新たな今生の舞台をつくった。これもまた心をざわつかせる。
1 追憶の四季
無音で暗い空間から舞台は始まる。四人のダンサーそれぞれが身体をゆるやかに動かす。鑑賞者は無意識のうちに音楽を期待するが無音のままである。もっとも、耳をすませば音は明瞭に聞こえる。足で鳴らすタップ、拍子のような息遣い、手をパンと打つ音。人間の行為から生じる原初的な音声であろう。生きている身体が発する音であり、生々しさがある。これらが時代を経て楽につながったことは想像にかたくない。舞台は音楽誕生前夜の地上で身体が動き、ダンスへの欲望がうごめいているかのようだ。
冒頭の無音が続いた後ついに音楽が聴こえ出すと、観客は耳を研ぎ澄ます。あるとないとでは決定的な違いをもたらすその音楽、ヴィヴァルディの《四季》により、流動感あるダンスへと変化が生じる。が、「春」からの開始ではない。「秋」から始まり「冬」と続くが、聴こえるのは一部の楽曲であり、これは呼び水なのか、あるいは楽曲をシャッフルして別世界を作るのか、鑑賞者の注意を引きつつ、いったん音楽と踊りは止む。
やがて「春」が第一楽章から始まり、ダンサーがそのメロディに乗った流動的な動きをみせると、安堵が広がる。人は、何かと何かが調和すると安定性や素直な美しさを感じるのだろう。
もっとも全体としては、四人で調和を見せる場面もあるが、一人のブレイクダンスが目立つ動きで効果を出すことも多い。これは、合奏と独奏を繰り返すリトルネッロ形式の《四季》を、ダンサーの身体でビジュアル的に表したと見立てることもできようか。
加えて言及すべきは、男性四人によるダンスであることだ。薄物の衣服がたなびいても、そこにニンフの優美さはなく、ロマンチック・ラブ系の詩情もなく、直方体のような体躯の動きが、回転が、跳躍が風を生む。既知の意味が削がれた風を。
舞台は季節を巡りながら進む。
春。一人のダンサーが新たに羽織ったピンク色の薄い上着は芽吹いた花を、別の一人の薄物の緑が葉を示し、四人が衣服から花びらを撒く仕草は、見る者にボッティチェリが描いた《春》を想起させる。花が舞う。長調の明るいメロディに合わせて腕を広げたり身体を少し傾斜させたりし、なだらかな曲線を描きながら四人揃って歩く。禁欲的なまでに技巧は抑え、ただ歩く。春は夏への序章のポジションなのだろうか。
夏。ダンサーが右腕を上から斜め下へ空を切る動きは、譜面の16分音符が連なって高速下降するフレーズと呼応し、激しい雨を表すかのようだ。ヴィヴァルディの指示通り、全員で一斉に奏でるトゥッティと個人のソロを繰り返しながら緊張度を高め、怒涛の嵐で終わるとき、ブレイクダンサーはアクロバティックなポーズで止まる。歌舞伎の見得のごとく静止の一瞬が劇的効果を見せる。
秋。踊るダンサーの影を黄色の照明によって生み出して、紅葉した葉の舞を見せる。実りの収穫や祭りの模様を、演劇調の振付も交えて表現する。穏やかな秋は、来るべき季節に備えた休息か、それとも伏線なのか。
冬。照明は暗くなり、舞台三方に設置された蛍光灯のいくつかが、降りしきる氷雪のごとく点滅する。音楽はなく、身をかがめた四人が歩調を揃えて足音を強める。タッタッタッタッ。おのずと緊迫感が高まるとき、第一楽章、はじけるスタッカート付き8分音符の連打が、ダンサーの足音に合わせて始まり、重なりながらクレッシェンドしていく。
春夏秋冬の合間に音楽はなく無音に戻る。四季の曲想とは別に、公演最初のようにダンサーの動きや口笛のように鳴らすシュッという音が、間奏曲のように繰り広げられる。つなぎというより、ダンスと音楽が独立して距離を確保した関係を示し、次の季節の音楽が巡ればふたたび融合して見せるようだ。音のない大きな転調が訪れるのは、もう少し先である。
2 救い出されし者
冬の途中で白いスクリーンが舞台後方に下りてきて、その向こう側にオレンジ色の明かりが透けて見える。峻厳な冬のさなか、火をイメージさせる明るい色は希望だろうか。しかし、暗闇の中で希望の心象風景だと感じさせるのは、崩れゆく自然に希望を見いだせない現状への絶望感がベースにあるからともいえよう。
ヴィヴァルディの生きた18世紀からずいぶん隔たった感がある。地球46億年の歴史からみればほんの300年の経過だが、世界の環境は激変した。異常気象は生態系を崩し、絶滅する生物も少なくない。人為的な原因から派生する災害も多く、春夏秋冬の季節の巡りは消失しそうな気配である。四季がもたらす穏やかな慈しみと自然の脅威への畏怖、その果てしない繰り返しは、もう繰り返されることのない昔語りになるのだろうか。
冬の激しい楽曲が終わるとき、灯ではなく暗黒と静寂が舞台を包み、大きな転調を迎える。女性の声が上方から響く。詩の朗読。書き言葉が生じる以前、古代から続く朗誦である。落ち着いた声のトーンは、この俗世から遠く離れた崇高な音色であり、聞く者の五臓六腑に染み渡らせる。
英語による朗読である。日本での公演であってもあえて舞台上に字幕を排したのは、詩の真意が聞く者に届く確信があるからだろう。たしかに詩の意味そのものより、声の抑揚や間などにより生じる情動が、詩の孕む静かな悲劇性を聴衆に悟らせる。ダンサーが片目を手で覆って歩く姿は、罪をつぐなわんとする姿に重なる。
《四季》にソネットがあったように、それとは別次元の詩が、おそらく現代の四季には求められ、舞台で詠まれた。その詩、アスマー・ジャマの「我ら、救い出されしもの」を公演プログラムの日本語訳で読むと、太陽や海、山、死者を呼び戻すことなど、ギリシア神話をはじめとする各国の神話に通底する要素がいくつも見られることに気づく。太陽や海は地上の誰もが馴染む自然物だからこそ神話のアイテムとなり得る。
そもそもの原風景として、太陽の光り輝く四季の記憶がある。豊饒であり過酷でもある自然の四季は、人類の記憶にゆるぎなく定着している。この記憶はヴィヴァルディの楽曲 と調和し、ダンサーの踊りはその音楽と融合してみせる。今後、現実の自然がさらに変貌しようとも、いや変わるほどに失われたものへの回想の強度は高まるだろう。
やがて人間が犯してきた過ち、手遅れかもしれないという後悔や救いを求める心情を叙した詩が読まれ、ダンサーは身をかがめる。踊りではなく暗黒の舞台でじっと固まったように存する形態が、救済を求める祈りの姿として、ある。この世の成り立ちを紡ぐであろう雨と春の復活を切望する。地上にもたらされるべき回復への祈りは、四季を希求する物語のテンションを高め、詩を締めくくる「目覚めを待つ海」は、瀕死の現状から再生を誓う神話的な光彩を放つ。
さらに想起したいことがある。ヴィヴァルディの《四季》は、完成した当初は賞賛されながらやがて忘却され、その音楽は絶滅したかのように演奏されなくなった。が、200年の時を経て蘇り、誰もが知るクラシック音楽として奏でられることである。描写音楽の《四季》が時代錯誤だと軽んじられて楽譜は散逸したが、20世紀に入り、音楽の価値に気づいた人々によって楽譜は繋ぎ合わされた。LPという当時最新の技術の広がりとも相俟って、闇から明るみに復活したのである。救い出された音楽の史実と、崩れゆく地球環境から救われたい現代人の願い。これらを絶妙に掛け合わせたともいえるだろう。
本公演は、四季をモティーフとして、コンテンポラリー・ダンスを古典に調和させる場面を見せつつも、現代的な意味を思わずにはいられない「四季」に作り変えた。現在の、今生の神話に刷新したとみなせる。
伝統的大和絵を基盤としつつ装飾的な画面を構成する琳派、その系譜に連なる鈴木其一が、さらに、不穏のリズムを絵画に織り込んだ《夏秋渓流図屏風》の独自性と、どこか似た匂いを感じる「和声と創意の試み」である。