2021年度のU35創造支援プログラム”KIPPU“選抜アーティスト・福井裕孝。7月に発表予定の新作「デスクトップ・シアター」は、テーブル上を舞台に俳優の指やものを用いて上演をおこなうという異色の作品だ。2019年の東京での試演を経て、あらたな劇場空間・出演者・演出体制で創作が再開され、現在クリエーションは佳境を迎えている。ブラックボックスに対峙し試行錯誤する福井の現在を追った。
テーブルと指で「上演」するきっかけ
——クリエーションの今の状況を教えてください。
クリエーションは今年の4月から始めています。初めて舞台作品に参加する出演者もいるので最初はゆるやかに進めていましたが、稽古場として利用する予定の芸術センターが休館になって[*1]、しばらく中断した後、5月中旬から別の場所で稽古を再開しました。今回の作品では劇場空間にテーブルを七台並べてそので上で上演をおこなうのですが、今はまず個々のテーブル単位で一つずつ作品をつくっていて、それらをどのテーブルでいつやるかという構成は次の段階で考えます。なので今は配役とかも決めずに、テキストを全員で共有してつくっているという感じです。
——2019年の東京(スパイラルホール)での試演段階ですでにテーブルの上での上演でしたが、そもそもなぜそのようなかたちになったのでしょうか。
試演は、奨学生として採択されたクマ財団[*2]の一年間の活動の成果展の中で発表しました。会場は展示スペースとホールがある施設で、なんとなく音楽のライブや映画の上映をする奨学生はホールを使うという感じに分かれていました。ただホールは、これといった特徴のないパフォーマンスのために設えられた特設ステージみたいな感じだったので、そこで自分がやれることを考えるのは難しくて。だから展示スペースの方で上演できることを考えたんですが、こっちはこっちで作品を展示する人数が多くてスペースが限られていたのと、人通りも多く散漫とした環境だったので、だったら上演をするための舞台、劇場のような何かしら物理的に閉じた機構を作ってそこで上演をやって、上演していない間はそれを周囲の作品と並べて展示ということにできればいいなと思いました。以前からテーブルの前に座って天板の上に意識を向けている感覚と、劇場で客席から舞台上に意識を向けている感覚に共通点を感じていたので、じゃあテーブルを舞台にしようとなりました。
テーブルを考えるにあたって、クマ財団の同期の古舘さんが制作されている『PLAW』という素材(アクリルの板に木の表面を焦がして点出させたような素材)が思い浮かんで。焦げて黒くなった木のテクスチャーが透明で抽象的なアクリル越しに写って見えるのですが、この素材の持っている「黒さ」がブラックボックスの劇場のそれと重なるように感じたんです。この素材を転用できれば、劇場の「空間」と「場所」という二つの性格をテーブルに落とし込むことができるんじゃないかと思って、前回はテーブルを一から制作しました。
——指で演じるというアイディアもそこから生まれたのでしょうか。
テーブルの上を舞台にするなら、人もそれにスケールを合わせて指でやろうという感じでした。なのであくまでテーブルを設定することが先にありましたね。
——劇場ではない場所を使うパフォーマンスは、そこにあるものをそのまま活かす手法を採ることが多いですが、あえてそこに縮小した劇場を持ってきた。
エキシビジョン(展示)という催し自体と、他の作家の作品がたくさん並んでいるっていう状況がすでに特殊すぎるので、そこに対して開いていってもどうしようもないと思って。むしろ周囲から一旦閉じること、「ここはそことは違う空間です」って言うことから始めないといけなかったですね。
——色々な表現方法がある中で、福井さんが演劇という形式を使うのはなぜでしょうか。
時間にしても物体にしても何かを「固定する」ことが苦手なので、そういう意味で演劇は一番つくりやすいし、つくれてしまうというのはあると思います。以前までは、演劇の形式上の制約をネガティブに捉えていましたが、最近は演劇の「虚」(=「フィクション」)を自己否定して現れてくる「現実」にあまり意味を見出せなくなった。
最近、能や文楽などの伝統芸能の映像をよく見ます。様式や形式の中にいる人やもの、空間の見え方に、いままでなかった魅力や説得力を感じます。形式の中に身を預けて、嘘を嘘と引き受けて嘘をつくことのほうに今は可能性を感じる。今回はテーブルの上をフィクションの空間として再設定するという「形式」についての作品なので、普段劇場でやる時よりも発想は飛躍させやすいなと思います。
集団創作への向き合い方
——今回の創作では、演出家が二人になるなど座組が試演時から大きく変更されています。なぜこのような体制を取られたのでしょうか。
試演の時はテーブルが一台だけでしたが、今回の場所(ロームシアター京都ノースホール)ではテーブルの数が増えることを想定していたので、自分一人がすべてディレクションするよりも、特に個別のテーブルに対しては、複数の人間が演出的な立場から関われたほうがいいと考えました。僕の場合はこれまで演劇でやってきたことをテーブルにインストールする、劇場をテーブルに置き換えるみたいなベクトルで考えますが、テーブルって何かものを置くための土台や台座だったり、あるいはもっと身近なただの机として考えることもできるし、舞台となるテーブルをどういった設定空間として捉えるかっていう前提の部分から違っていた方がいいんじゃないかなと。だから単純に演劇の人だけで集まってやるよりもテーブル側から演劇側に向かうベクトルで考えられる人と協働したいと思ったんです。今回一緒に演出を手掛ける吉野俊太郎さんは、彫刻の研究をされていたり、台座や人形劇における“操演”の研究を専門とされている方なので、今回やろうとしていることに対して別の角度から一緒に何か考えられそうだと思ってお声がけしました。
——実際、演出を二人体制でやってみてどうですか?
これまで主宰と演出というポジションを切り分けて考えることがなくて。初めて今回外から演出という立場で公演に関わる方が入ると、創作の部分で変化があるのはもちろんですけど、公演全体の動かし方についてもいろいろ気づかされることが多いです。劇団とかだと当たり前にやっている事かもしれませんが、集団でつくるのって大変なんやなってあらためて感じています。吉野さんと演出の打ち合わせをしていても、自分が無意識に主導権を握ろうとすることが多くて、その辺りのバランス感覚が今でも難しいです。自分は主宰者でもあるので全体に対するディレクションの視点もあるんですが、やっぱり共同演出といっても二人でひとつの何かを目指したいわけではないし、できるだけ演出それぞれの考え方が同居、並走できるようにしたいと思っています。
振り返ってみて、これまでの公演でも集団で進めている自覚や配慮は全然足りてなかったなと思うし、今回スタッフも含めて関わる人数の規模も大きくなったので、改めて今、一つの集団として創作を進めて行くということと丁寧に向き合う期間にもなっています。
「人」「もの」「空間」が生む“小さな変な事”を積み重ねる
——集団創作という今回あらたに挑戦する面もありながら、福井さんの作品には一貫して「人」「もの」「空間」というテーマが見受けられます。
普段演劇や舞台作品を見ていて、作品を見ているという感覚よりも先に、そこにいる人やもののありよう、場所のつくりに興味がいくんです。演劇をつくりはじめた当初からそういう意識があったわけではなくて、いろいろ作品をつくっていく中で、「人」「もの」「空間」どうしの関係が変わったり、普段とは違った見え方になったりするのが面白いと次第に思うようになっていって。最初はお笑いの影響で何をやるにもウケるかどうか、面白いかどうかが基準になっていたんですが、自分がほんまにおかしくて笑えることって、消火器の位置とか、建物の天井の低さとか、ドラマとはもっと別のところにあると思ったんです。例えば、テレビのネタ番組でお笑い芸人、派手なスタジオ空間にテーブルとか家具を配置して家のコントとかをするけど、場の状況として見たらかなり変ですよね。自分が演劇の中で感じているおかしみは、そこでいう家具の定着していなさみたいなところにあらわれていて、それは「人」「もの」「空間」の関係の中のズレや不調和によって生じている。そうして「人」「もの」「空間」の関係について次第に考えるようになりました。
——今も作品を創る中で「おかしみ」みたいなことは意識していますか?
おかしみというか、変な事を起こし続ける以外に時間をつくる手立てがないんですよね。ドラマなり展開なり劇を駆動させる大きな時間の流れがあればいいんですけど、僕の場合そういう依拠できるものがなくて、小さな変な事を積み重ねていくという作り方しかできない。変な事は好きですけど、変な事がやりたいからというより、そもそも変な事ことしかつくり方がわからないんです。