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#公演評#演劇#ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム“KIPPU”#2021年度

福井裕孝「デスクトップ・シアター」公演評

人とモノのあいだを考えるスリリングな実験

文:菊地浩平
2021.9.1 UP

 エドワード・ゴードン・クレイグ(1872-1966)は、「俳優は去り、その地位に生命のない像がつかなければならない。彼がもっと良い名前を手に入れるまで、我々は彼を超人形と呼ぶ」という一節が有名な演劇論「俳優と超人形」(1907)で知られるが、実は「演出家」の必要性を唱えた人物でもある。

 クレイグが演劇活動を始めた19世紀末は、スター俳優が公演の多くを取り仕切るのが通例だった。作品選びの段階からスター俳優がいかに輝けるか、喝さいを浴びることができるかが重視され、その目的のために戯曲が改変されることも日常茶飯事。クレイグはそんな状況下で、俳優とは異なる立場で上演全体のヴィジョンを示し、その具体化のために舞台にかかわるあらゆる要素をコントロールする演出家の必要性を訴えた。

 一方でクレイグは公演を企画するたびに俳優や関係者と揉め、金銭トラブルも絶えず、彼が目指す演出家像を具体的に示すことができなかったことでも知られる。そもそも一回性の芸術である演劇において、事前に描いたヴィジョン通りにあらゆる要素をコントロールするのはほとんど不可能に近い。その意味でクレイグは、理想と現実のギャップ、演劇という芸術の抱えるアンビバレンスをこそ世界に知らしめた演劇人だったと言えるかもしれない。

 そして福井裕孝と吉野俊太郎の共同演出による『デスクトップ・シアター』を見て、わたしはクレイグの夢が再び色を取り戻す可能性に触れた。本作は2021年7月にロームシアター京都と京都芸術センターによるU35創造支援プログラム“KIPPU”のひとつとして上演されたものだ。

 劇場内は、空間の東側に3つ(ノースイーストテーブル、イーストテーブル、サウスイーストテーブル)、西側に3つ(ノースウェストテーブル、ウェストテーブル、サウスウェストテーブル)、南側に1つ(サウステーブル)、計7つのテーブルがコの字型に並べられていて、客席は南側以外の6つのテーブルの外側に中央を向く形で設置されている。本が積まれていたり、フィギュアやペットボトル、観葉植物が置かれていたりと、それぞれのテーブルに特徴があり、観客は任意のエリアを選び着席する。

撮影:中谷利明

 会場で販売されていた台本をのちに参照して分かったことだが、本作は3分から20分の演目を、スケジュールにのっとって各テーブルやテーブルの内側のスペースで披露する構成であった。最後の演目である「コワーキングスペース」では劇場内全てのテーブルが使われていたが、それ以外は各テーブルで同時多発的に披露されていたため、一度の観劇で全体を俯瞰し内容を把握できる観客はいない。必然的に観劇体験は断片的になる。

 そうした限られた情報の中から本作の主題をひとつ抽出するならば、モノの役割の可変性ということになるだろうか。わたしが着席したノースウェストテーブルで披露された「モノカー第3話」では、演者がペットボトル、駄菓子、リンゴ、ぬいぐるみなどを使い、渋滞をすり抜け配達員がフードデリバリーする模様が演じられた。台本には「モノが車になった世界。『モノカー』はモノの外観を持った車のような存在で、乗り物でもあり、モノでもある」と書かれている。人形劇の世界にはいわゆる「人形」とは異なるモノを人形化する「オブジェクト・シアター」という手法があるが、それに近い趣向かもしれない。

撮影:中谷利明

 だがこうした物語のあらすじや、目の前で披露されているのが「モノカー第3話」という演目であることは、少なくとも一度観劇しただけのわたしには分からなかった。モノを使ってなにやらデリバリーらしきことが行われていて、同時にほかのテーブルでも何かが起きているようだ、と思っていると次の演目がどこかで始まっては終わっていくというのが当初の印象であった。

 これは観客としては、ずいぶん不安である。掟が分からず知り合いもいないコミュニティに突然迷い込んでしまったかのようだった。だからこそ、演者がトランプを使ってカードゲームに興じる「神経衰弱」や、老朽化したコイル式コンロを覆い、その上にIHコンロを置くために使えそうな、しかし注文する段階ではただの台に過ぎぬそれに3,300円を払えるかという件について男が語る「私とコンロ台」は、不安感が幾分か解消される演目であった。カードの役割が少なくともプレイヤー間で共有されているからゲームは可能だし、3,300円のカバーにどういう役割を与えるかは持主次第である。つまり使う人と使われるモノの関係が固定されていたり、固定されていなくとも人がモノに対してどのような役割を与えているかの説明がなされれば、前述した不安を感じずにいられるということだ。

 この背後には、モノに対して人間が優位に立ち、特権的でありたいという欲望、そうあることを当然だとする意識が見え隠れする、というのは考えすぎだろうか。少なくともわたしは、普段そうした権力構造に安住し、いやそれが権力構造だということにすら無自覚であったと気づかされるこのスリリングさが、本作の白眉であったように思う。

 また、こうした作品の在り方には創り手の問題意識が大きく影響してもいるだろう。

 今回の上演で福井は吉野を共同演出に迎えた。普段は彫刻制作を主たるフィールドとしている吉野を招聘する理由について福井は、インタビューの中で「劇場をテーブルに置き換える」だけではなく、「テーブル側から演劇側に向かうベクトルで考えられる人と協働したいと思った」と語っている。加えて当日パンフレットで福井は「目の前のテーブルを「テーブル」として使うことから『デスクトップ・シアター』をはじめたいと思います」と述べていることからも、モノをそのモノとして/モノ以外のモノとして見せる、というのが今回の公演において重視されていたことが分かる。

 更に前述のインタビューの中で福井は、「自分が無意識に主導権を握ろうとすることが多くて、その辺りのバランス感覚が今でも難しい」、「共同演出といっても二人でひとつの何かを目指したいわけではないし、できるだけ演出それぞれの考え方が同居、並走できるようにしたい」とも述べている。これは演出行為がもつ権力構造や、ともすれば暴力的にもなりかねないことへの危機意識と言え、それをいかに回避するかが狙いのひとつであったことがうかがえる。つまり本作において描かれる人とモノのスリリングな関係性は、そのまま演出家と俳優/モノの関係の問い直しでもあったのだ。同時に、断片的であるかに思われた本作の諸要素は、一人の特権的な演出家が上演全てをコントロールしないということを敢えて選択した結果生まれた方法論であったことも明らかになろう。これは演劇という芸術の抱えるアンビバレンスに対する極めてクリティカルなアプローチとも言え、クレイグの魂の残響に触れた思いだった。

 この時世において『デスクトップ・シアター』と聞けば、オンライン演劇を連想する方も少なくないだろう。しかし本作が劇場でなければ味わうことの出来ない代物であったことは疑いない。台本を読むことで追体験することは出来るが、それはあまり意味をなさない答え合わせのようなものだ。観客として、人とモノを巡るあの不安感、特権的に全てを見据え把握することなど到底出来ないという不能感を覚えることこそが、本作『デスクトップ・シアタ―』の醍醐味であった。

撮影:中谷利明

  • 菊地浩平

    撮影・三島正

    菊地浩平 Kohei Kikuchi

    白百合女子大学人間総合学部児童文化学科講師。専門は舞台人形劇を中心とした人形文化全般。単著に『人形メディア学講義』(河出書房新社、2018)。

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