『シーサイドタウン』はシンジという男が東京からかつて住んでいた家に戻ってくるところからはじまる。作品の大部分は帰郷したシンジと地元の人々との会話によって成り立っているのだが、彼女ら彼らは揃いも揃ってどこか「おかしい」。「Jアラートの訓練」にやたらと熱心な隣家の三人家族はシンジの家に勝手に上がり込むのみならず冷蔵庫を物色して飲み食いをし、職場の同僚となった中学の同級生(しかしシンジは彼のことを覚えていない)は「性的な行為をした場所にはミサイルは落ちない」というもはや陰謀論ともいえない妄想のもと行為に励んでいる。その「おかしさ」に笑ってしまいそうにもなるのだが、しかし彼女ら彼らの態度は大真面目だ。観客たる私の半笑いはやがてうすら寒い気分とともに引きつり、舞台には不穏さが満ちていく。
近年の松田正隆の作品の上演では、舞台上には基本的に俳優の体だけがある。観客は俳優の発する言葉と身ぶり、そして自らの想像力だけを頼りに登場人物が生きる世界を立ち上げることを要請される。視覚的なスペクタクルとは真逆をいくストイックさだが、そもそも演劇というものが今ここにはいない人物と今ここではない時空間を舞台上という今ここに立ち上げるものであることを考えれば、演劇を突き詰めた先にあるのが松田の演劇だということにもなるだろう。松田の作品を観ているとしばしば、私はこんなにも今ここに(い)ないものを見ることができてしまうのだということに新鮮に驚いてしまう。
だが、私が見ている世界が登場人物たちの見ている世界と完全に一致することはない。それどころか、ことあるごとに私は自分の想像が、そこにあるはずの世界に対する認識が間違っていたことに気づかされ、その修正を迫られることになる。もちろんこれは現実でも起きていることだ。たとえば友人の新たな面を知り、あるいはマイノリティに関する新たな知識を得ることで世界の見え方が変わってしまったという経験は誰にでもあるだろう。それでも『シーサイドタウン』が不穏なのは、登場人物たちに見えている、そこにあるはずの世界がたった一つの同じものだとは信じられなくなるような瞬間がたびたび訪れるからだ。彼女ら彼らが見ているのは本当はそれぞれ別の世界なのでは——?
この不穏な問いはすぐさま私の座る客席へと跳ね返ってくる。隣の席の観客と私は果たして同じ世界を見ていると言えるのだろうか。なるほど、少なくとも『シーサイドタウン』という作品の同じ回の上演を見てはいる。だが、そこで見ている世界はおそらく大きく異なっているだろう。こうして私の半笑いは引きつってしまう。現に今ここに(い)ないものを見てしまっている最中である私に陰謀論を笑うことはできない。舞台の上の不穏さは現実と通底しているのだ。