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レパートリーの創造 松田正隆 海辺の町 二部作 関連コラム

松田正隆論を書く前に―『シーサイドタウン』とその先

文:内野儀
2023.2.10 UP

ロームシアター京都レパートリー作品 「シーサイドタウン」Photo:Toshiaki Nakatani

 劇作家・演出家太田省吾(1939~2007)の著書に『なにもかもなくしてみる』(2005)というのがある。資本主義社会の中心的価値とかかわる「速度」を落とすことで、「生命存在」を見つめようとした太田は、台詞がいっさいなく、俳優の身ぶりも超低速な「沈黙劇」という独自の形式にその代表作とされる沈黙劇三部作(『水の駅』(1981)『地の駅』(85)『風の駅』(86))で到達したことで知られる。ここで注意しておきたいことは、沈黙劇での「沈黙」は、稽古場での試行錯誤の結果であって、沈黙劇として当初から構想されたものでなく、創作プロセスで不要なものを削っていった結果、当初はあった台詞が不用になった、すなわち発語する/される必要がなくなったことの結果としての「沈黙」である。したがってその後の太田は、沈黙劇を反復可能なフォーマットにしてしまうことなく、いわばそこからの帰還を目指していたとわたしは考えている。「なにもかもなくしてみる」のだが、「なくしてみ」ただけで終わるわけでないのだ。そこからの不断の帰還の試みを、太田はそのキャリアで継続していったのである。

 帰還といってもそれは、単に普通の演劇、すなわち、写実的な対話劇であろうと絶叫型のアングラ・小劇場演劇だろうと、既にエスタブリッシュした=硬直した表象のスタイルになにごともなかったように戻ってしまうことを意味しない。どうやってそこに戻らず、再び、俳優は劇作家の言葉をひとりの人間として発語できるのかを考え続けたといってよい。楽天的な普遍主義で人間を代理表象できると考えた近代劇(=新劇)と、それを批判して表象ではなく現前だと言い換えてみたにもかかわらず、結局のところ、自己表象=自己耽溺へと回収された―自己の身体を〈いま、ここ〉で暴走させたところで、それは自己の身体の時限付き表象/記号でしかないというジレンマ―アングラ・小劇場のそれぞれから距離を取るというより、それらはどちらも無効だという前提に立ったときに、「ではわたしたちはどうすれば演劇という形式で人間という現実に近づけるのか」という問いが改めて浮上する。ポストヒューマニズムをいうためには、まずはヒューマンを物質化/現実化しなければならないのである。それはまちがっても、言語のみの存在でも身体のみの存在でもないはずだ。もう少し広い文脈で言い直すと、コード化されて表象の閉鎖系内に封印された〈人間という現実〉をどのように劇場/舞台/空間に生成/奪還するかというきわめて同時代的なプロジェクトである。

 太田とはかなり年齢差のある松田正隆(1962~)は、わたしにとって、その太田による「なにもかもなくしてみ」たのちの〈帰還の試み〉を、〈人間という現実〉を生成する/奪還することについて、自らの独自経路、即ち松田自身が置かれた文脈(社会的、政治的、個人的)において考え/実践しつづけてきたアーティストである。初期の「ふつうの劇」、つまりは近代劇そのものといってよい精密な台詞劇から、マレビトの会におけるあたかも演劇史を遡行するかのようなアングラ・小劇場的な〈声と身体の劇〉の多様な展開がまずあった。

 その後の展開については、高嶋慈による『シーサイドタウン』劇評内(artscape、2021/01/30付記事)での的確な紹介と分析が参考になる。そこで高嶋は『HIROSHIMA HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)と『N市民 縁下家の物語』(2011)における「点在した俳優による行為の同時多発性とリニアな時間軸の解体」―前者をドキュメンタリー、後者を「ドキュメンタリーから『ドラマ』へ」の方法の移植であったと書いている。さらに震災後の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)では、「『ドラマ』は一回性の出来事に限りなく近づ」いたという。

  その後、『長崎を上演する』(2013-2016)、『福島を上演する』(2016-2018)では、「複数の執筆者による共同制作というかたちで、長崎や福島での取材を元にした戯曲が、本作(引用者註:『シーサイドタウン』)同様ミニマルな上演形式で試みられている。(同上)

 

ここで高嶋がいう「ミニマルな上演形式」とは、以下のようなことである。上演空間には何も置かれず、「場ミリ」(舞台上で大道具の場所や俳優に位置を知らせるための白いテープ)だけが見えている。背後・左右の壁も劇場にある元々の壁であるが、むきだしというよりただそのままである。さらに、音響効果はなく照明効果もないに等しい(照明はつかないと上演できないので、つく、という程度である)。しかしなんといっても、『長崎を上演する』以降の松田演出の特徴は、俳優の「ミニマルな」演技である。俳優はほぼ直立不動で、表情をまったく変えず、俳優同士が対面することもないので―対面しているというイリュージョンを与えないので―ほぼ棒読みで発語される言葉は宙を舞う。あるいは、「俳優どうしが目を合わさず、現実にはありえない距離感と位置関係で『配置』されている点も特徴だ」(高嶋による劇評より、同上)。身ぶりについては、ミニマルとかマイムとここで高嶋は呼んでいる。ただ、松田から影響をかなり受けたと思われる村川拓也作・演出による『事件』(2021)の劇評において(artscape、2021/05/14付記事)、同じ高嶋は、『事件』での俳優のマイム的身ぶりを、「エンタメ的な要素や誇張性を伴う『マイム』というより、『動作をエアーで行なっている』感覚に近い」と書いている。松田演出の演技もまた、「動作をエアーで行っている」といったほうがよいのではないだろうか。

 以下、わたしはこれを「エアー演技」と呼ぼうと思う。というのも、松田演出の演技における身ぶりや動きは、すべてが省略形で、俳優の動作の再現性にリアリズム演劇の精密さやマイム的誇張もない。テクストはリアリズムなので、俳優は登場人物であり、(物理的にはない)ドアや窓の開け閉めをしたり食事をしたり車の運転さえする。会話も成立しているようだ。しかしそのどれもが、外形的な模倣に過ぎないという軽さと緩さを持っていて、だからこその「エアー演技」である。

ロームシアター京都レパートリー作品 「シーサイドタウン」Photo:Toshiaki Nakatani

 こうして松田作品においては、「なにもかもなくしてみる」というより「省略すべきは省略する」となるわけだが、もちろんそれは、何のために?という問いをすぐさま喚起するだろう。ふつう、「なにもかもなく」したり、省略したりすると、そこには「なくしたもの」や省略されたものを想像せよという命令/操作/誘惑が感じられ、想像力が試される的な話になりがちである。たしかに、ミニマルなので、映画的といってもよいほど、簡単に時空が飛べるし、場面を次から次に転換することが可能になる。その分、劇作家としての松田には、映画的な空間移動や時間の推移についての自由さが与えられたことは認めておかなければならない。とすればやはり、物理的にははっきりとは可視化されない時空の転換について、観客は台詞に耳を集中して想像力を働かせよ(う)、と語りかけられているということなのか。

 ある意味それは、語りかけられていると感じるかどうかの問題だが、感じてしまえば受け入れる側と拒否する側が必ず出てきて、観客は分断され、評価もまた分断されることになる。極端な話、エアー演技で展開する「地方の荒廃、血縁関係のしがらみ、隣国からの攻撃の脅威と緩やかに浸透する全体主義。現代日本社会の病理を凝縮したような辺境の海辺の町を舞台とするオーソドックスな会話劇」(高嶋の劇評による、同上)に立ち会う観客は、台本を買って読むだけでよかったと思う可能性さえある。あるいはまったくその逆に、語りかけられたから想像力を総動員することを意志し、感受性豊かな「わたし」にはわかる、とうそぶくことになる可能性もある。「わかるやつにだけわかる」の特権性である。

 しかし松田は、この「オーソドックスな会話劇」をエアー演技で上演しなければならないと考えているのである。それは高嶋が劇評で的確にまとめてくれていた本作の劇世界、すなわち「現代日本社会の病理を凝縮したような辺境の海辺の町」を描きたかったという表面的な理由―あらゆる劇作には動機が必要で、表面的というのは批判ではない―だけで説明してはならないとわたしは思うのだ。

 エアー演技でもたらされる独特の感覚。話していることは理解可能なふつうの言葉なのに、表情がゼロだったり動きが省略されたりする俳優たちの身体が、何も隠さず「ここは劇場ですよ」「これは上演ですよ」「これはフィクションですよ」と声高ではなく単なる事実として観客の前にそのまま置かれた空間の〈いま、ここ〉を生きる。そのことで、劇場/舞台/上演が現実化するというのか、観客たちが生きている現実の時空と本来はフィクションである登場人物たちが生きている時空が、俳優たちが生きている現実の時空を媒介にして、それぞれが分断されることなくゆるやかにつながる。切断することで現実化させるのではなく、切断しないことで現実化させる。

 この太田省吾からつづく松田による〈人間という現実〉の生成の試みは、『長崎を上演する』から『シーサイドタウン』にいたって、ある達成をなしたのではないか。そしてそれは、ほとんど革命的な事態だとわたしは思うのだ。つまり、さらに先があってしかるべき方法的革新ではなく、単なる暫定的解決策でもなく、そのままで継続可能な根源的な方法的革新であり、あとはもう、松田が語りたい物語を語ればよいのである。

 『シーサイドタウン』の先に、わたしはそうした展開を見ている。なぜなら、わたしたちにはいま、「次は何?」ではないマインドセットと、硬直した過去の遺物をきっぱり捨て去ることだけを良しとするのではない持続可能な新たな伝統の構築が求められていると考えるからである。以上がわたしの見込み違いでないならば、松田の方法的革新がある程度の広がりをもって受け入れられていくような環境や状況が整って初めて、松田正隆の作家論を書くことが可能になる。今回再演される『シーサイドタウン』と新作の『文化センターの危機』は、海辺の町二部作となるようだが、ロームシアター京都のプロジェクトとしては、「レパートリーの創造」となっている。繰り返し上演することが可能な作品を創り出すというのだ。つまり、松田正隆論が書かれる日はそう遠くはないはずなのである。

ロームシアター京都レパートリー作品 「シーサイドタウン」Photo:Toshiaki Nakatani

  • 内野儀 Tadashi Ucihno

    日米現代演劇、パフォーマンス研究、学習院女子大学国際文化交流学部教授。1957年京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。学術博士(2001)。2017年まで東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。主な著書に『メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会、2001年)、“Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the New Millennium”(Seagull Press, 2009)、『「J 演劇」の場所―トランスナショナルな移動性(モビリティ)へ』(東京大学出版会、2016年)など。

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