「演劇」を観る時、実際のところ私は何を見て、何を捉えようとしているだろう。目の前に立つ俳優の振る舞い? 彼らが発する会話から読み取れる関係、含意? 美術や照明、音楽を交えて織りなされる世界観? 語られる物語の行く末や背景にあるテーマ? だが、近年の松田正隆の手がける演劇の上演で、目に見え、聞こえるのは、俳優の姿と身振り、発せられる言葉のみ。ほかは存在しないか、容易に輪郭を露にしない。
長崎と福島、二つの被曝(爆)都市を複数の作家が訪れ、書き下ろした短編をオムニバスで上演する連作『長崎を上演する』(2013〜16)、『福島を上演する』(2016〜18)で、松田とその活動基盤であるマレビトの会は、舞台装置や効果の一切を廃し、俳優の身体だけを用いて地域の日常/非日常を立ち上げる「出来事の演劇」に取り組んだ。2021年1月にロームシアター京都で初演された『シーサイドタウン』は、その形式を、長編ドラマで成立させようとする試みだった。
物語の舞台は、海辺の田舎町。一人の男が東京での暮らしを畳み、故郷の家での新生活を始める。おりしも町では隣国からのミサイル攻撃に備えた全体訓練が予定されており、全体主義的なムードが蔓延している。訓練への熱意を隠さない隣の一家やミサイルの落下予想地点全てで「女とヤる」ことを計画するかつての同級生らしき人物との付き合いを通じ、男は戸惑いながらも、町に立ち込める空気に呑まれていく。
立ったまま、身体の向きと同じ方向へ発せられる台詞、完全無対象でなされる動作——独特の演技スタイルは、男が出会った人々の、見た目と言動のギャップ、その凡庸さと異様さを際立たせる。さらに民家の居間と台所で展開する会話劇にも関わらず、その当事者たちは視線を合わせることもなければ、身体の向きや進む方向さえリアリティなくズレており、舞台上の人物の関係性、そこにある含意を読み取り、物語の全体像を掴もうという、よくある演劇の見方はここで頓挫させられる。
では、私は何を見るのか。舞台上で唯一、現実に依拠して進行しているのは、蛇口をひねる、布団を運ぶ、など、モノを想定した動作だ。そして、この身振りをスイッチにして、私の脳内には、目の前にはない、民家や畑の、それも写実的なディテールさえ持ったイメージが再生されていった。劇場のブラックボックスの中に立つ俳優たちと、その身振りが引き出す脳内イメージが二重写しになる——それが私にとっての『シーサイドタウン』 の眺めであり、経験だった。
もちろん、これはごく個人的な受容体験にすぎない。だが、『長崎を上演する』『福島を上演する』以前にも、松田とマレビトの会が、たびたび、さまざまな仕方で「都市」を取り上げてきたことを思えば、その延長線上に、舞台と観客のイメージとの間に「町」を出現させる試みが登場したとしても、不自然ではないはずだ。
同じ西日本の海辺の町を舞台にした新作『文化センターの危機』は、週末の3日間にわたり、コンビエンスストア、文化センター、キャンプ場など、複数の場所で起こる出来事を描くという。点在する場所、点在する人々の営みは、どのように観客に働きかけ、どのような像を結ぶだろう。ひとところにとどまっては知ることのできない「町」の現在を、そこから見晴るかすことはできるだろうか。