ロームシアター京都のプロデュースシリーズ〈レパートリーの創造〉の第九弾として2026年12月に発表する和田ながらの新作公演『メンズ・ティー・パーティー』。
上演に向けて、演劇教育の視点から現代社会における自由の可能性について哲学的に思索する『自由が上演される』(講談社、2022)を著し(元になった評論「演劇教育の時代」が第65回群像新人評論賞受賞)、和田ながらと高校の同級生でもある渡辺健一郎が、和田の演劇的好奇心の源泉を探る。

メインビジュアル:AYOND
おおぜいの観客を一か所にあつめ、そのひとたちに直接言葉を投げかけるでもなく、俳優がなんやかんやとうごめきたわむれる、演劇。生物の営みとしては、こんなに異様なことはない……が、儀礼としてであれ興行としてであれ、このような営みを人類が欠かしたことはない。
演劇は異様だ。ただしそれは人間が異様だということだ。そして人間の異様さをとらえるための重要な手がかりのひとつが演劇にある。少なくとも和田ながらはそう考えている、ようにみえる。
和田ながらはおそらく、高校生のときにはすでに演劇の異様さに魅かれていた。言葉の物質性、音や響きを舞台上にいかに配置するか、そういう上演をおこなっていた。テンポ重視のエンタメ演劇しか知らなかった同級生の私には、「なんだか変なことをやっている人」にみえていた。「どうやら私には分からない面白い世界があるらしい」と、近くから遠目にながめていた。全部ア段で構成された名前もまた、彼女のオリジナリティを形作っているのだろうか、などと考えたりもしていた。
当初から、創作の基盤にあったのはレーモン・クノー『文体練習』(原題:Exercices de style)。ごく短い日常の些細なワンシーンを、99通りのスタイルで書き換える文学作品である。世界のさまざまなとらえ方が、遠くから近くから斜めから、ラフに厳密に、愛/憎をもって、特定の物体に偏執的にと、無限の振れ幅でえがかれる。これはもはや「文体(描き方)」にはとどまらない。世界と接する、その「構え」をどうするか。そうした存在のあり方(style)の問題が、言語表現をつうじて体現されている。

『文体練習』2019年、photo:Koichiro Kojima

『文体練習』2019年、photo:Koichiro Kojima
和田ながらの演劇の、小さくない部分が『文体練習』に支えられている。私も、文体練習のワークショップ版のようなものに参加したことがある。朝起きてから、家を出るまで、なにに触れたか。なにを嗅いだか。どれだけ声を発したか。特定の行為や感覚を抽出し、日常の再現をせよと指示がとぶ。これが意外にもかなり難しい。起きてから最初に触れたものを思い出せるだろうか。カーテン? ドアノブ? ルーティンは無自覚におこなわれ、かんたんに記憶の外へとはじかれてしまう(たいていの場合はスマートフォンだろうか!)。
感覚をルーズにして、日常をこなしていくのもまた一つのスタイルであるだろう。ただしそれは、われわれがいつの間にか受け入れ、デフォルトになってしまったスタイルでもある。ところが注意の向け方をほんの少し変えるだけで、生活の別な輪郭がみえてくる、というわけだ。したための新境地『擬娩』(初演2019年、やんツーとのコラボレーションによる再創作2021年、再演2023年)もまた、そうした文体練習のなかで産まれでてきたに違いない。「擬娩」とは、出産にともなう行為や苦しみそれ自体を、夫が模倣するという古い習俗。当人にしか体験しえないはずの身体的苦痛を、別の身体でもなぞってみようとするこの異様な営みは、あまりに演劇的。さまざまな地域でおこなわれていたらしい。
『擬娩』はこの習俗に着想しつつも、それをそのまま舞台に乗せたのではない。性(あるいは誕生、出産)というどうしようもなさを、あれやこれやと演じなおす試みであった[1]。性はわれわれの生にへばりついており、なるほどそれは容易には変えられない。ただし性にたいして、どんな構えをとり、どのように立ち居振る舞うかまでが一通りに決まっているわけでもない。クノーの『文体練習』が、一つの出来事は保持したまま、それとの対峙の仕方を無数に変えてみせたように、どうしようもないものへのアプローチにも、いくつものスタイルがありうるはずだ。

『擬娩』2023年(再演)、photo:Toshiyuki Udagawa

『擬娩』2023年(再演)、photo:Toshiyuki Udagawa

『擬娩』2023年(再演)、photo:Toshiyuki Udagawa
和田ながらもまた、問題へのまとわりつきを徹底している。割り切らない。しかも哲学者のようにしかめっつらで沈思黙考するのではなく、割り切れないもののまわりで朗らかに遊びつづける胆力がある。簡単にできることではない。
女性性が中心であった『擬娩』にたいし、今回のタイトルは『メンズ・ティー・パーティー』。男性はかくあるべきと、ジェンダーはつねに演じられてしまっているわけだが、とりわけ男性性は演じている本人にもその「演技」が見えにくい。どこに問題があるのか、とらえどころすらない。おそらく和田ながらは、様々にスタイルを試しながら、演じられた性のおかしさを発見してにんまりし、それをとっかかりに手を替え品を替え遊びたおすことだろう。男性としては、おそろしくもあり、楽しみでもある。
演劇は、メッセージの伝達やフィクション世界の提示のための、数ある表現技法のうちのひとつ、ではない。最近、演劇は「表現」ではないのかも、とさえ考えていたが(そもそも表現とは?)、和田ながらの歩みをみていると、それがいっそう確かに感じられる。「なんだか変なことをやっている人」にみえた和田ながらは、いまでもやっぱり、不可思議な変なものとつきあいつづけている。われわれは、他人のことも、自分のことさえ、よく分からない。その分からなさに朗らかににじりよっていくためのスタイルとしての、演劇。そうした和田ながらの戯れに、もうしばらくまぜてもらうことにしよう。
<公演情報>
ロームシアター京都〈レパートリーの創造〉
和田ながら『メンズ・ティー・パーティー』
2026年12月4日(金)~ 12月6日(日)
