空の水槽のような、閉塞感と空虚さを感じさせる室内空間の奥に、長い髪の毛で顔を覆われたマネキンが十数体並べられている。マネキンたちは俯き加減で椅子にもたれかかり、肩や背中が露わな黒いドレスを制服のように身につけ、「顔」がない匿名的存在だ。だが一体ずつ姿勢が異なり、だらりと垂れ下がった腕の角度など、「均質な工業製品としてのマネキン」というにはあまりにも生々しい(ジゼル・ヴィエンヌへの筆者のインタビューによれば、「既成の鋳型ではなく実際のダンサーから型をとっている」という(註1)。ショーウィンドウに並べられ、一方的な視線に晒されながら、見る者の欲望を刺激するマネキン―女性の身体の商品化・消費、記号化された女性性、物象化、フェティシズム、人形/生身の身体の境界といったテーマを強く印象づける装置だ。
序盤、そこに現れるのは、ピンクのトップスにスキニージーンズ、ハイヒールを身につけ、過剰な化粧を施したグロテスクなマスクを被ったダンサーである。彼女は、ランウェイを歩くモデルのようなウォーキングで舞台前面に進み、ポージングを虚ろに繰り返す。また、黒いミニスカートを履いたもうひとりのダンサーは、壊れたゼンマイ仕掛けの人形が暴走するように、硬直した手足を床に激しく打ち付けながら、制御不能に陥った動きを強迫的に繰り返す。自らの意志を持たない人形のような彼女たちを、黄色いトレーナーの少女がやや距離を置いて見つめている。やがて少女は、マネキン/(壊れた)人形/ダンサーに近づき、モノのようにその手足を動かし、椅子に座らせ、意のままに動かそうとするうちに、その扱い方は次第に乱暴になっていく。一体、一体と現れた計5人のダンサーと少女は、支配/服従、生身/モノ化を絶えず入れ替えながら椅子取りゲームのような交通とストップモーションが交錯する中盤を経て、後半では、時間を引き延ばすような運動の低速・停滞・不動によって、「物体」としてのマネキンとの境界が曖昧になっていく。
化粧を強調したマスク、ハイヒール、ドレス、長い髪の毛といった記号化された女性性と、欲望の視線の対象としてのマネキンや人形。その人工性や虚構性、表層性は、「ジェンダーは、生物学的身体構造としての性差を唯一の絶対的な根拠として自明に存在するのではなく、文化的・社会的な構築物である」ことを示す。上述のインタビューでジゼル自身、「この作品に登場するハイヒール、マスクに共通するキーワードは『異性装(トランスベスタイト)』です。私は、女性が女性的になるということも、そのひとつとして捉えることができると思います」と述べている(註2)。こうした視点は、例えば、「パス」(外見や振る舞いが、社会的に望む性別として通用すること)はトランスジェンダーだけに関わるのではなく、「パスとは各自が選択したジェンダーにより現れる行為である。だれもがパスしている。パスが容易な人もいれば、そうでない人もいる」という見解とも通底する(註3)。あるいは、本作において女性性を強調するさまざまな記号、とりわけグロテスクに誇張された化粧のマスクは、スーザン・ソンタグが「キャンプ」として概念化した、ジェンダーとの戯れを「過剰さ」としてパロディ的に表出する、一種のドラァグ的行為とも見なせるだろう。
ここで、ジェンダーの問題にも大きく関わるのが、今回の『ショールームダミーズ』リクリエーション版の特徴である、「出演者を女性のみ」に変更したことである。『ショールームダミーズ』は、2001年の初演から現在まで3つのバージョンが上演されたが、本作では、「男性出演者1名を排し、全て女性出演者」となった。この更新により、「マネキンに恋する男性(の願望の成就/破滅)」といったピグマリオン的な、すなわち異性愛男性を主体とした物語の再生産に与せず、また「特権的な一人の男性が女性(たち)をモノのように支配する」といった分かりやすい二項対立の構図への吸収も免れる。だが、本作は、ジェンダーの機制についてより批評的に掘り下げたとは言い難い。むしろ本作を見て感じたのは、「男性」不在の空間だからこそ、「舞台の光景をその外側から見ている者の視線」が不在のネガとして浮かび上がったことだ。それは、観客を二項対立的構造の「傍観者」の位置ではなく、「共犯者」に引きずり込む。ラストシーンでは、4名のダンサーが舞台奥=マネキンの領域へと歩みより、グロテスクなマスクとカツラをつけてゆっくりと振り返る。「マネキンとの同化」を示唆する戦慄的なラストだが、一方的な視線の対象から「見つめ返される」反逆がある一方で、マスクに覆われた眼差しの空虚性が同時に際立ち、極めて両義的な幕切れとなった。
このように本作では、ダンサーたちが意志や自我を喪失した「人形」のように振る舞い、扱われ、一見暴力的に見える。だが、筆者が見学したクリエーション現場では、各自の「キャラクター」をダンサーに主体的に考えさせるミーティングの時間が取られていた。性格、心理状態、感情といった内面性や互いの関係性を言語化し、アイデンティティの明確化を図るとともに、「相手に対してどのような感情を抱き、どう振る舞いたいか」といった動きの根拠にも大きく関わるものだ。また、「abandoned wave」「letting go」といった独自の言葉を用いて、「意識のコントロールを手放しつつ、仙骨を起点に波動のような動きが全身に広がる」という身体性を共有するワークも重要視されていた(註4)。
キャラクターの内面化と集団的な身体性の共有。この2軸の共存は、KYOTO EXPERIMENT 2018で上演された前作『CROWD』においても顕著であり、集団的な均質性/それを攪拌する個々の差異が、微粒子の運動のようなダイナミズムを生み出していた。『CROWD』の基底には、暴力やドラッグ、同性愛をテーマとする作家デニス・クーパーによるサブテキストが用意されているが、台詞はなく、緻密に構築された群像的なムーブメントが感情や心理の起伏を物語る。野外のレイヴ・パーティの一夜に集い、大音量のクラブ・ミュージックの熱狂と陶酔のなかに互いへの欲望をぶつけ合う若者たちを無言かつ高密度のムーブメントで表現した『CROWD』は、カルチャーの共有、同年代の若者、すべて白人という集団の均質性のなかに、多様な差異(それは運動としても、とりわけセクシュアリティの多様性としても表現される)を噴出させていた。集団の均質性と多様性の相克は、(例えばカラヴァッジオの宗教画を思わせる崇高な照明の演出が示すように)「ヨーロッパ」という政治的文脈に対して自己言及的だ。本作においても、ストップモーションや低速を多用した時間の伸縮の操作、照明の荘厳さ、映画的な「絵」の構図的完成度といった審美性は『CROWD』と共通するが、「集団性のなかで衝突し、攪拌し合う差異のダイナミズム」はより希薄に感じられた。その要因は、ヨーロッパ/日本の差異に安易に還元するよりも、上演歴の多寡も大きい(2017年11月に初演された『CROWD』は、筆者の観劇した2018年10月時点で、既にヨーロッパ各国の16ものフェスティバルや劇場で再演されているが、本作『ショールームダミーズ#4』はこれが初演である)。本作は、『CROWD』における創作手法を、初期の代表作『ショールームダミーズ』に採用して再活性化を図ろうとする、過渡的な段階にあったのではないだろうか。