ネアンデルタール人は言語を持たなかったが、ことばのない歌を歌うことでコミュニケーションを取っていた——という説があるという[1]。開演後すぐ、演奏者たちがお互いの位置を確かめ合うように音を鳴らす姿に、ふと、そんなことを思い出していた。
会場全体を薄暗さとスモークが覆う中、トップスからボトムスまで黒一色の衣装を纏った演奏者を、わずかな光が照らす。このように、ほとんどの視覚情報は削ぎ落された状態で、打楽器とエレクトロニクスで構成された「Sound Around 003」は進行する。
配布されたパンフレットによるとタイトルは「Phase Transition」、日本語では物理学用語としての「相転移」——水が氷に、あるいは水が水蒸気になるような物質の様態変化を指す——と訳すことができるが、まずはそのまま「フェーズ」の「移り変わり」と受け取りたい。公演全体構成、特に音の大きさやスピードに対する印象をことばにするならば「静寂、膨張、破局、静寂、緊張」であると感じた。静から動、再び静が訪れまた動に移りゆくという大きな流れが印象的だ。
公演を振り返る手掛かりとして、配布されたセット図を確認してみたい。目を引くのは、観客をぐるり取り囲むように設置された13個ものスピーカーだ。音を振動として実感できるほど大きな音が出るサウンドシステムは、それだけでも迫力がある。聴こえ方は立体的で、まるでスピーカーが音に形を与えるかのようだ。例えるならば、地面から天に向かって湧き立つような音の粒は、逆方向に降り注ぐ雨のようであり、下手から上手に向かう音の線は、激しく流れる川のようであった。
ミキサーは客席後方に、打楽器は客席前方に設置されている。公演序盤に2人の演奏者が対面するようにステージ正面に設置されたボンゴを叩き続ける場面があった。6秒ほどの短いリズムを、ループさせるかのように演奏し続ける……そのループは2分以上も続いた。シンメトリーな配置で狂いなく同じリズムが続く様子は、視覚的にも聴覚的にも機械のようで、実際には生身の人間が演奏しているのだが、プログラミングされた電子音楽であるかのように感じられる。連続したリズムは、やがて大きな電子音の介入により、繰り返しから逸脱する。演奏が正確であるがゆえに、変化したことがまるで「エラー」のように際立ち、観客に強い印象を与える。
全体を通して「規則正しさ」も印象的だ。前述したボンゴの演奏のような、音の規則正しさだけではない。可動式の座席はすべて同じ向きに並べられ、公演における「正面」が明確に設定されている。客席には傾斜がないため、会場後方に座っていた筆者は、ステージの一部分が人の頭に隠れて見えづらいと感じた。ステージと客席の距離は近く高さも同じであったため、前方の座席に座っていた観客にとっては左右に配置された楽器の演奏が見えづらかったのではないかと想像する。これらのことから、意図的にどの座席からも視覚情報を制限していると考えられないだろうか。昨年行われた「Sound Around 002」では、複数のパフォーマンス、インスタレーションが会場内で同時進行していたため、観客は会場内を思い思いに歩き回りながら鑑賞していた。見たいものを見る、という観客とステージの関係性や在り方は、今回の「Sound Around 003」と対照的と言える。「見えない」という状況下では、観客の意識は視覚より聴覚に大きく傾くだろう。
マリンバやヴィブラフォンのような音階がある打楽器に比べ、コンガや和太鼓は、よりシンプルなリズムと親和性がある。反復するリズムは観客を没入へと誘い、身体の内側から湧き上がるような高揚を感じさせる。一方で、椅子に座るということは一種の拘束でもある。張り詰めた音の連続、緊張感のある音楽は、人にステップを踏ませたり踊らせたりするのではなく、観客を椅子にとどめる。そんな身体的な拘束とはうらはらに、限られた視覚情報と強い聴覚情報からは、どんなイメージも膨らませることもできる自由さがある。限られた音階は想像の余地を与え、観客のさらなる自由な没入を促す。
ここでもう一度、「Phase Transition」というタイトルについて考えてみたい。今回の公演において、「移り変わり」があるとしたら、何を指しているのだろうか。打楽器を演奏する藤田正嘉、谷口かんな、前田剛史は場面に応じて楽器間を移動していた。わずかながら照明も演奏や移動に応じて変化する。では「相転移」と考えてみるとどうだろうか。物質がある相から別の相へ変化する現象、例えば水が水蒸気になるような変化とは——。それはやはり、音楽そのものではないだろうか。冒頭で演奏者同士が距離を測るような演奏ということを書いたが、公演の中盤以降ではより広い距離や高さが意識させられた。あるときはそれぞれの演奏がブロック状の塊となり会場の中をぎゅうぎゅうと押し合ってせめぎ合うような、またあるときは建物の壁が自分に迫ってきてどんどん部屋が狭くなるような、空間に行き止まりが存在することを感じさせる音であった。物理的には同じ空間、同じ楽器、同じ機材、同じ演奏者でありながら、そこから生まれる音楽は静と動を行き来しながら、伸び縮みするように大きく変化する。まるで、温度によって氷が水に、水が水蒸気に変わるかのように。
公演が終わり出演者は揃ってカーテンコールに応じたが、公演中と同様に一言もことばは発せられなかった。拍手、おじぎ、ほほえみ、といった言語を伴わないコミュニケーションは、公演のはじまりに感じた印象を思い起こさせる。物語も歌詞もない、メロディすら削ぎ落されたリズムが、より身体的に音楽へと没入させる。ことばという箱に収められなかった音楽は、大きく様相を変化させながら空間を満たしていた。