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#コラム・レポート#音楽#2019年度

見えないもの、聞こえてこない言葉を考える

青野賢一(ビームス創造研究所クリエイティブディレクター/文筆家)
2020.2.4 UP

2019年2月にルクセンブルクで世界初演、同年3月にパリ初演を成功裡に終えた『サイレンス』は、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(2018)の音楽を手がけたことで知られる作曲家、アレクサンドル・デスプラの初となる室内オペラ作品である。原作は2019年に生誕120年を迎えた川端康成の短篇小説「無言」。「無言」を収録している東雅夫が編んだアンソロジー『文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕』(ちくま文庫)によれば、初出は『中央公論』1953(昭和28)年4月号で、小説家としてのキャリアの中期に執筆されたものだ。

66歳の小説家・大宮明房は病(おそらく脳の病気)を発症したことで、言葉を話さず、左手はかろうじて動くものの右手が麻痺してしまい、文字を書かなくなってしまった。その大宮を、大宮より20歳あまり年下のやはり作家の三田が自宅へ見舞いに行くというのが「無言」の極めて大雑把な内容である。物語は三田の目線で進んでゆく。

「無言」は大きく分けて3つのパートからなる作品である。まず最初は三田が大宮宅に向かうタクシーの中。鎌倉に住む三田が逗子にある大宮の家に行くには、トンネルを通らねばならないのだが、「トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂である」。タクシーの運転手によれば、逗子からの帰りの空車に女の幽霊が乗ってくるのだそうだ。「いつ乗るのかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです」。夕方4時頃、大宮の家に着いて、大宮の長女・富子と三田が寝たきりの大宮のすぐそばで話を始める。これが2つ目のパート。最後に、大宮の家を辞して、逗子から鎌倉へ帰るタクシーの中の出来事でこの小説は終わる。

『サイレンス』は原作の「無言」にかなり忠実なストーリー展開である。原作では三田が大宮の家にタクシーで向かうパートの前には、大宮を見舞った際に三田が伝えようと思っていること──左手が少しは動くのだから、身の回りの用を言いつけるのに左手で片仮名を書けばいい──が地の文で記されているが、オペラでは語り部がそれを担う。アンサンブル・ルシリンが奏でる音楽はといえば、幕開けの弦楽器と木管楽器によるどこか不安げで挑発的な旋律に続けて、「伝える」という決心を示すように和太鼓と思しき打楽器がスネア・ロールのように鳴らされる。続くタクシーの中の場面では、冒頭の不安げな旋律が再び顔を出して、幽霊話を引き立てている。

原作に比べて、より緩急をつけた描写を採用している大宮の家のパートは特筆すべきところだろう。大宮宅に到着して、三田が富子に鎌倉のトンネルの幽霊の話をし、次いで富子が父が寝たきりになってからよく思い出すという大宮の手になる小説「母の読める」のことを切り出す。「母の読める」は、作家志望の青年が精神を病んで入院し、「ペンやインキ壼は危いし、鉛筆も危いというので、持たせられませんでしたが、原稿紙だけは病室に入れてもらいました。その人は始終原稿紙に向って書いていたんですって……」というもの。書いていたといっても原稿紙は白紙のままなのだが、これを見舞いに来た母に見せ、「お母さん、読んで聞かせて下さい」とせがむ。母は考えた末、その青年の生い立ちをあたかも原稿紙に書かれているかのように話すことにした──。原作ではさらりと会話の一つとして扱われているこの部分を、『サイレンス』では、デスプラとともに台本も手がけたソルレイ(ドミニク・ルモニエ)が大胆に演出、印象深い場面に仕上げた。青年の切迫した様子、母の悲しみと慈愛の入り交じった気持ちを伝えるスリリングなスコアも素晴らしいシーンだ。

『サイレンス』が見事に描き出した先の挿話からも明らかなように、「無言」を貫いているのは、「見えないもの」や「聞こえてこない言葉」をどのように考えるか、ということだ。ものを言わず文字も書かない大宮の心中を、三田と富子はあれこれと推測するわけだが、その推測が正しいかどうかは誰にもわからない。大宮は二人の会話を聞いているので正解か否かの判断はつけられるけれど、いかんせん伝えるすべがないし、わずかに動く左手を使って伝えようともしない。この一方的な解釈の空回りは、ポーの「大鴉」でカラスの発する”Nevermore”というフレーズを持てる知性と理性を総動員して解釈し、勝手に狂ってゆく男を想起させはしまいか。

そう、すべてはイマジネーションの産物なのであって、現実派で合理的な考えの持ち主である三田には、帰りのタクシーに出た幽霊が見えないのも道理なのだ。『サイレンス』は、こうした原作の持ち味、面白さ──想像力を働かせて答えを導き出そうとしても常に不明の宙吊り状態に立ち戻ってしまう、けれども想像することをやめられないという実に人間的な営み──を歌唱、語り、演奏、スクリーンに投影される映像を通じて見事に描き切ったといえるだろう。デスプラは『犬ヶ島』(2018)で邦楽楽器を導入した映画音楽を披露してみせたが、『サイレンス』では邦楽のエッセンスを漂う空気のように配し、フランス語の歌唱や語りとの絶妙なバランスを実現することに成功した。演奏家の衣装やミニマルな舞台装置も含め、抑制の効いた、それゆえにイマジネーション豊かな作品である。

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