これは音楽なのだろうか? そう思ったのは、ロームシアター京都にて開催された「Sound Around 001」でのことであった。というのも私が鑑賞したのは7月17日の回であったのだが、そこで行われていた演奏が、同じ言葉を繰り返し声に出したり、途中でスイーツを食べたり、棒をもった男女が突然それを落としたりするといったもので、とにかく自分が知っている音楽からかけ離れていたからだ。だが演奏会が終わりに近づくにつれ、私はいつものように音楽を楽しんでいることに気づくようになり、自分の中に新しい価値観が生まれつつあることに喜びを感じていたのであった。
本公演をホストする「いまいけぷろじぇくと」は、今村俊博と池田萠、二人の作曲家によるユニットである。二人は大学時代にクラシック音楽を学んでいる。だが、ここで演奏される曲たちは、伝統的な音楽の形式から、あるいは一般的なそれからも、かなり逸脱しているように思われる。
例えば最初の曲目、鈴木治行作曲の「口々の言葉」では言葉が音楽になってしまう。楽譜には民話をもとにしたテキストが書かれてあり、それを二人のプレイヤー——その日は今村と池田であった——がひたすら読み上げる。 ただ言葉を声にするだけ。そこで歌唱がなされることはない。しかし今村と池田は初めこそ声を揃えて読み上げるのだが、それぞれがやたらと声を伸ばし、同じ言葉を反復するため、すぐさま二人の発話はズレてしまう。そしてズレが修正されることなく発話はつづいていく。最中、二人は声の音程を上下させたり、言葉を音節レベルで切ったり、ビブラートをかけるように口に手を何回もあてたりする。反復、ズレ、音程の上下、区切り、身体の動き。これらによる声の変化によって、民話という体裁は崩壊し、それを読み上げる二人の声は音の連続となって織りあっていく。テキストの発話が音楽へと様変わりしていくのだ。こういった声を用いた表現は、他の曲目においても各々違った仕方で扱われている。つまり声を演奏することが本公演の中心であり、聴衆の音楽観に揺さぶりをかけていくのである。
声を演奏すること。それはプレイヤーが身体を楽器として扱うことだ。池田が作曲した「いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時」では、楽器としての身体が浮き彫りになる。7月17日の公演でこの曲は、池田と演劇モデルの長井短、二人のプレイヤーによって次のように演奏された。長井は椅子に座って「じゅげむ」を繰り返し朗読する。横には机があり、そこに池田がコンビニで買ったであろうスイーツを広げる。そして池田は無言で長井にスイーツを食べるように促し、その品名を読ませる。その後、長井は朗読を再開するのだが、またスイーツを食べさせられ品名を読むことになる。これがひたすら繰り返される。こうして「いちご香る」では、じゅげむの朗読と品名の読み上げによって、異質な声のリズムが重なっていく。そこで聴衆が耳にするのは長井の声であるが、彼女自身はじゅげむをもともと決められた通りに朗読し、スイーツの品名を読み上げるだけだ。そしてスイーツを食べるという行為と品名の読み上げのタイミングは、全て池田が決める。つまり長井の声の変化は池田に委ねられてしまうのだ。
これは公演のアフタートークで明かされたことだが、長井はスイーツがかなり苦手で、それを知っていた池田はあえて長井をいらつかせようと間合いを作っていたそうだ。そのため長井は苦痛を強いられることになり、実際に演奏の後半では苦しそうにお腹を押さえていたし、食べる時間は前半よりも長くなっていた。声の反復が身体への負担によってズレていく展開がこの曲の面白さであるが、声の発生源は長井である一方で、それを展開させるのは池田である。「いちご香る」において、長井の身体は声を発する楽器であるのに対し、池田はそれを操る演奏者なのだ。
身体を楽器として扱う。こう聞くと、おかしなことを言っているように思うかもしれない。普通に考えれば楽器は「モノ」であるわけで、それと身体は全く異なると思われるからだ。だが「いまいけぷろじぇくと」は「楽器=モノとしての身体」を浮き彫りにし、それと「演奏者としての身体」との分けられなさを音楽的に表現するのだ。そして、その分けられなさこそが私たちの音楽観を拡張させる。どういうことか。
今村作曲の「連鎖b」では、プレイヤーの身体における楽器と演奏者の分けられなさが顕著に表れている。この曲のプレイヤーは長井であった。彼女は一人で「しりとり」をする。ただ、声に出す文字のいずれかの五十音を、空気ポンプやおもちゃの吹き戻しといった小道具の音で代替する。それによって長井の声と小道具の音が連なり、「しりとり」が曲として立ち現れてくる。「連鎖b」において、長井は声を出す楽器でありながら、小道具の音を展開させる演奏者でもある。この曲で面白いのは、長井の声と小道具の音が一体となっていることだ。つまり「連鎖b」では、楽器と演奏者という二つの役割の共存が、声とモノの音の織りあいによって音楽的に表現されているのだ。
あるいは岩渕貞太作曲の「身体技法/stick」を挙げてもよい。この曲でも「棒」というモノが使われる。今村と池田が一本の棒の端と端を持ち、今村がそれを操作する。両者の身体の動きは棒を通じて干渉しあう。それによって落下する棒の音と、動きと共に漏れ出る今村の声が混ざりあい、一つの曲が生成される。この曲も「連鎖b」と同じように、棒を動かす演奏者の声が落下音と一体となり、楽器と演奏者の二重性がプレイヤーの中で共存する。ところで「身体技法/stick」は「いまいけぷろじぇくと」による委嘱作品であるが、その解説文においてこの曲の「2名はお互いに”演奏者”であり”楽器”でもあります」と記されている。それは岩渕が、身体における演奏者と楽器の分けられなさという「いまいけ」の特徴を、作曲の際に汲み取ったからかもしれない。
本公演では、演奏者と楽器がプレイヤーの身体の中で一体となっている。本来楽器は演奏者が扱うことで初めて音を出すことができる他律的なモノである。だが「いまいけ」はプレイヤーの身体を楽器として扱うことで、そういった自律的な人間/他律的なモノ、あるいは能動/受動の境界線をうやむやにしてしまうのだ。それは受動的に演奏を楽しむものだと思われがちな私たち聴衆にも作用するはずである。なぜならプレイヤーの身体が楽器なのであれば、聴衆の身体も楽器でありうるからだ。また「いまいけ」の曲のほとんどは、私たちが普段耳にする声やありふれたモノの音で構成されている。パフォーマンスにおける彼らの動きも、私たちが日常生活でよくする行為ばかりだ。 「いまいけ」は日常的な行為を演奏と捉え、それによって声やモノの音を音楽へと変えていく。そこにプレイヤーと聴衆を隔てる垣根はない。私たちはいつだって自分の身体を楽器として演奏することができるのだ。あらゆる人間が演奏者になる。私たちを取り巻くすべての音が音楽となる。「いまいけぷろじぇくと」の音楽が奏でるのは、そういった解放的な音の世界なのだ。