音楽にたいして「音楽的」という言葉は、褒めるときにも貶すときにも使うからおかしなものだ。映画に「映画的」、文学に「文学的」、演劇に「演劇的」というのもそう。どちらかといえば貶した文脈のほうが多い気がするのは、音楽(という現象)を音楽(という語)で形容する同語反復性が、これは既存の枠組みをなぞっている(にすぎない)という閉塞を漂わせるからだろう。案外、褒めるときほど無邪気で、音楽に欠くことのできない本質が追求されているというような直観が表明されるのだけれど、それはどうにも舌足らずで、だから真面目に関わろうとすればするほど「映画的な、あまりに映画的な」(山田宏一)のように愚直なふりをしてしつこく二度重ねてしまう、副詞までつけて。こんな詮ないことを思い巡らせたのは、空間現代の「音楽的」をめぐる変転に驚いたから。「空間現代が音楽的をしている」とわたしは口走っていた。
空間現代×三重野龍『汽』の上演である。(このバンド演奏とグラフィック投影のコラボレーションによる舞台芸術は、2020年10月の「ZOU」(KYOTO PARK STAGE 2020)に次ぐ第2弾とのこと。残念ながらわたしは「ZOU」を観ていない。)グレースケールのホールに入ると、直方体のステージがある。ステージの4辺のうち、1辺は鏡張りの壁に接着され、3辺はフロアに開かれる。ステージ上には5枚の白い紗幕が張られている。紗幕はまずスペースを区切るパーテーションとして機能する(その間に空間現代のバンドセット:ギター、ベース、ドラム、グラフィックデザイナー三重野のPCと黒い箱状の映写機材が定位置につき、照明機材が点在する。スピーカーは4角からフロアを向く)。さらに紗幕は映像を投射するためのスクリーンでもあり、映画館のスクリーンが折り重なるように、5枚の紗幕はおよそ平行に並べられ、多層的な面を構成する。その面に正対する位置に映写機が2台。そしてフロアのひとびとの多くも面に向き合う位置にみずからを置いていた。
山田英晶(Dr.)のシンバル音を合図に照明が落とされ、野口順哉(G.)と古谷野慶輔(Ba.)が短い単音を信号のように交わす。しだいに音数が増え、のちに反復され脱臼され展開されていくギターの朗らかな信号音のようなメロディーやベースとドラムのリズムパターンの要素も提示される。その方法じたいは以前の空間現代と変わりないはずだが、なにか根本的な方向転換があったのではないかと感じさせる音質がある。
不規則な周期の反復からずれを生じさせてグルーヴ化させる手法はただちにシステムエラーを想起させ、バグという無機的で非音楽的な現象から人力で音楽の回路を広げていく思考は、まぎれもなく空間現代の方法論であったし、デジタルがすみずみまで普及していく時代の課題にも気分にも応えていた。反復のなかでずれをずれとして感覚させるためには、断面は明瞭であればあるほどよい。その断面、その継ぎ接ぎの跡を、きっぱりと際立たせていたのがかつての空間現代だったと思う。ところが『汽』ではちがう。『汽』の空間現代は、断面を研ぎ澄ますのではなく、断面を膨張させる。こんにゃくは包丁で切るよりも、手で千切ったほうが断面の面積が増えて煮込むときに出汁や調味料を吸収しやすくなるということに似ている。当然ながら、断面には千切ったひとの手つきがでこぼこと残され、断片の形はひとつひとつ独自性をもつ。ギターにしろベースにしろドラムにしろ『汽』における空間現代の音はまさにこれで、音と音との切断よりも、音から音への移行、さらに一音における変移に重心があって、ふくよかな質感をもつ。(念のためにいうが、音響が濁っているという意味ではない。音の分離性のよい上演だった。)かつてと対比して、抵抗的でなく融和的、厳格的でなく開放的、無機的でなく有機的であり、空間現代はどこかで思考から享楽へとみずからを明け渡すことに移行したのではないか。言いかえてみれば、システムエラーから着想された方法論を実践する音楽家というところから、あるいは方法論そのものを退かせ、ヒューマンエラーを引き起こす存在としてみずからを音楽に差し出し、エラーの素描にとりかかっているのではないか。演奏が進み、全体が柔らかく起伏するほどにそう思った。方法論は退いても計算は残る。いま空間現代の計算をわたしは知りたい。
空間現代の変化がいつ起きたのか、三重野とのコラボレーションによる影響なのかは、わからない。ただ『汽』において両者はうまく連動していた。三重野が描いたのは(タイポグラフィよりもグラフィックと呼ぶほうが正確だろう)線の束、三角や四角といった図形、円形の月、花火のように散る放物線、稲妻のようにひび割れる曲線、鱗のような反復するパターンなど、素朴なモチーフが選ばれ、それら手描きの像には粒子の粗さが残されている。興味深いのはやはり、バグ、エラー、つまりグラフィックでいえばモアレの様相を呈する投射で、スクリーン=紗幕を緩く張ったことが功を奏した。紗幕の重なりに映像を投射すればおのずと像は反復し、それを傾斜角から見れば反復にずれが生じる。さらには紗幕じたいが弛んでいるため、ドレープに光が溜まり、像が凝縮して集まる。ときおり場面転換のように紗幕は三重野によって移動されるが、ときに光は紗幕からはみ出し、紗幕が床に畳まれればなおさらステージ奥の鏡面や壁面にぶつかって広がり、倒れたポールやモニターなどまったく意図されていない些末な物体をスクリーンにして像がぴくぴくと動くのにはモアレの愛嬌があった。平面に生じるモアレを分解して立体化しているようでもあった。投影はあらかじめプログラミングされたものとステージ上の三重野によるリアルタイムのものがあるらしく、手作業のグリッジというほど崩壊的ではないにせよ、ジェネラティブなグラフィックから距離をとった介入的操作が探求されていた。
『汽』という舞台芸術において、いやおうなく目を引かれたのは人物の像だ。ステージでは、実像/鏡像/影像/映像が行き交う。ただでさえ紗幕越しの実像は靄がかかったように実在性を薄くしていくのだが、複数の照明に複数のスクリーンとあれば1つの実像にたいして大小濃淡さまざまの影像が映しだされ、2台の映写機は演奏者のリアルタイムの映像を大に小に映しだし、鏡面は1つの鏡像のみならず影像と映像を増殖させ、いよいよ像たちは中心性をなくしていく。ふりかえると、これほど位相の異なる像たちを、場面を切り替えるようにしてよく制御したものだと思う。ただひとつ唐突に感じたのは、リアルタイムで演奏者の姿が紗幕に映写されたときで、その動きとフロアに響く演奏が同期しているからこそ、実況中継的というか、実像よりも実在らしく真正性を訴えているようでたじろいだ。露骨な訴えだった。反発するようにわたしは像と演奏の間にタイムラグを求めて目を凝らし、真正性を減じようとしていた。むしろなぜ非実在に宿った真正性を厭うたのかを、いまとなっては考える。
わずかに異様にも感じたのはフロアの動かなさだった。ほとんど微動だにせず観ているひとの多さである。ステージ向かって左に設置された10席ほどと、向かって後方にある段差を除けば、フロアは広々として平坦で歩きまわるにも踊るにも支障がない。「デレク・ベイリーのギターでひとは踊るようになるか」と友人たちとおしゃべりしたのは二十年ほど前で(「すぐに踊るようになる」と答えは一致した)、空間現代のライブでひとびとが踊っているのを見たのは十年ほど前で、しかしそれらの頃よりも柔軟なリズムと弾力のあるトーン、つまり身をまかせやすくなった、ありていにいえば踊りやすくなった空間現代の演奏にたいして、多くのひとびとが肉体的な無反応を呈していた。あるいは肉体的反応が隠されていた。いったいなにが起きたのだろうと。
いくつか思う。ひとつは、スクリーンという装置がもたらす正面性の要請だ。観客はなかば無意識にスクリーンに正対する位置をとった。スクリーンが取り払われたり畳まれたりしてもなお、また5枚の紗幕がつくる隙間がおいでおいでと誘っていたにもかかわらず、スクリーンの残像によって固定されつづけた。これについては、観客がステージを360度を囲める会場で『汽』を観てみたい。前述した実像/鏡像/影像/映像の層にもべつの試みができるかもしれない。もうひとつは、パンデミックおよび接触制限がもたらした身体の萎縮、それによる鑑賞態度の変化。あるいはパンデミックは萎縮の進行を早めたにすぎず、いまひとが踊っているのはバンギャやオタ芸のように一律の振付のある集合的な場所か、TikTokのような密室に過集中しているのではないかという可能性について。振付と密室。振付には大いなる同調性な陶酔があって、密室には公的空間で踊ると罰せられるイスラム圏の女性たちが顔を隠しながら私室で踊る姿をスマホで自撮りしてS N Sで流出させた反抗の記憶がある。『汽』の上演はそのどれにも似ていないが、そのすべてを思い出させた。ひとびとはいま上演空間でどんな約束を結べるだろう。