舞台が暗転する。ふたたび照明が灯り、舞台中央を照らし出す。そこにあるのは長机とその周囲を取り囲む者たち。ふと気づくと机上に何かが横たわっている。その塊は人の影にあり判然としない。そのすぐ後方に立つ父親らしき男が、「もしな、もし。もしやで。お父さんが死んだらやけどな……」と仮定の言葉を放つ。その何かわからない塊を囲むのは、父親だけでなく、母親、息子、娘——のように見える者たち。普通に見れば、テーブルを囲んで話しているように思えるのだが、父親の「死」という台詞から、ここは病室のようにも感じられ、長机はベッドに見立てられているかのようだ(そばに置かれた三脚付きカメラは心電計のように見えなくもない)。だとすれば、テーブルを囲む者たちは、重篤な患者、いやもう既に死んでしまった者を前に立ちすくむ家族だろうか。
「お父さんが死んだら」と言う男は父親のようであり、その前方に横たわる体は発話される内容から父親の死体のようにも見える。だから語っているのは父親の亡霊なのかもしれないと思えてくる。父親は生きているのか、死んでいるのか。実際この直後、机上の塊は、気体が重力に従って下方へと流れていくような速度で徐々に左右へと分裂し、床に落ちていく。分裂するのは、別の成長した娘と息子——のように見える者たち——であり、死のイメージだけでなく誕生や成長過程のようなものをも喚起する。しかし、ここで問題としたいのは、そのような生や死といったものではない。
観客はこのとき、その家族同様、父親の生命保険をめぐる語りによって劇の渦中へと巻き込まれ、眼前の出来事に翻弄されもするのだが、この舞台で描かれるのは父親という強固な磁場を持つ存在によって囚われる家族のありさまだ。ここでいう父親を、家父長制と生命保険という架空の資本と言い換えてもいいだろう。ここで問いたいのは、このような父親の仮定法による語りと、物体的な配置と運動によって生じる、宙吊りにされ、空を切るような感覚である。いったいそれはどのようにして生み出されるのか。
舞台序盤で父親は生命保険がオーダーメイドだと言い、それを初任のボーナスで買った、自身の体型に合ったオーダーメイドの礼服に喩える。と同時に、母親の体は長机と混淆して機械のような動作をし始める。長机の上を頭と腕が一定のリズムで横滑りしていくさまは、布からスーツを形成する機械のようであり、机上から頭が脱力して落ちる所作は、ばさっと布が落ちる様子を思わせる。母親はここで、父親の語りの中へと入り、過去の記憶の一部になるが、それはオーダーメイドスーツの機械といったものであり、ここで流れる「くるみ割り人形」の音楽は父親の語りがおとぎ話であることを際立たせる。
次の展開。「お父さん死んだらやな。お母さん、電動自転車買える」と声高らかに言う父親に合わせるように、母親は机上で自転車をこぐような動きをし始める。その後しばらくして、舞台後方で保険会社の男が、トライアスロンのいでたちで自転車をこぐマイムをするのだが、その床に足を着けて進む動きとは対照的に、机上に背を付け、足を上方に向けて自転車をこぐ母親の仕草は、地に足が付いておらず空を切るようだ。どちらもマイムであることに違いはないが、その対比は母親の電動自転車が(舞台上の)現実には存在しないことを強調する。
ところが、ここまで父親の語りの中へと入り、機械になり保険金で得られるはずの電動自転車をこぎもする母親が、その感情を顕にしながら悲しみに打ちひしがれるようなシーンがある。机上にひとり立ち、その空間に誰も寄せ付けないといったように、次々と他の家族が机上に立つ母親に近づこうとするのだが弾き返される。ここで初めて母親は人間的な心を取り戻すかのように見えるが、それも父親の死、あるいはそれを仮定とした妄想的な語りによって引き起こされたものである(父親の生死についてはいつまでたっても仮のままだ)。
翻弄されるのは母親だけではない。その子供もまた等しく囚われの身だ。それは次のような家族間で齟齬をきたすようなシーンによって顕在化する。父親の生命保険をめぐる語りと同期するように、成長した息子が机上でドタバタとダンスを繰り広げる。「お母さんがお父さんには内緒にしながらすぐにお金もらえるんやで」と言う父親の台詞に合わせて、両手を差し出すようなポーズ。かと思えば、何かを思い悩むように座り込んでは遠くを見つめ、机上の母親を責めるようにその頭上で両手を振り回す。母親はいたって冷静だが、息子は保険金と母親の振る舞いとの間で葛藤にかられているように見える。これらはすべて父親の語りの下でおこなわれるダンスだ。そのダンスは動きの激しさゆえに長机を壊しそうなほどに揺らすが、その下部で長机の脚を持ち支える者がいる。冒頭で記した別の息子と、成長した娘だ。
ところで、たびたび登場する長机は、この舞台で唯一の舞台装置といったものであり、ベッドや機械の他にも様々に(概念的にも物体的にも)見立てられ転用されることになる。例えば、交渉のテーブルにもなれば、家族の象徴にもなり、家族が団欒する食卓にもなるといったように。とはいえ、もともとこの長机は、冒頭で舞台奥から家族によって運ばれてきたものだ。引っ越しか何かで、家具を新調するようなシーンがあり、運ばれた2台の長机は、養生テープなどでその脚が仮設的に繋ぎ止められ、補強のために天板の中程に一つずつ脚が付けられる。仮のようでありながら2台の長机を繋ぎ分離や損壊を許さないといったように強固にするのは、先に記した長机の下部でその脚を支えることになる息子である。
この行為を遂行する息子は、時折三脚付きカメラを設置しては家族のポートレート写真を撮る。それは家族を繋ぎ止めるための行為のようだが、独断的であるようにも見え、他の家族は撮影されることを気にも留めていないようだ。それは長机を下部で支える行為とも通底するものだろう。ゆえに長机の上部と下部で家族の思いはすれ違う。
舞台中盤から、父親の語りは変遷していく。「お父さんが死んだら」から「お父さんが死にかけたら」へ。そして最終的には「お父さんがずっと生きとったら」と言う始末だ。家族はその語りによって夢を見、傷つきもし、齟齬をきたし、実際家族はバラバラだ。それをかろうじて繋ぎ止めているのは、父親の語りだろうか? それとも血縁? 家族のポートレート? 食卓(長机)? 保険金? これらすべてが何らかの意味を持つのかもしれないが、本来的に重要なのは空を切るような机上のダンスであるだろう。つまりそれは家族それぞれが互いに対して持つ、個としての思いや行為が空転し、どこへも行きつかない車輪である(そこには当然、亡霊のような父親の言葉や振る舞いによる磁場には回収されないようなものも含まれる)。そのダンスは決して互いに通じ合うことはなく、それぞれの思いは空を切っていくのだが、それゆえに家族は家族であると言えるのだ。
倉田翠は、「家族写真」が2016年の初演のときからほぼ同じキャストで再演を続けていることから、そのメンバーを「本当の擬・家族」と呼ぶのだが、擬・家族とはこのようなダンスこそを指して言っているのではないだろうか[1]。家族それぞれが互いを、隔たりを感じながら推し量り=擬し、時折集まってはテーブルを囲むように共同すること。それは現代を生きる家族の本来的な性質であると同時に、新たな家族の可能性でもあるだろう。