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#公演評#演劇#2023年度

akakilike『家族写真』公演評

家族というハコの中で

文:各務文歌 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
2024.4.15 UP

撮影:井上嘉和

 akakilikeの「家族写真」を鑑賞した時、娘として踊る倉田翠のあり方に、涙が出るほど心を揺さぶられた。

 この、齟齬。親と子供との意識の違い、そこに生じる歪みやジレンマ、互いに一方向で交わらない心のむなしさに、この舞台の中盤でわかりやすい表現にもかかわらずつい、動揺させられてしまったのだ。させられてしまったというのは、これは比較的誰にでも経験のある葛藤部分でありながら、そこに自分が引っかかってしまったという恥ずかしさからだった。かつて私も似たような心境にあったこと。成績が良くなければ見捨てられるとか、それ以外の道を考える視点が無かったゆえの美しさだとか。それが文字通り少女である迫沼による美しいバレエの「型」に重ねられ、同時に成長した娘と思しき倉田が瀕死の白鳥のように血を吐いてのたうち回り、倒れたまま起き上がれないで横たわっている様が胸を抉る。でも親には親の思いがあって、彼らもその「役」から降りられない。親の思い通りでいなければ生きられないわけではないんだろう。けれど彼らの態度が、無意識のそれが、そのまま子供を縛る枷になって外れなくなること。それを双方自覚できず共にいるしかない悲しさ。同じ空間にいるのに違うものを見ているような溝……このシーンを観て、私はそんなことをぼんやり考えた。

 自称「お父さん」の筒井潤が放つ「もしな、もし、もしやで。お父さんが死んだらやけどな。みんな、考えたことある?」というセリフから本編が始まるこの作品は、テーブルを前に自身が加入したという「生命保険」の素晴らしさを延々と語って聞かせる筒井のモノローグと、そこに集う寺田みさこ、前谷開、迫沼莉子、倉田翠、今村達紀、佐藤健大郎らによるダンスパフォーマンスが渾然一体となった舞台だ。役者の外見や立ち位置、動きから察するに、寺田は筒井の妻、前谷と迫沼はその息子と娘、倉田と今村は彼らの成長後の青年期を彷彿とさせ、4人家族という輪郭が提示される。佐藤は自称「ライフプランナー」として散発的に登場し、彼らの在り方を相対化する。

 筒井の話の大筋は、生命保険に入った自分が死ぬ、あるいは死にかけた際、いかに彼の家族に「めっちゃええ」お金が与えられるかを解説するものだ。話す表情は終始張り付いたような笑顔で嬉々としている。けれどその言葉はむなしく空間を震わせる一本調子で、特定の誰かに向けるというより、路上で喧騒に負けまいと声を張り上げながら不特定多数に呼びかける叩き売りのような一方通行さが強調されていた。だれひとり彼に応じる人物はおらず、それぞれが勝手に動き踊り、近づいたかと思えば離れ、時折ストップモーションが差し挟まれる。その間を縫うように、前谷がカメラと三脚を持ち移動して、セルフポートレイトの手法で自身を含む光景としての役者たちを撮影する。彼はそのように演じ手として舞台にいながら、見られる身体と見る視線とを行き来するふるまいを淡々とこなす。そこに写し出されるのは奇妙にぶれた身体の中、ひとりこちらを見つめ返し棒立ちの彼の姿がほとんどで、「家族写真」という言葉が喚起するイメージとはおよそかけ離れたものが、舞台と同時進行でフィルムに焼き付けられてゆく。

 このカオスのような空間にあって、生命保険というのは、家族という言葉がまとうシステム的な側面の言い換えのように自分には思われた。筒井のセリフにある「不思議な商品」「不思議なライフ」。これはそのまま、「不思議な家族」と置き換えられる。どちらもある一定の契約を満たした上で成立するという構造を持ち、それぞれの約束が欠ければたちまち効力を失う幻のような不穏さを常に抱える。何に担保されているかというと、一種の「型」である。家族という保証だけが、この商品を現前させる装置になる。「父親」「母親」「娘」「息子」「兄」「妹」などという言葉も序列を伴う役割の可視化でしかなく、これは枷ともなる。家族という言葉とそのあり方は、初めからこのような虚構性を前提とした、極めて演劇的な構造に支えられたものなのだ。それぞれがその立場から逸脱することを許さない暗黙の強制力が働き、枠組み自体が見えない皮膜となって個々をくるみこんでしまう。けれどそれは同時に、どの時点までかは「安心」そのものでもある。

 筒井のモノローグは、一貫して「父」という立場を強く主張する。もし彼が死んでも保険によるお金が家族を養うとし、死してなおその序列が守られることを望む姿からは、この「役」無しには生きられない悲哀すらにじむ。そんな筒井をよそに周囲の役者たちは各々自分の立場を象徴するようなふるまいを見せるが、そこからは彼と同様、自身が内面化してしまった「役」ゆえの苦悩が伝わってくるようでもある。例えば冒頭で挙げた娘としての迫沼と倉田、そして息子としての前谷と今村のふるまいには、それぞれ子供時代と青年時代で正反対のベクトルを向くような変化が見られる。

 家族に見守られ、「くるみ割り人形」の音楽でバレエを踊る迫沼のすこやかな笑顔とは対照的に、不安げな表情で客席を振り返り、悶え苦しみ血を吐く倉田の姿は痛々しい。子供にとって親の存在は自身の血肉であり、引き離すためにはとてつもない自身の喪失が伴うだろう。曲の盛り上がりともに筒井の頭を抱え膝に倒す倉田の上半身は血に染まったままで、戻らない心の表れのようだ。「血」の表現はまた、痛みを伴うイニシエーションや血縁関係のメタファーであるという点で、複層的な意味を仮託されているように思える。

撮影:井上嘉和

 前谷と今村演じる「息子」は、つながりの維持と破壊を彷彿とさせる。象徴的だったのが、舞台後半でのテーブルを介した2人の在り方だ。今作の冒頭、前谷は運ばれてきた2脚の長机をテープなどでつなぎ、ひとつのテーブルとして中央に設置するのだが、後半で今村は、この上でそれらを引き離そうとするかのようにドンドンと足を前後に擦り動かすような動きを見せる。この時テーブルの下には前谷が走り込んで来、補助棒と机の脚を文字通り体を張って握りしめ、離れさせまいと支えるのだ。ほかにも彼はカメラでの撮影や姉妹と手を繋ぐなど、どちらかというとつながりを維持する方向に意識が向いているように感じる。しかし撮影中何かを取りこぼしバラバラと散乱させてしまったり、一度だけ筒井に反発するセリフを口にしたりと、随所に綻びも見え隠れする。

 このように葛藤やそれゆえの衝動をメリハリある身体表現によって披露する倉田たちと一線を画していたのが、寺田演じる妻あるいは母としての女性だ。彼女は筒井が声を張り上げ、迫沼が佇み、倉田や今村が走り転げ回り前谷が忙しく撮影の作業をこなすような喧騒の中でも、泰然とした雰囲気を一切崩さずそこにいた。しなやかに四肢を伸ばし天をあおいだかと思えば、無機的なカクカクした動きで左右に移動する。クライマックスでは机の上に担ぎ上げられ、山の頂きから皆を見下ろす神のような崇高さを醸し、または脱力してずるりと液体のように身を落とす。表情はほぼ無く、どれだけ父親が叫んでも、どれだけ子供らが苦しみ闘う素ぶりを見せても我関せずといったようにゆるがない。そのままでは個々の勢いにより弾け飛んでしまいそうな危うさに満ちた空間で、一定のリズムを崩さず場を維持するメトロノームのようでもあった。

 また劇中でライフプランナーとしての佐藤とデュエットを踊る際、彼女は母親というよりも彼の(おそらく不仲な)妻、あるいは娘を表象していたようにも思える。子は娘になり、娘はやがて妻になり母になるという道筋を前提とするなら、彼女はそのどれをも統べる全体性をまとう、コロスのような役割を持つようだ。母という存在は家族の創造に関わるものだと考えると、この在り様にも一応の納得はゆく。その在り方はしかし、最も無機的で記号的な扱いをその身体に引き受けている。彼女はいくつもの「私」に引き裂かれる苦悩を超えた先にいる超越者のようである一方で、誰にもなり得ない「型」そのもののように思われた。

撮影:井上嘉和

 物語の終盤、生命保険の話はついに父親の「生」の可能性へと反転する。筒井は最後には「もし、もしな、もしやで。お父さんがずーっと生きとったらやけどな、みんな、考えたこと、ある?」とまで言い出すのだ。死に対する究極のアンチテーゼが不死なのだとしたら。保険の話はとうとうそこまで振り切れてしまう。永久に続く「家族」なんてあるのだろうか? ずっと生きていたら、保険金は支払われることはない。けれどそうではないから、「今、この時」が浮き上がってくる。今、この時。「ご飯の時はテレビ消すー! いつも言ってるやろ」と父がたしなめる何でもない団らんの一幕。大多数の「家族」にあるであろうこのような些細な光景の裏に、これまでの道ゆきがギュッと重なる。自分だけのオーダーメイドの不思議な商品を買った父親と、その家族。そして育った子供達。異時同図よろしく彼らが同じテーブルに集い、初めて全員が同じ方向を向いてカメラを見つめシャッターが切られる。そこに写るのは、生きるという共通の目的のために規定された最小単位の劇団に所属する、俳優たちの姿だ。彼らが見つめたレンズの先には、ほかでもない私たち観客がいる。永久に続くものではないからこそ成立する「型」と、それをかたどる二重の枠としての家族写真。舞台の役者たちとともに、今、この時を共有する私たち自身もまた、この有限の一瞬に囚われた役者たちひとりひとりなのだ。

  • 各務文歌 Fumika Kakami

    岐阜県出身。南山大学文学部人類学科卒業。あいちトリエンナーレ2010サポーターズクラブでの活動をきっかけに、美術作品のレビューを書き始める。論集『5,17,32,93,203,204』2024年号に「響きあう対話の空間 京都市京セラ美術館コレクションルーム」寄稿。浄土複合ライティング・スクール1期生。

  • 浄土複合  Jodo Fukugoh

    制作、発表、批評が交差するアートスペースとして、2019年、京都市左京区にオープン。同年にスタートしたライティング・スクールでは、受講生が年間を通じて展覧会レビューの執筆や雑誌の編集に取り組んでいる。https://jodofukugoh.com

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