OKAZAKI PARK STAGE 2022+ステージ インキュベーション キョウトの会場としてつくられた「石ころの庭」で、この空間の設計者である岩瀬諒子氏と、2019年と2020年にOKAZAKI PARK STAGEの会場デザインを手がけた家成俊勝氏(建築家、dot architects共同主宰)の対談が行われた。
公共空間でもあるローム・スクエアをパフォーマンスの会場とするためのアプローチの違いからはじまった議論は、誰もが参加可能な材料と構法のあり方から、演者と観客の関係を曖昧にする舞台美術のつくり方へと展開し、社会と建築に対する両者の共通した問題意識を浮かびあがらせることとなった。その様子をレポートする。
ステージを公共空間として設計する
松本 「石ころの庭トークシリーズ」の2回目として、本日はdot architects(ドットアーキテクツ)の家成俊勝さんをゲストにお迎えして、岩瀬諒子さんと対談していただきます。よろしくお願いします。
dot architectsさんには2019年と20年にOKAZAKI PARK STAGEのための広場を設計していただきました。トラスを組んだ仮設のステージを作って、パイプ椅子を並べるだけの年もあったのですが、2019年にドットアーキテクツさんにデザインを依頼するにあたっては、広場やステージ、客席自体がどうあるべきかというところから考えつつ企画していました。
2019年は、「シマシマジマ」という、3つの島からなる空間を木材でつくっていただきました。少し高まったところがステージ、斜面のようになっているところが客席エリアを想定していました。パフォーマンスを行う際には、ワークショップで子供達が手作りした椅子を並べてあって、そうでないときには椅子を撤去して、子供たちが走って遊べるような場所になっていました。ジャグラーとチェリストのパフォーマンス(ホリデー・パフォーマンス Vol.3:中川裕貴×渡邉尚)の際には、演者がステージと斜面を使って、観客は周りを取り囲んで観るというような使い方もしました。
2020年はコロナ禍の中での開催であり、また、映画を上映するということが先に決まっていましたので、レンタルしたステージセットを組むこととし、dot architectsさんにはソーシャルディスタンスを確保できる客席「バラバラの庭」をデザインしていただきました。京都会館時代の中庭を参照するかたちで、ビニールプールや彫刻を配置して会場を構成してくださいました。
家成 前川國男さんが京都会館を設計された時には、生垣に囲われた池があって、彫刻が立っていたんです。今みたいにフラットで開けた感じではなく、人がいろいろな場所に寄りつけるような場所だったので、そのあり方をもう一度持ち込もうということで、彫刻やプール、動かない椅子などいろいろなものを置いて客席をつくりました。
松本 dot architectsさんの2年にわたる取り組みを通して、単にパフォーマンスのための空間をつくるということにとどまらない、ローム・スクエアを公共空間としてどのようにとらえていくか、という課題が明確になったと思います。同じ課題に今年はまた違うかたちでトライしたいと考えた時に、他の建築家の方、特に公共空間のデザインをされている方がどのようにアプローチされるかを見てみたいと考えました。岩瀬さんはふだん公園や河川区域のように、建物だけではない、広場のような空間を設計されていますし、女性でもあるということで、どうアプローチされるか、たいへん興味があって思ってお声がけしました。
岩瀬 この話をいただいて、最初にdot architectsさんのお仕事について松本さんからご紹介をいただきました。私たちはこれまで演劇のための空間を設計したことがありませんでしたので、パフォーマンスのための空間としてどうアプローチすべきかという点と、予算も限られていたな中で1300平方メートル以上ある場所のスケール感に合う空間とするためのつくり方について特に参考にさせてもらいました。
dot architectsさんは自らの手でつくる技術を持っていらして、私たちには自分たちでつくるような技術がありません。加えて、今の社会状況的には木材を大量に使うということが予算的にもできません。dot architectsさんのお仕事を見た上で、私たちには木材で丁寧につくるようなことはできない、するべきではない、というところからスタートしました。
参加可能な材料と構法
岩瀬 広い場所に応えるということと、材料の循環について考える中で、砕石場から建築現場に向かう石をこの場所に途中下車させて、その石で構造物を作ることを思いつきました。会期が終わったらそのまま本来の目的地である建築現場に移動するというアイデアです。
石でどう形を作るかを試行錯誤して、最終的にピラミッドのような形の石組になりました。石組の配置にあたっては、普段あまり意識されることのない東山の風景を借景化することを意識して、大文字山に向かう軸線に沿って石組を配置し、客席を大文字に正対させることで大きな風景と自分たちがつながるようにしています。ざらざらした砕石の上でパフォーマンスを行うのは難しいというお話だったので、砕石のない地面をステージとして計画しつつ、一部にフラットな石組も用意して、ステージとしても見立てられるようにしています。
家成 会期前に計画段階の絵をウェブサイトで見て、すごくいいアイデアだと思っていました。僕らがステージをつくった時には、手数が多いのと、舞台に拘束された部分があったように思います。岩瀬さんの作品は「トコトコダンダン」も「満寿美公園」もそうなのですが、地形を扱いつつ人の動きを生み出していく。登ってみたいとか、死角があるとか、そのコントロールが上手だなと思っていたので、今回のローム・スクエアにぴったりですよね。
砕石場から現場に行く途中でここに立ち寄ってある形をつくって、その後は現場に運ばれて綺麗になくなるとおっしゃっていましたが、僕らが作っていたものは再利用できるものとできないものがあったし、作っているといちいち材料も増えていくというか、それもあまり良くないと思っていたこともあって、石とネットと中に敷かれているファブリックだけでできている、その手数の少なさがすごく良いなと思いました。
岩瀬 「石ころの庭」をつくるにあたっては、重機を扱う職人さんが一人と協力者の学生さん、私たち所員で、設計施工を請け合うようなかたちでやりました。重機で細かくつくるということはなくて、ある程度鋤(す)きならしてから水平をとったり、安息角[注1]を計測する治具をつくってそれで計りながら形を整えたり。技術がない人でも丁寧に頑張ればできるような方法で、結果的にセルフビルドでつくったんです。dot architectsさんは技術があって自分たちで作れて、その上で、「馬木キャンプ」のように、住民が関わりやすくするために構法をシンプル化することを設計されています。結果的に共通点があるように思いました。
家成 施工中に敷いていたコンパネは、石を置いてから抜いたんですか?
岩瀬 そうです。リサイクル的なことを考えると、こういう副資材が意外と穴になります。舗装表面を傷つけないように重機が通るためのコンパネを敷かなければならなくなり、それが予算の3分の1ほどかかってしまうことが着工の1週間前ぐらいにわかりました。最終形は全てレンタルできるものでできていても、このコンパネがすべて新品だったら大嘘つきになってしまい本当に最悪ですよね。それだったら最初から木材でいろいろできたではないかということになってしまう。そもそもコンパネをレンタルするという枠組みはないのですが、スタッフと青ざめながら、それでもなんとかご協力下さる方が見つかり)、最低限の枚数で済むように重機のルートも図面でシュミレーションしました。最終的にコンパネの半分まで石が載っているものは抜いて、それ以外は一部を石の下に残すかたちで切り取っています。
家成 岩瀬さんと私たちがやっていることの共通点として一つ考えられるのは、材料です。建築家は、多種多様な材料や部品を組み合わせることを仕事にしているわけですけど、僕はそれをできる限り少なくするように設計したい。というのも、材料の数が増えて複雑に組み合わさってくと、材料の意味が見えなくなります。元々どういう材料だったかという想像が働かなくなって、部品にしか見えなくなっていきます。素材を素材のまま使うことを常々考えているのですが、「石ころの庭」は鮮やかにそれをやっています。
次に考えたいのが、道具のことです。僕らがいろいろつくるにしても、プロの大工さんとか職人さんに比べるとすごく簡単な道具、丸鋸やインパクトドライバーなどの電動工具を使います。ホームセンターで買えて、誰でも使えるような道具なんですけど、「石ころの庭」に関しては、スコップと角材があればなんとかなりそうです。もっと原始的な道具だけでつくれてしまっている。岩瀬さんの事務所の所員の方や、砕石屋さん、それ以外の人でもやろうと思えば全然できる。
もう一つ大切なのが、材料を転用できること。今の社会で出来上がっている仕組みというのは、いろいろな素材が一つの目的のために使われてしまっていて、故障や破損でその目的を果たせなくなったら捨てられるか、産業的にリサイクルされるということになってしまう。それに対して、ここにある石は、今はこういう形になっている、次はどこかの建物の基礎の下に埋まるというような形で、可能性が開かれた状態にあります。
岩瀬 家成さんはいち早く構法的な問題を建築家として引き受けてこられたと思います。私も独立当初からすごく素材に興味がありましたが、どちらかというとビジュアルや質感に興味があって、家成さんのようなアプローチに憧れを持っていたので、こんなふうに言っていただけるのはすごく嬉しいです。
私が今興味を持っているのは、素材から空間を考えてみることです。そうすると、素材にまつわる物事が課題として浮かび上がってきて、構法を考えないといけなかったり、道具も編み出さないといけなかったり、どこで調達するのか部材の出自にも関わってきます。思いついた形をどういうもので作ってもいい、予算の制約もないとすれば、なんでもできますよね。形の次元とは違うものとして素材を思考したときに、やっかいな課題が噴出してくるのが面白いんです。自分にとってビジュアルなものだった素材の捉え方が深化しているように思います。
見る側と演じる側が入れ替わる構成
岩瀬 あまり整理はできていないのですが、今回、石をとても面白いと思いました。子供が登ったり、掘り始めたり、向こうでじゃりじゃり音がすると、誰かが触ったことを感じ取れたり。ここで演じられた演劇(「演劇スタジアム」)を見ていて、演者が石組の淵に寝そべったときに、客席にいる観客の自分もお尻の下で同じ質感を感じていることで自分と演者が一体になった感じがして、その身体的な感じも面白いと思いました。
家成 一般の人でも自由に使える、演者と観客の境界が曖昧になるというのが、「石ころの庭」の素晴らしいところです。私たちが普段、生きていく中で、職業や肩書があると振る舞いも固定的になっていくし、建築家なら建築家らしい振る舞いというものもできてきて、それが歳を取れば取るほど融通が効かなくなってくる。社会的な圧力による役割を演じないといけなくなっていきます。私自身は設計事務所をやりながら時々バーテンをやったり、大学で教えていたり、できるだけ自分の中の多重人格性を大切にしようと思ってるんですけど、今の社会はそういうことがいまひとつできにくい仕組みになっていて。話が少し大袈裟ですけど、「石ころの庭」の見る側と演じる側が入れ替わる構成もすごくいい。
松本 演劇はただ演じられているものを見るものと思われがちなんですけど、本当は演劇の醍醐味は、両者が同時にそこにいるという共犯関係をどういうふうに作るかということだというのは、演劇を作る側は主題のひとつとして常日頃から考えていることなんですよね。家成さんは舞台の美術も手がけていらっしゃるし、ロームシアター京都でも新作を手掛けていただいたりもしましたけれど、この場所を演劇の空間としてどう考えられるでしょうか。
岩瀬 家成さんが舞台美術を手がけたレパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」を拝見しましたが、客席と舞台との関係が固定化されていなくて面白い空間体験でした。フラットなホールで、客席は床に座るような設定になっていて。そのまわりを歌舞伎舞台のように花道が廻っていて、ステージが2、3に分散されている。片方にはバンドがいて。正面に向かって座っていると、別のところから音がしてそちらに向き直るように動かされたりして、観客側もかなり揺さぶられる環境なんです。とても印象的な経験でした。舞台美術を設計する際にどういうアプローチを取られているのか、家成さんにお聞きしたいです。
家成 舞台美術を考えるときは、まず脚本を読んで、どういう形がフィットするかを考えます。「妖精の問題」は3つの話がオムニバスになっていて、それぞれすごいアグレッシブで、かつ動きがある演劇です。ロームシアター京都の箱の大きさの関係で、正面に舞台を作ってしまうと全然動きが作り出せないので、舞台をコの字にしてその上を走り回ったらどうかと。全長を足すと東京の大きい舞台の横幅を超えていく長さがあるというのはどうですか?というお話をして、考えをすり合わせていきました。ベースが決まればおかずを足していくという感じです。お客さんから見たらあっちを見たりこっちを見たり、動いていくことで、演劇の中に参加していけるような雰囲気もあったかもしれません。
現代の舞台はすごく高度な機構でできています。前の客席が沈んで舞台になったり、前の人と被らないように工夫してあったり。映画館に行っても、ふかふかのシートがあって、ゆったりと座って観たり。それはそれで気持ちいいんですけど、ああいうことになれてしまうと、完全に見るだけの人になってしまうというか。もうちょっと別の経験を、生の演劇だからこそできるというのはあると思います。
松本 会期中、焚き火(ちっちゃい焚き火(薪ストーブ)を囲んで語らい、いろいろ焼いて食べる会)を毎週末やってるんですけど、この会のホストをされている小山田徹さんが、世話しすぎない、誰もが仕事がある状態にしなきゃいけないんだっておっしゃってたんですよね。それと同じことなのかもしれません。
家成 いろんな仕事をしたい。いろいろな仕事で成り立っているものを作りたい。建築はガラス屋さん、サッシ屋さん、大工さん、みたいに分業制のかたまりなので、もうちょっと、例えば農業のように作れないかと。田植えもできる、脱穀もできる、藁で編むこともできる、いろんな身体で参加することができるというのが農業のいいところだと思います。大規模農業のトラクターとかコンバインとかとは違う話ですけど、そういう参加可能性を、実際に参加してもらえるかどうかは別にして、開いておきたいといつも思っています。
岩瀬 昨年のヴェネチアビエンナーレで、増改築が繰り返された一軒の家を丁寧に解体して分解して資材を取り出すことをやったんです。時代時代の技術を含み込んだ住宅を分解してみると、最初の時期にできたアナログな部材は解体して資材として利用しやすかったんですけど、技術が高度になってくると、複数の材料が接着剤で一つになって分解できず、元々の用途にしか使えないようになっていて。そうするとゴミになりやすい。ゴミになるかマテリアルになるかの境界はアッセンブリー性にあると思って。そういう経験が、一切固着しない、今回の作り方の下敷きになっているんです。
家成 最近、滋賀の昔のことを調べていて知ったのですが、当時の燃料といえば木材だったので、滋賀県の湖西の山々は禿山だったそうです。皆がどんどん木材を使っていた時代があって、その時代の人たちは木材が貴重だという意識があるので、丁寧に転用している、その知恵がいっぱいありますよね。1本の木が灰になるまで使い切っていくメンタリティってすごくいい。
岩瀬 私も最近は木材のプロジェクトがあって考える機会があったんですけど、森にある木と私たちの身の回りにある木って、あまりに乖離がありますよね。森に行くといろんな樹種があって、いろんな木肌、香りのものがあるのに、私たちの手元に来ると同じものに見えてしまって、森から来たという連想が難しいと改めて思ったんです。部材の由来や手元の部材と自らの周りの風景が連動しているのがわかれば、木材をはじめとする材料や環境への意識も変わるような気がします。
今は材料の話をしていますが、先ほどお話していた想像力の話や、演者と観客の関係や参加の意識と環境のセットの話題とも、かなり関連すると思います。演劇の話題が想像以上に都市や空間のデザインの今日的なテーマに引き寄せて考えられ、大変貴重な機会になりました。引き続き実践の機会を通して考えていきたいと思います。