以下の文章は2023年11月7日13時00分から15時30分の計2時間半に渡って行われた『公文協アートキャラバン事業 劇場へ行こう3』参加事業「老いと演劇」OiBokkeShi「レクリエーション葬」関連ワークショップ ②老いと演劇のワークショップ』について書かれたものである。前半はワークショップの簡単な内容紹介、後半はワークショップ体験中に私が感じたことを中心に書く。
内容紹介
参加者は20名程だっただろうか。20代らしき参加者は私の見たところ1名ぐらいで、30代、40代、50代以上の参加者が多かった印象がある。メモを取る参加者も6名ほどいた記憶がある。
OiBokkeShi主宰の菅原直樹が、最初にワークショップの目的を伝える。感情の解放は意図されていないといった発言があり、そこで参加者の多くが笑う。菅原は、OiBokkeShi設立までの経緯、その中で介護と演劇の相性の良さに気付いたこと、看板俳優でもある岡田忠雄(97歳)との出会い、これまでの創作についてなどを語る。20分ほどの活動紹介の後、簡単なアイスブレイクが行われる。身体の各部位(頭、鼻、肩、お腹、膝、つま先)に1から6までの番号を振り、言われた番号を指差すゲーム(遊びリテーション[1]「将軍ゲーム」)である。
最初は1つの数字を言われるだけだが、次の段階では同時に2つの数字を言われ、右手で1番、左手で4番を指すといった流れになる。その後、自分の身体ではなく、他者の身体を指す遊びに移行し、全体が少しずつ動き出す。簡単なゲームだが、全員が言われた通りにできるわけではない。当然ながらうまくできない人も出てくるが、菅原は「できない人がいるからゲームが面白くなる」といった話をする。できないことに人間味を見出す私たちがいることに気づかせてくれる。老いていく私たちは「できない」が少しずつ増えていくわけだが、菅原はそれを決してマイナスに捉えるのではなく、「下り坂の価値感、上り坂の価値観」といった表現で肯定的に捉える。老いていく中にも、何かしらの価値があるという話である。
簡単なアイスブレイクの後、4〜5人のグループに分かれ、認知症の人の言動を受け入れるイエスアンドゲーム[2]が行われる。1人が認知症の役、もう1人が介護職員の役を演じる1対1の短い即興劇である。介護職員は利用者を入浴や食事に誘導したいのだが、認知症の利用者は突拍子も無いことを言う。しかし介護職員役に求められるのは、認知症の方の言動を正すのではなく、受け入れることである。グループ内で何度か短い寸劇が繰り返された後、菅原が介護職員の役になり認知症の人の言動を正す、つまりは否定するパターンを参加者で見る時間となる。参加者の1人が認知症の役を演じ、その方は「ドラえもんがここにいる」などと言う。利用者を食事へ誘導したい介護職員は困り果て、別の参加者演じる先輩職員を呼び出し対応を変わってもらう。先輩職員は認知症の方の対応のスペシャリスト、認知症の方の言動を受け入れる達人である。その場に駆けつけた達人は「ドラえもん! 本当だ! お、どこでもドアですね!」と臨機応変に振る舞う。私たちはそれを見ているだけだが、なぜか次第にドラえもんが見えてくる(気がする)。その寸劇が終わった後、菅原は症状として幻視などがあるレビー小体型認知症について紹介する。相手の見えている世界に合わせること、それがコミュニケーションの大原則でもあることが語られる。現実と内的世界が異なること、人は無意識に自分の物語に支配されていることなどが映像資料と共に伝えられ、短い休憩となる。
後半はブックス(BOOKS)というワークから始まる。5人1組になり、4人が「宝くじが当たったらどうするか」などの雑談をする中、認知症役の1人が突然(手に持っている本に書かれた文章をどこでも良いので声に出し)意味不明な話を始める。雑談をする4人は最初は認知症の人を否定、無視して話を続ける演技が要求される。後半は認知症の人を肯定、語られる言葉をとにかく受け入れる演技が要求される。2つのグループが試演した後、参加者は否定と肯定のどちらがやりやすかったのか尋ねられる。世代によっても変わるそうだが、否定が楽な人もいれば、肯定がしやすいと答える人もいた。
最後にOiBokkeShiがTV特集された際の番組[3]の抜粋を見る時間があった。その中で印象的だったのが「心の中のカチンコを鳴らす」という表現である。日常生活に於いても、また認知症の方との関わりに於いても「心の中のカチンコを鳴らす」=演じることの重要性が語られる。映像の後、菅原がまとめの話に入る。認知症の人は上演やワークショップに参加した後も「演劇なんてありましたか?」といった感想が出るそうだ。菅原はそういった認知症の方の言葉に寂しさを感じていたらしいが、今ではそれすらも肯定的に捉えているらしい。今この瞬間を楽しめれば良いだろう、きっと楽しかった記憶はどこかに残るはずだろう、といった老いと演劇に関する希望が語られた後、ワークショップは閉じられた。
私が感じたこと
「認知症の人と接したことがある人はいますか?」という質問がワークショップの冒頭にあった。私は自分の祖母の顔が即座に思い浮かんだが、認知症になった祖母の面倒を見ていたのは実家に住む妹であったため、すぐに手を挙げることは躊躇われた。私は幼少の頃からおばあちゃん子だった。しかし大学進学とともに実家を離れ、それ以来祖母と話す機会は極端に少なくなった。大学生活を満喫していた頃、母や妹から祖母の様子が大きく変わってきたことをしばしば耳にした。物忘れから始まり徘徊や弄便といった行動もあったらしい。しばらくして祖母は病院に入った。久しぶりの帰省の際、嫌がる母を連れ出し祖母の病院を訪れた。そこで私はベッドに拘束された祖母に初めて遭遇した。ベッド上の祖母は、痩せ衰えまるで赤子のようだった。たった一度のこの記憶によって「認知症の人と接したことがある」と言えるかどうか心許無かったが、手を挙げないことは祖母の存在を否定しているようにも思え、私は目立たぬように小さく手を挙げた。
OiBokkeShiは「老い 呆け 死」であり、重いテーマを掲げた劇団であることがわかる。主宰の菅原直樹のプロフィールには「介護福祉士」の記載があり、彼は特別養護老人ホームでの勤務経験などから介護と演劇との相性の良さに気づき、2014年「老いと演劇」OiBokkeShiを設立した。各地でワークショップも数多く開催しており、その内容もホームページに掲載されている[4]。
私は知的障害者が暮らすグループホームでの勤務を経て介護福祉士となった。いわゆる3K労働「きつい 汚い 危険」とも言われる介護職だが、私は充実した日々を過ごしている。主に強度行動障害がある方々を支援しているが、健常者の世界が仮に存在するとして、そういった世界では感じられない非日常の豊穣さがそこにはある。彼らの言動が私には劇的に感じられ、私は私なりの方法でそれらと向き合っている。彼らの言動に応じ自分の言動を変容させたりするのだが、この変容を演技と言い換えても良いだろう。
OiBokkeShiの菅原は、介護と演劇の相性の良さを以下の言葉で簡潔に表す。
お年寄りほどよい俳優はいない
介護者は俳優になった方がいい
上記の主張について考えたい。まず後半であるが、福祉に限らず対人関係を円滑にする目的で「俳優になった方がいい」と感じる人は多いだろう。私が感じた介護と演劇の相性の良さも「俳優」=「演じる」という点にある。菅原の言葉を補足するならば「介護者は(演技をしていることを意識した上で演技をする)俳優になった方がいい」となるだろうか。本心でぶつかることも時には重要だが、相手の世界を尊重しそれに見合うよう自分を大きくも小さくも変容させること。この変容=演技の重要性をこれまでの人生経験から知る人は少なく無いはずだ。人間は演じるサルといった表現[5]もある通り、私たちの日常は演技に満ち溢れている。菅原の主張を大胆に言い換えるならば「みんな俳優になった方がいい」とさえ言えるのかもしれない。
しかし私は前半の「お年寄りほどよい俳優はいない」という主張には引っかかりを覚えた。そう思う人がいることは理解できる。しかし私自身はそう言い切ることができない。祖母への複雑な思いのせいだとも思うが、私が障害福祉の世界にいることも大きく関与している。「お年寄り」という言葉に「障害者」を当てはめることはできない。「障害者ほどよい俳優はいない」という主張には、何かしらの搾取を感じる。高齢者を搾取する意図が菅原にあるとは思えないが、「◯◯ほどよい俳優はいない」という表現には、権力を持つ者が◯◯を見世物にしてしまう危うさが伴ってはいないだろうか。おそらく本来は「高齢者にもっと目を向けましょう」といった意図なのだろう。しかし主張の真意を捉え損なう人がいることも現実問題としてある。私の知人で現介護職の方が、先日のOiBokkeShi京都公演を見て、今回のワークショップ参加を辞退した。理由を尋ねると「あそこまで優しくできない介護現場もある…」と答えた。この正直な感想から考えるべきは、介護現場における理想と現実のギャップではないだろうか。
人材不足が甚だしい介護業界では、少ない人員で多くの利用者の対応をしなければならない。そのため「俳優」になる余裕も無いままに三大介助(食事、入浴、排泄)に追われる現場も多く、バーンアウト(燃え尽き症候群)になる方も多い[6]。そういった過酷な介護現場において、菅原の主張は絵空事にしか聞こえないのかもしれない。芸術家を名乗る者たちが絵空事や理想を語ることは必要だが、それに立ち会う者たちを置き去りにしないためには、どういったアプローチが可能なのだろうか。
私は6年前にロームシアター京都で行われた菅原のワークショップ[7]に参加したことがある。しかし6年前と今回のものを比べると、決定的に違うことがある。それは「ディスカッション」の時間の有無だ。6年前の企画では「ディスカッション、質疑応答」と題された時間が1時間以上も設けられていた。この違いはとても大きい。今回のワークショップでは、私はどこか居心地の悪さを感じてしまった。認知症やお年寄りという言葉に私が過剰反応していただけなのかもしれない。しかしOiBokkeShiの主な活動対象が超高齢社会を悩み生きる私たちなのだとすれば、「老い 呆け 死」に多様な思いを抱く参加者の気持ちの直接的な捌け口を設けることも時には必要だろう。上演ではなくワークショップなのであれば、尚更そういった時間を設ける必要があるのではないか。
今回のワークショップ終盤、私は参加者同士で話したい衝動に駆られていた。お互いに認知症について話し合う時間があったならば、それぞれの参加理由をシェアできる時間があったならば、私たちはまた異なる気持ちでワークショップを終えられたのかもしれない。しかし今回の「老いと演劇のワークショップ」には、そういった時間は残念ながら無かった。映像も交えての巧みな構成で、菅原の考えやOiBokkeShiの活動に関する学びはあった。それで救われる人もきっといる。しかしそこに集った者がどんな気持ちを抱いてその場に足を運んだのか、そのことに触れる時間はほとんど無かった。
劇場主催で行われた「老いと演劇のワークショップ」だが、もっと参加者の声を拾う方法もあったはずだ。上意下達な形式ではなく、ファシリテーターも参加者も相互に対話を丁寧に重ね、ゆっくりと「老い 呆け 死」について思いを馳せる時間にできた可能性は無かったか。またオンラインではなく、わざわざ足を運び対面で集うことの意味をいま一度考える必要もあるだろう。「老い 呆け 死」という大きな社会課題に挑むのであれば、そこに集う者の声にもっと耳を澄ますべきではないだろうか。
おそらく「お年寄り」も「介護者」も、皆一様に自分の居場所[8]を求めている。「老い 呆け 死」に関心を持って集う者も、おそらく同様に自分の居場所を求めていたのかもしれない。本来、劇場は誰の居場所なのか。誰の声に耳を澄ます場所であるべきなのか。声無き声に埋もれ、大きな問いが残された。