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#インタビュー#演劇#レパートリーの創造#2017年度

岡田利規×木ノ下裕一 ロング対談

アーティストと劇場と観客の「ただならぬ」関係。レパートリー作品が拓く未来とは?(後編)

インタビュー・テキスト:島貫泰介(ライター・編集者)
2017.8.31 UP
撮影:佐々木卓男

前編はこちら

木ノ下歌舞伎はSFだった?

── アーティストのクリエーションへの欲望と、レパートリーの制度には異なる価値基準や回路があるわけですが、ある種の文化や歴史を劇場や観客と協働して立ち上げていくことにアーティストが積極的にコミットすることを、お二人はどう捉えていますか?

岡田 さきほど、橋本さん(橋本裕介。ロームシアター京都/KYOTO EXPERIMENT プログラム・ディレクター)が「地域が劇場に影響を与えていく」という主旨の発言をしていました。 一人の作り手としては、作品が社会や世の中のためになるべきだ、なんてことは考えなくていいと思ってます。だいたい、考えたからといって作品が面白くなるわけではないし。でも、劇場文化が街にしっかり根付いていることによって、アーティストの勝手なマインド、例えば社会性とは無縁の意識でつくられた作品が、意図せぬ社会的効果を発揮することは大いにありうる。それを僕は信じてます。

── その実現のためには、アーティスト側の実力の向上だけではなくて、地域全体のリテラシーの向上も必要ですね。

岡田 もちろん簡単にはできないでしょうけどね。観客だって、世の中のことが勉強したくて劇場に来るわけではないし、僕らも啓蒙したいわけでもないから。でも、状況を動かしたいという気持ちは、僕にはある。だから期待しちゃうんですね。劇場文化をつくるという壮大な意気込みに。

木ノ下 僕は、アーティストのつくる芸術が世の中に役に立つとか、社会とどうかっていうことは原則考える必要はないと断言します。というのは、そんなことを考えてつくっている人の作品は絶対につまらないですもん。自分の食べてきたものしか作品には出ないのに、身の丈に合わないものを頑張ってリサーチしたり新聞を読んだりして、頑張っても、それが本当に骨身にしみていない問題だってことは、すぐにお客さんにバレる。

岡田 木ノ下さんが作品をつくる理由ってなんなの?

木ノ下 長い話になりそうだけど、いいですか(笑)。僕は子どものころから古典好きだったんですけど、やっぱり今の社会に対して、かなりの生き辛さを感じてきたわけです。友達とは話が合わない。ポケモンの話もできない。

── 木ノ下さんは落語の話がしたいのに?

木ノ下 そうそう。まずは落語とは何かから友達と共有しないと、話ができない。「ポケモン? それよりも米朝の話をしようよ」っていっても友達にはチンプンカンプンでしょうから、「ポケモンの進化って襲名みたいな感じなの? 米朝が米之助になって米團治になるみたいな? キャラクターを襲名させていくゲームだとしたら、それ面白そうね!」いうところから積み重ねないといけない。極論すれば、そういう周りとのギャップをどう埋めていくかってことだけを考えて生きてきたわけです。で、やっぱり、今見えている現代の景色も含めて、僕にとっては何かが変なんですよ。コンクリートとかもものすごく不思議。なんで木材じゃないんだろう。

岡田 コンクリートもアウトなんだね(笑)。

木ノ下 宮大工の範疇と技術を超えた建物が世の中にいっぱいあるってことが、まず不思議ですよね。新幹線もわけがわからない。なんで、東海道を二時間で行けるんだ!

岡田 あり得ないよね、コンクリートがアウトなんだから。

木ノ下 日帰りで東京行くことがたまにありますけど、本当に変な感じですよ。帰ってきたら「夢見てた?」みたいな感じで、ちょっと精神がついてこないです。ということは、つまり世の中の全部が生き辛い。 それと同時に、僕らが身を置いている小劇場演劇の世界には、古典などの昔から日本にあった演劇的表現との断絶がある。明治前後に西洋のものが入ってきて、歌舞伎や能との接続が絶たれた。音楽もおかしいですよ。音楽室に飾ってある音楽家の肖像画、全部西洋のおっさんばっかりでしょ? なんであそこに竹本義太夫が入ってこないのか。まあね、仕方ないとは思うんですよ、そうなっちゃったんだから。でも、だからこその

木ノ下歌舞伎なんです。僕はほぼ全公演を客席から見るんですけど、その時間が一番、生きてるのが楽なんです。 もしも明治期に伝統の断絶がなく、わたしたちの表現が江戸時代と地続きであったなら、キノカブの演劇みたいなものが世の中に溢れているんじゃなかろうかっていう錯覚を起こさせるんです。その瞬間だけ僕は、なんというか……本当の世界に帰って来たって思える。

岡田 キノカブってさ、SFなんだね。ifの世界、可能世界なんだね。

木ノ下 そう、SFなんです。でも凄くリアリティのあるSF。劇場から出たくないっていうくらいのSFなんですよ。

岡田 すごく腑に落ちました。

木ノ下 うちの劇団は、稽古前半に歌舞伎の完全コピーをやるんですけど。

岡田 有名な話ですよね。摺り足の練習をするんでしょ?

木ノ下 それで、みんなその映像を見て、ずーっと勉強してる。待ち時間のあいだも、イヤホンで聞きながら見ている。僕はその光景を見ているだけで感慨無量なんです。別に、みんなが歌舞伎をできるようになって欲しいわけじゃないし、小学校のカリキュラムに歌舞伎を入れてほしいとかじゃないんですよ。 ただ、俳優自身が歌舞伎の演技を一つひとつ精査して、そこから何かを摂取しようとしていることに感動するんです。それこそが、生き辛さを感じてきた、自分の見たかった光景。キノカブの作品で、いちばん救われているのは僕自身なんです。

岡田 べつにさ、木ノ下歌舞伎を見たお客さんが生き辛さを解消できなくてもいいじゃない。

木ノ下 そうそう。全然いいんです。

岡田 それはただの、アーティストが何かをつくるための動機としてあるというだけで。糸井さんもそうでしょ?

木ノ下 糸井さんもそう。

岡田 なんでそんなに男と女のやりとりに執着があるんだろうって思うんです。僕だって普通に興味はありますけど、普通じゃだめですよね。彼くらい偏執的じゃなきゃ、作品にまで昇華されないですよ。

『東海道四谷怪談ー通し上演ー』[2017年/あうるすぽっと] 監修・補綴:木ノ下裕一 演出:杉原邦生 撮影:Bozzo

 

新生する、伝説の岡田作品

── 岡田さんは、来年1月に『三月の5日間』をロームシアター京都で上演しますが、同作もリクリエーションを謳っています。先ほどの会見(ロームシアター京都平成29年度ラインアップ発表会、2017年3月28日開催)では、24歳以下に限定してオーディションをし若い俳優を起用する、元のテキストに手を加えない(※その後、テキストにも手を加える方針に変更された)、演出は大きく変えるだろう、とおっしゃっていました。リクリエーションに対する岡田さんの狙いをお伺いできればと思います。

岡田 チェーホフの『桜の園』を東日本大震災が起きた直後に読んだとき、僕には福島の話にしか思えなかったんだけれど、今年『桜の園』を見たら、現在、つまりトランプ時代の世界の話に見えたんです。そんなふうに、テキストって特定の地域や時代の演出家、ひいては観客が自分の見たいもの考えたいものを見出すから、そのときどきでいろんな見え方がしてくるわけです。だから『三月の5日間』も、あれはイラク戦争という題材を書いているんですけど、それとは別の何かに見える可能性がある。だから題材そのものを何か別のものに書き換えたりとか、そうしたことはする必要はないと思います。実際、2011年に再演したときはあの作品も震災の話に見えましたからね。

── それは、岡田さんにとって『三月〜』が、時代に応じてさまざまなifの姿を示す、ポテンシャルを秘めた作品だからでしょうか。

岡田 あの作品は異様に評価されちゃって、結果的にちょっとしたレジェンド的存在にもなってしまった。それを「呪縛」と言うほどネガティブに捉えているわけではないけれど、ただ、初演とは別のありようを見たいという願望は僕の中に強いかもしれない。それこそ木ノ下くんみたいに、別のifを見たいっていう。「前のバージョンの方が良かった」って言われる可能性は大ですけどね(笑)。でも、レジェンド的存在のままにしておくのはつまんないなと思う。

── 木ノ下歌舞伎が近松門左衛門など古典の有名作を取り上げて、さまざまな再検証と掘り出しを行うことと、似ているかもしれませんね。

木ノ下 岡田さんのお話を聞いて、羨ましいなって思います。要するに、『三月〜』を、2011年に上演したとしても、恣意的に、震災の話に見えるようにはしないってことですよね。

岡田 結局それは、観客がすることなんだよね。

木ノ下 次のリクリエーションも「何かにはなるだろう」っておっしゃったけれど、ある確信を持って手放せる強さに、僕は羨望します。 古典の場合は、それがなぜか出来ないんですよ。もちろん、いま近松を上演すれば何かになるかもしれませんけど、それが僕には怖い。時代が違うし、江戸時代の人々と我々現代人では五感も思考方法も違うわけで、そうするとある程度「今回はこういう物語に見せましょう」とか「ここを切り取って、ここに光を当てましょう」とか決めてみないと、現代人に通じる気がしない。江戸の心中事件が、現代の何かとして見えてくるまでいかないんじゃないかっていう恐怖心があるんです。

岡田 どうなんだろう。例えばね、心中や恋愛はあまりにも普遍的すぎて、厳しいのかもしれないね。

木ノ下 ああ! いつの時代でも通じすぎちゃう。

岡田 逆に、誰かに恋する気持ちは、いつの時代も変わんないよね、みたいなことになっちゃうと、それはちょっと違うだろうとも思うしさ。

木ノ下 はいはい、思います。

岡田 昔は、借金しちゃって埒が明かなくてどうしようみたいな話も頻繁にあったんだなあ……なんて、そのレベルでわかりあったから良いってわけじゃないでしょう? だから歌舞伎って、難しいですよね。

木ノ下 ほんと、歌舞伎って何なんでしょうね(苦笑)。

岡田 死についてもさ、僕たちからすれば命を粗末にしているとしか思えない。平気で子どもを殺すし。だから最初に言っていた糸井幸之介さんの作品で、男女がいちゃいちゃして行き詰まって蟻を潰したことが、要は心中なんだっていう木ノ下さんの解釈はすごい興奮するよね。

木ノ下 いやいや!

岡田 糸井さんは心中だと思って書いてないはずなんだよ。作家は、もっと生理的に書くからさ。男女の間に流れる時間のなかで、なんとなくそこに蟻がいたから潰しちゃえみたいな感覚があったから、潰しただけだと思うんだ。でもそれが観客である木ノ下さんのなかではつながった。これは天才的な置き換えだよ。

木ノ下 つまり、古典だって何かに見えてるんでしょうね。何かに見えたから、演出家はそのシーンを切り取っているわけですもんね。

岡田 そう。今それを見ていて、おもしろいと思ったのだとしたら、それはつまり自分に関係があることだと思えたということなんだから、そのことは信じていいと思うんだよね。どのように関係があると感じたのかについて、具体的に「これこれ、こういうふうに」と分析できないとしてもさ。

── たしかに作品を見ているときに、条理に従わない不思議な接合のされ方にグッとくる瞬間ってありますね。A+BがABにならず、いきなりZに飛躍しているけれど、でもそれ以外の最適解はない! みたいな。それは古典をつくっていた数百年前の人たちにも絶対にあった感覚なはずですが、時代を経た我々にはそういった主観的な見方はなかなかできない。でも作り手の場合は、創作を通して理解したり、近くことはできるかもしれません。

岡田 その芝居をつくったのが自分であったとしても、お客さんと一緒に見ることで、それまで気づかなかったことに気づく場合はすごく多いんですよ。お客さんと一緒に見るとで、お客さんが今何を見ているのかが分かるんですよね。

── それが、ある劇場文化を作り手と観客が共有するということかもしれないですね。時代の空気、場の空気によって、作品が思いもよらないリアリティーを獲得するというか。

『三月の5日間』リクリエーション (c)竹久直樹

 

解凍としてのリクリエーション

── そろそろまとめ的な方向に導いていきたいのですが、木ノ下さんは、今回の『心中天の網島』のリクリエーションをどのような経験にしていきたいですか?

木ノ下 今回はまず初演があって、次に再演するということなので、双六で言えば途中から始められるわけですね。ですから初演を経て出てきた課題を糸井さんと一緒に考えていきたいと思ってます。さしあたっては古典の言葉の問題を重点的にやりたい。 じつは劇作家を兼ねる演出家とお仕事するのは、僕は糸井さんだけなんですよ。多田淳之介さんも部分的にご自身で書かれることはあるけど、劇作家と名乗っているわけじゃないから。言葉を扱う演出家っていうのは糸井さんが始めてなので、そこは挑戦したいと思っています。非常にざっくりした事で言えば、キノカブは古典芸能の現代語訳なんですよ。そしてテキストだけではなく、声や身体性、空間なんかを含めての現代語訳だと思っているんです。 だから、古典の現代語訳は、やっぱりアーティストにもやってもらうべきだと思うんですよね。

岡田 池澤さん(池澤夏樹。小説家で、近年は河出書房新社発刊の『世界文学全集』『世界日本文学全集』の編集も行った)と同じこと言ってるね。

木ノ下 もちろん学者訳は大事ですよ。大事ですけど、それとはまた違う側面で、アーティスト訳は絶対に重要。なぜかというと、翻訳っていうのは単にAの言語からBの言語に移し替えるってことではなく、編集やクリエーションが関わってくるから。そこには、意味だけを訳したときには絶対に出てこない古典の姿が浮かび上がってくるはずで、アーティストの身体を通して現代語訳しないと「本当に古典をやったことにはならない」くらいに思っているんです。岡田さんは河出書房から出ている『日本文学全集』で能・狂言を訳してらっしゃって、これがもうすんごい面白いんですけど、最後の訳者あとがきで、翻訳するっていうことは、一種の解凍を、つまり冷凍食品を解凍する、その解凍だとおっしゃっている。そのとおりだと思うんですよ。

岡田 僕がそこで言ってる「解凍」は、圧縮ファイルを解凍する、の「解凍」なんですけどね(笑)。

木ノ下 あ、そうなんですね! それも解凍って言うんだ(笑)。

岡田 世阿弥の言葉はものすごく凝縮されてるからそれを「解凍」しよう、というコンセプト。でも、冷凍食品チンする「解凍」でもいい。木ノ下くんの解釈でぜんぜんいいです。

木ノ下 本当にいい言葉だなと思うんですよ。だから今回は、その解凍をたくさんやりたいと思っているので、糸井さんと近松には、大いに喧嘩していただいて、っていう感じです。

岡田 相性いいでしょうね。どっちも色っぽくてね。

── 岡田さんは圧縮と解凍についていかがですか? 文学の翻訳が言葉を使うように、演劇では演出を使って解凍する、とも言えると思います。

岡田 演劇っていうのは相当にすごい仕組みだと思うんです。で、そのすごさの大部分は、観客の想像力に依ってる。だから『三月の5日間』はイラク戦争というトピックを扱ってますけど、それを別の何かに置き換えたりとかする必要はない。だって、そういうアダプテーションはお客さんがするから。でも面白いのは、初演の『三月〜』をつくってた頃の僕は、こんなふうに演劇のことを信じてなかったんですよ。演劇を疑ってかかってた。尖っていた。それはとてもよかったと思っていますけどね。 でもそれが今では「演劇はすごい」とか言うようになってる。そういう状態でつくり直すわけだから、初演のものとはどうしたって大きく変わるでしょうね。ある意味、今の僕が『三月〜』をつくるというのは、過去の自分とのかなり異物感のあるコラボレーションですよ。それは不安でもあるし、楽しみな部分でもあります。

木ノ下 『三月〜』は本当に楽しみです。本を書き変えないっていうのが、僕にはけっこう意外でした。

岡田 書き直せないんですよ。もしも書き直すってなると、当時の自分が、自分の中ではまったく違う作家になっちゃってるから無理。そういう意味では、そもそも選択肢はないの(笑)。

木ノ下 初演が2004年ですよね。僕が初めて見たのは大学1、2年生のときでDVDだったんですけど、やっぱり当時は、イラク戦争がショッキングなものとして記憶に残っていたから、けっこう特別な鑑賞経験でした。歌舞伎で言うと、その時期って中村勘三郎襲名があって、野田秀樹さん演出の『研辰の討たれ』が再演されたりしてました。この作品は報復や敵討ちをどう捉えるか、っていうのがテーマでもありました。

岡田 野田さんの『研辰〜』は9.11以降のものとして書かれてたんじゃなかったけ?

木ノ下 たしかね、初演はちょっと前だったと思います(2000年8月の「納涼歌舞伎」初演)。

岡田 9.11よりも前?

木ノ下 再演時は、明らかに9.11にしか見えなくなっちゃってましたけど、それも僕ら観客が勝手に見たということかもしれませんね。そういった歌舞伎や社会の出来事と、岡田さんの『三月〜』は、そこそ「圧縮」された記憶として残っているんですよ。だから、それを2017〜18年に見ることでどんな感覚が浮かび上がってくるかはとても楽しみ。きっと上演を見ながら、イラク戦争当時の自分の姿も蘇ると思うんですよね。そして、10年以上経って、世界がどう変化したかも含めて見ることになる。それは、すごく豊かな時間を、潜ったり浮かんだりするような観劇体験になるだろうなと思ってます。もちろんそこには、岡田さんの作風や思考の変化、問題意識の変化も入ってきているはずで、いろんなものの推移が地層のように見えてくる時間になるはず。

岡田 ありがとう! いやあ、今のコメント、チラシにそのまま使えるね(笑)。

  • 島貫泰介 Taisuke Shimanuki

    美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。現在は京都と別府を拠点に活動。『CINRA』『Tokyo Art Beat』『美術手帖』などで執筆・編集・企画を行う。2022年からは、DIYなアートイベント「湯の上フォーエバー!」を別府市内で主催している。

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