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レパートリーの創造 松田正隆作・演出「文化センターの危機」 「シーサイドタウン」

松田正隆 インタビュー

インタビュアー:小倉由佳子(ロームシアター京都 プログラムディレクター)
構成:杉谷紗香
2022.9.24 UP

2020年度のレパートリー作品『シーサイドタウン』に続き、劇作家・演出家の松田正隆が書き下ろす劇場レパートリー作品の第二弾『文化センターの危機』のためのインタビュー。2023年2月下旬の本公演に向けて、2022年6月に出演者オーディションがロームシアター京都で実施された後、作品のコンセプトや前作との関連、クリエイションにかける想いを松田正隆に聞いた。


―前作『シーサイドタウン』は約10年ぶりに京都で上演された松田さんの作・演出作品でしたが、今回、2年ぶりとなる京都での新作『文化センターの危機』のクリエイションが始まりました。2023年の公演では、同じ期間中に『シーサイドタウン』も上演することが決まり、この二作品の違いや共通点について関心が集まっていると思うのですが、まず、そこからお話しいただけますか?

松田 一作目の『シーサイドタウン』は、ちょっとした旅をテーマにした作品です。町から外れてもう一度戻ってくる物語を作ってみたいというアイデアがあり、そこにさまざまな場所や場面を点在させて群像劇を作っていきました。主な舞台は海辺の一軒家で、ストーリーは血縁の人たちでできていた。
二作目の『文化センターの危機』との大きな違いは、中心点があるかどうか、ですね。一作目には海辺の一軒家という、戻るべき「中心点」がありますが、二作目では中心から「拡散」してキャンプ場に移動するんです。そして、星を見る。キャンプ場という町から離れた場所で見る星と、町の方から見る星と、同じ自然現象をそれぞれ違う場所で見ている人が物語の中で点在している。でも、星を見ているという「経験」は統合される、というイメージです。
もう一つ違うのは、二作目には血縁の人たちが出てこないという点ですね。たとえば同僚同士、先生と生徒、コンビニで出会った客同士、久々に会う大学の先輩・後輩というような、血縁だけじゃない人間関係で話を展開して、前作とは反転させようという意図がありました。

ロームシアター京都レパートリー作品 「シーサイドタウン」Photo:Toshiaki Nakatani

―特徴的なのは、一作目に出演した俳優がそのまま二作目にスライドしていて、それぞれの役柄は違いますが、顔ぶれは同じなんですよね。劇団ではそういった関係性の中で作品作りをしていくことが多いかと思うのですが、こういったクリエイションで、同じ顔ぶれで再び制作していくのは珍しいんじゃないでしょうか?

松田 実は、三作ぐらいはレパートリーを展開することが可能かもしれない、と思っていたんです。というのも、この二作は、舞台セットを作らないし、照明にそれほど変化がないし、音響もほとんど使わないし、俳優の衣装も一緒。同じ日に「シーサイドタウン」と「文化センターの危機」両作品の上演があったとすれば、同一の俳優がそれぞれの作品で違う役を演じるっていうやり方です。ただ、マレビトの会でも同じようなことをしていましたね。

―なるほど。マレビトの会の作品と、この二作との違いは「反復」だ、ということを松田さんはおっしゃっていましたが、この両作品の間での反復も出てくるのかなと思います。『文化センターの危機』の上演期間中、『シーサイドタウン』も連続上演されることが決まりましたが、おすすめの見方はありますか?

松田 2作品とも観てもらいたいですね。どちらを先に観てもらっても良いんですけど、通しで観てもらえたらうれしいです。
このクリエイションでは、同じ期間に、同じ俳優が、セットのない舞台で、同じ世界を演じる、っていうのをやりたいなと思っています。「同じ世界」といっても、同じ町だとは規定していないんですが、モチーフにしているのは「海辺の町」という点は共通しています。同じ俳優が、違うキャラクターを演じ分けるおもしろさを感じてもらえたら。

―お話を伺っていて、松田さんがおっしゃる「おもしろさ」の中に「匿名性」というか、キャラクターを固定されていない俳優が町の中にたくさんいる、というイメージがわきました。物語的に言ってしまうと、「誰かの人生を私が歩んだかもしれないし、私の人生を誰かが歩んだかもしれない」ということも感じますね。

松田 そういった「交換可能な人生」みたいなことを肯定的に作品に結びつけたいという考えはありました。「強烈なバックボーンをもった固有のスペシャルな人生」ではない、誰でもない誰かを上演したいというアイデアは以前からあったんですけど。

―その点について、作品に関わる俳優たちに共通認識があるのかなと思うぐらい、役への執着がなく、どの役をどの俳優がやってもいい、という感じがありますよね。俳優を想定して脚本を書く「アテ書き」の部分がありつつも、俳優たちは「どの役でも自分はやる」という意識をもっているところが、シーサイドタウン組には共通していると非常に感じました。
ところで、『文化センターの危機』のオーディションにあたって、応募時に「演劇における俳優の役割について」という題で作文を書いてもらいました。この作文を通して、俳優が自分たちの役割をどう考えているのかを松田さんが知りたい、ということだと思うのですが、俳優が演じること、演じ分けることとつながっているのではと思って。松田さんご自身は、俳優の役割について、どのような考えをもっていますか?

松田 俳優の役割は、いまだによくわからないんです。「俳優とは何か」ということは、ずっと考えていて、「役」と「俳優の身体」の関係性の間にあることって、何なんだろうなぁと。この話は、すごく長くなるのですが――。
戯曲の物語に書かれている登場人物像というのは、劇的な物語の結末や、登場人物のふるまい、そして登場人物が置かれているドラマの中の感情といったものに帰属して、規定されて、キャラクターが構成されていくわけです。だから、俳優は登場人物に帰属する感情やキャラクターと自分自身とを結びつけて、役になりきっていくようにしてしまうんですけど、一方で、観客の目の前にいる俳優の身体は、目の前にある空間にも帰属しているから、上演の現場もそこには関わってくるんですよね。上演の現場にあらわれる、俳優たちの立ち居振る舞いのおもしろさは、ある意味、観客の目の前にいる現前性、プレゼンスの状況、存在感の問題でもあるわけです。

そういったプレゼンスがおろそかになっている状況は、僕には耐え難いところがあって。元々そういう想いがあるんですけど、最近、僕がそのことについて話すときは「物心がつく」という言い方をしているんです。「物心がついたら私はこういう人だった」というように、俳優という存在に、ある「物心」をつけていく。『シーサイドタウン』のシンジのように、物語にとりつかれる、役にとりつかれるわけですが、その前に、生きている俳優の身体が――まっさらの身体かというと、そうではないんですけど――、そこに存在している。そういう風に「物心」がつかないように存在するような、役を獲得するのとは違う俳優のあり方を、演劇は問われていると思うんです。

俳優は現前性の上演空間に存在しているけど、役という物心にもとりつかれているという「二重に引き裂かれた」身体の状況が、僕にとっては非常に魅力的なんですよね。つまり、「この人、誰?」っていう状況を作り出すと、観客も「この人、誰?」ってなるところから思考を始めていく。物語上の役に俳優が乗っかってしまうと、その物語に観客も同化していくんですけど、そうではなくて、「この人、誰?」となる状況を作って、「この人、さっきまでシンジという役だったようですが、そのうち誰なのかわからなくなってきました」と、役の再認に失敗するような経験が演劇の中で起こらないだろうか?と考えています。2つの作品は、同じ俳優で、同じ服装で、しかも俳優は普段着のまま。俳優が役になりきならない状況を作るのは難しいんですけどね。

―松田さんがおっしゃる「俳優が役になりきらない状況をつくる」とすると、俳優はどういう方向性で努力したらいいのか、すごく難しそうですね。稽古やリハーサルは、どのように進めていくのでしょうか?

松田 演出っていうのは、動きに負荷を与えていく面があり、基本的には台本があって、台本の動きを徹底して、俳優はどこに配置されるのかを毎回訓練していくわけですが、一方で、俳優には俳優なりのタイムラインがある。移動、発話、演技、身振りをどのように構成するかという、俳優それぞれのタイムラインも毎回忠実にやっていく稽古をしていますね。演技というのは、基本的には「舞台の上に立つ」ということ。黙って舞台に立つ、という状況に、少しずつ動きが加わって、身体の向きや、まなざし、身振りが入って、やがて、俳優のたたずまいが舞台上にあって、「どうやらシーサイドタウンという町にいるようだ」という状況は生まれてくるんじゃないか――。そういうことを考えながら、俳優たちとずっと稽古しています。

ロームシアター京都レパートリー作品 「シーサイドタウン」Photo:Toshiaki Nakatani

―「身振り」というものが近年の松田さんの作品づくりにおいて、比重が増してきているように感じています。俳優が舞台にどのように立つかを演出面から考えたときに、身振りの重要性が出てきたということでしょうか。

松田 劇場があって、劇場の中でどう見せるか?ということには、あまり興味がないんです。このコロナ禍で一番意識せざるを得なかったのは「現前性」で、生で上演することって、観客の目の前で何らかのことを現在進行系でやるのが、やっぱりおもしろい。俳優たちはいまここにいるのに、戯曲上に「喫茶店」と書かれていたらコーヒーがある「態(てい)」で演じていることこそが、おもしろかった。それを忠実に提示するためには、いろんなことが必要なくなっていくし、ショー的な要素や、めくらましのようなことがない方が良い。

僕自身は、舞台芸術よりも、演劇をやりたいと思っているんです。ショー的なものをどのように見せたら観客にワクワクしてもらえるか、という考えはなくなっていて、その場にいる俳優が、その場にいながら違う場所にいるっていうことを純粋に見せることで興奮してもらいたいな、という想いがあります。舞台にいる人が急に違う方向を見て、「こんにちは」って言い始めたら、誰もいないのにおかしいじゃないか、となりますよね。そのような演劇の持っている本来の力を表現として構成していく方法が、いまの僕たちのやり方なのかなと思うんです。
だから、戯曲に凝らなくなりました。『シーサイドタウン』は後半、凝りすぎてしまったけど、『文化センターの危機』では場所をいくつか点在させた方が、僕たちのやりたいことをはっきり出せる。もちろん話の中では、タイトルの通り、文化センターのいろんな問題があるんだけど、それよりも、人間関係とか、キャンプに行くとか、ご飯を食べるとか、たくさんの星が降ってくるとか、そういう「出来事のスケッチ」のようなものを作ってみたいなと思っていて。
舞台のスケッチを描くと、そこはロームシアター京都のノースホールなんだけど、ホールにいる俳優たちが違う空間を生きている。「この人、どこにいるんだろう?」「いま、誰なんだろう?」と観客もチューニングするし、俳優たちもチューニングするし、その調整の様を追いかけていかなきゃいけないけれど、その「物心」が失調していく、崩壊していく中で、別の身体が見えてくるようにしたい。そのためにはやっぱり、場を規定する戯曲があって、その役に乗っている人がいて、そのフレームを崩壊させることで、身体があらわになる、違う時間があらわれてくる。一般的な物語上の時間ではない「現前性」の時間というか、現実でもなく、ノースホールの時間でもない、「上演ならではの時間」を見せることは、奇妙な体験になるんじゃないかと思っています。

―ロームシアター京都の2020年度自主事業パンフレットの中に掲載された松田さんによる文章「シーサイドタウンに住むこと」を改めて読んでから、きょうお話を伺ったのですが、俳優たちは『シーサイドタウン』の住人であり、『文化センターの危機』の住人であり、ノースホールの住人であるという3つの重なりあいが、今年8月からの稽古とともに始まるのかなと楽しみになりました。そういえば、演出家の村川拓也さんがノースホールにいらっしゃったとき、ホール内には何もないのに「シーサイドタウンや〜」と一言おっしゃったのが印象的で。また俳優たちが出てきて、演じ出しそうな気がしたんですよね。

松田 やっぱり、『シーサイドタウン』の住人が住んでいた痕跡が残っているんですね。

―「劇場に住む」という点では、俳優たちは劇場に住んでいるというお話ですが、演出家としての松田さんもロームシアター京都にしばらく住んでおられます。住み心地はいかがですか?

松田 京都、良いですよね。長期滞在して作品を作るのに良い環境だな、と。盆地ですけど、環境が違うし、東京とはアクセスのされ方や価値観が違うので。東京ではいろんな消費のされ方をするけど、消費や商品化されないで、演劇作品自体に向き合える空間が京都にはしっかりとある。上演がいろんな地方でされるのも重要なことだと思います。
「制作芸術」ではできあがってすでに価値付けされている、できあいのものをもう一度観ることになるわけですが、「実践芸術」では価値付けがされていないものを上演する、その「現前性」が一番おもしろい。絵や映画を観るのとはまた違うし、解体していくこともおもしろいし、一概には言えないけど、特に、その場に集った人しか観ることができないもの、その場がつくりだすものがある。京都は、空間そのものがもっている力があると思うんですよね、歴史もあるし。

―劇場は、「上演する場」としてだけの場ではなくて、上演に至るまでずっと住み続けることで、ある種の「生活圏」としての側面があるのかもしれませんね。その点は、どうお考えですか?

松田 ロームシアター京都で上演すると、上演場所と同じ空間で稽古ができる。それに尽きます。そのクリエイションの仕組みが、そもそも良いんじゃないですかね。

―「レパートリーの想像」のプロジェクトは、ロームシアター京都以外の場所でも上演されることも目指しているんですが、松田さんの作品の場合は、ノースホールで何年も再演され続けていく在り方もあるかもしれないですね。ノースホールと紐付いた作品かも、という気がしてきました。上演まで、よろしくお願いします!

  • 松田正隆 インタビュー
    松田正隆 Masataka Matsuda

    劇作家・演出家・マレビトの会代表。
    1962年、長崎県生まれ。96年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞、97年『月の岬』で読売演劇大賞作品賞、99年『夏の砂の上』で読売文学賞を受賞。2003年「マレビトの会」を結成。主な作品にフェスティバル・トーキョー2018参加作品『福島を上演する』など。2012年より立教大学現代心理学部映像身体学科教授。ロームシアター京都「劇場の学校プロジェクト」では二年続けて講師を務めている。

  • 杉谷紗香 Sayaka Sugitani

    編集者/ライター。1981年大阪生まれ。京都芸術大学情報デザイン学科卒業後、株式会社ワークルームにて書籍や企業媒体の編集・執筆に10年間携わる。2015年に独立し、株式会社ピクニック社を設立。冊子やフリーペーパー、Webメディアの編集・企画制作・執筆・インタビューを多数手がける。2008年より自転車情報フリーペーパー『cycle』編集長。著書に『神戸自転車ホリデー』(2013年 光村推古書院刊)。
    cycleweb.jp

  • 小倉由佳子(ロームシアター京都)
    小倉由佳子(ロームシアター京都) Yukako Ogura

    ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)事業課長、プログラムディレクター。AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)でディレクターを務めた後、2016 年より現職。

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