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ロームシアター京都10周年・京都コンサートホール30周年記念事業  “いま”を考えるトークシリーズ Vol.27

「劇場ってどんな場所? ひとの集まる場所の未来」 小山田徹 × 藤原辰史 × 鷲田清一 クロストーク レポート 【その3】

文:高松夕佳(夕書房)
2026.6.1 UP

「いま」を考えるトークシリーズvol.27は、2026年1月10日、京都会館がロームシアター京都としてリニューアルオープンして10周年という記念の日に、メインホールで開催された。
テーマは「劇場ってどんな場所? ひとの集まる場所の未来」、登壇するのは京都市立芸術大学学長でアーティストの小山田徹氏と、京都大学人文科学研究所教授で歴史学者の藤原辰史氏、そして創立30周年を迎えた京都コンサートホール館長で哲学者の鷲田清一氏である。
400人を超える聴衆が詰めかけたクロストークの3回目をお届けする。
1回目はこちら
2回目はこちら

撮影:SHINSEKI Inc.

受託と当座

小山田 入院中、鷲田さんの『所有論』をずっと読んでいたのですが…。

藤原 なぜ体が悪いときにそんな重い本を!(笑)

小山田 ちょうど発売になったので(笑)。御本で論じられた「所有」をキーワードにいろんなことを考えると、思考がすごく進むのを感じました。挫折しながらも最後まで読み進めたとき、そこに大きな救いの言葉を見つけたんです。
「これは私のものだから私が自由にできる」という考え方から、「これは私のものだからみんなに分け与えることができる」という考え方に移行する、という文章が「手放す」という言葉とともに書かれていた。「手放す」をキーワードにすれば、もう一度公共を作り直すことができるのではないか、とズシンときました。ご本人の前で話すのは恥ずかしいのですが(笑)。
所有権とは、私たちを守ってくれるものですが、過剰に使うと自らを潰すことになる。私のものだから私の身体は自由にしていいという発想は、やっぱり何かがおかしい。

鷲田 その本の結論はね、所有を「受託」として考えるということなんです。当座預かっていると考えましょう、と。

藤原 「受託」、おもしろいですね。私も『生類の思想』で書きましたが、体液も受託しているんですよ。地球上に循環している水の一部を受託し、うまく回して排泄し、次にお返ししている。

鷲田 昔の糞便もそうですよね。

藤原 その通りです。自分が作った作品や本や音楽も、膨大な人々がそれまで手がけてきた表現や作品を受託してできているものですしね。

鷲田 織物のように織ってね。糸自体は自分たちが作ったものじゃないんだけどね。

藤原 そうそう。かつて鷲田さんは、「歴史研究者はよく『先行研究』という言葉を使うけれど、あれは良くない」とおっしゃっていましたよね。これまでの研究者たちが先を行っていたような言い方だ、と。それよりも「受託」のほうがやっぱりピンときますね。

小山田 「知識の所有は引用の織物」と書かれていましたね。

鷲田 自分の喋っている言葉はどれひとつ自分で発明したものではありませんからね。いただいたもの、教わったものばかりですから。
今日、あらゆる物に対して、僕らは「これは私のものだ」と所有権を主張していて、この世に「誰のものでもない」ものがないほどです。土地も、このところは国さえもそうですし、最も身近な身体にしてもみんな自分のものだと思っている。子どもは「うちの子」と自分の持ち物のように呼ぶし、俺の実力、うちの会社、祖国……とどんどん広がって、自分たちが生み出してもいない生物資源までが所有の対象になっている。
最近とくに困っているのが知的所有権の問題です。僕は「朝日新聞」で色々な人の言葉を紹介する「折々のことば」を連載していますが、途中からものすごくルールが厳しくなって、死後70年で著作権が切れた後も翻訳者の遺族に許可を取らないといけないとか、著者の遺族がはっきりしないので使えないと言われてしまう。
先ほど小山田さんが言ってくれたように、近代的な「所有」というのは「これは私のものであるから、これを私がどうしようと私の勝手である」という概念です。身体は自分のものだから、これを人にお金と交換で使ってもらうのは構わないという発想なわけです。私はその発想こそが、人間の尊厳のみならず、自己の捉え方をも歪めてきたと思うんです。
僕らは誰もが生まれたときは24時間要介護状態で、自分の身体であるという意識はなかったはずです。大人になってからだってそうですよ。1日の大半の時間は仕事があったり約束があったりで、自由にならない。自分が身体を「所有」しているという考え方が、いかに身体の可能性を歪んだ狭いものにしていることか。
それならどんな言葉を使えばいいのか。あの本の執筆中に思いついたのが、「当主」という言葉です。
かつて商家や藩では「当主」とか「当代」という言い方をしました。ここでの「当」は、「当座の」という意味です。「私は今この家の〇〇代目の当代だ」、一定期間とりあえずそこを運営するように委託されている、というわけです。そう考えると、私の自由にできるわけではないし、次の人にちゃんとバトンを手渡さなければならない。生活共同体にしろ組織にしろ、委託されている以上は息子や娘の代、さらには孫の代にまでバトンレースができるようにしておく責任があるのです。あの本では、所有権をそのようなものとして捉える提案をしたつもりです。

小山田 辞書で「所有」を引いてみると、「あるものを自己の支配下に置くこと」という恐ろしい定義が書いてあります。

気前よく生きる

撮影:堺俊輔

鷲田 さっき藤原さんが漢和辞典が好きとおっしゃいましたが、僕はラテン語のような横文字の語源辞典が好きでよく引くのですが、50歳くらいの頃、驚愕したのが「リベラル」という言葉の意味でした。
リバティ(自由)という名詞は、リベラルから来ていますよね。あるときフランス語の本を読んでいたら、リベラリテ(libéralité)という言葉が出てきたので、「リバティとリベラリティってどう違うんだろう」と思って、中学時代以来初めて英和辞典で「リベラル(liberal)」を調べたんです。リベラルといえば「自由の」とか「自由主義」という意味だと思っていたら、自由主義は4番目にしか出てこない。1番はなんと「気前がいい」という意味だったんです。2番目が「たっぷり」、3番目が「寛大」でした。

藤原 ええっ、全然意味が違いますね。

鷲田 さらに例文に、「He is liberal of his money.」と書いてあった。「彼は自分の金を自由にできる」という意味かと思ったら、違う。「彼は金離れがいい」という意味なんですよ。つまりお金の執心から解放されているという意味での「気前がいい」だった。
僕は感動して、すぐに法哲学の先生のところに行って、「先生、リベラルという単語の意味知っていますか」と聞いたら、「自由主義だろう」というので安心して。先生も驚愕していましたよ。
そのとき思ったの。最初に出たデモクラシーの話に戻るけど、僕らはお客さんでいるのではなく、この街にいざ何かが起きれば、自らが主(あるじ)として運営していかなければいけないんだ、と。福沢諭吉は「人民はなお社中の人のごとく、一人にて主客二様の職分を勤むるものなり」、普段はお役所に任せていいけれど、間違ったことをやっていると気づいたら、すぐに取り返して自分が主人にならなくてはならない、それが近代社会なのだ、と言いましたが、まさにそういうことなんです。
自治都市というのは同時に気前のよい都市、住民が気前よく寄付をする街でもある。かつての大阪はまさにそういう街でした。中央公会堂から大阪大学、大阪外国語大学までの土地はすべて住民が贈与してくれたものです。病院も図書館も、大川の桜並木も大阪城公園も、みんな市民の寄付なんです。気前がいいことと自治というのは、すごくつながっている。

小山田 実は今日の後半は、「〇〇は誰のもの?」というシリーズで話そうと思っていたのですが、もう話していましたね(笑)。歴史は誰のものなのか。学問は、表現は、劇場は、緑は、地面は……と、いろんなものを「誰のものか」という視点で考えると、見えてくるものがある。
資本主義というのは土地を所有することと不可分であり、それが経済を産んでいる。でも太古の昔には、大いなるものから一時お預かりしてお返しするというアニミズム的発想がどの部族にも循環する時代があった。日本にもその片鱗がかなり最近まで残っていたはずなのですが、今土地をお借りしているという感覚はまったくないでしょうね。あらゆるところが誰かの土地で、誰の所有物でもないような空き地は存在しない。信仰の対象になっている神社の森や山は、いったい誰のものなのか。

藤原 森や林って、究極の「気前のいいモデル」だと思うんですよ。植物は、どこかに運良く落ちたものが生えてくればいい、という気前の良さで、ものすごく大量のタネを飛ばしまくります。地下では根毛をどんどん切っては地中の微生物やミミズにプレゼントしまくっている。そういうモデルによって成り立っている森を「所有する」というのは、本来不可能なはずです。私たちは「気前のよさ」という視点から、開発や都市のあり方を考え直すべきですね。

木を植える、森を育てる

鷲田 で、「所有論」に基づくと、現学長としては、市立芸大のあの場所とこの岡崎公園をどうしたいわけですか?(笑)

小山田 くると思ってました、その質問(笑)。私たちの大学の目の前には今、フェンスで囲まれた土地が広がっています。いろんな経緯を経て、今は京都市の管理下で再開発の前段階にあります。国からの補助金返済など経済が深く絡んでいる中で、今話に出たような視点を社会の中でもう一度共有するための、「百年の森」「千年の森」構想を立てられないだろうか、と考えているところです。返済問題をクリアにしながら、これ以上建物はいらない、森をつくろう、と言えるのかどうかを、みんなの知恵を集めて考えたい、と思っています。
大学とは誰のものなのでしょうか。僕は未来の人たちのもの、未来に価値を託すための場所だと思っています。毎年のように若者が入ってきては、育っていく。まさに森を作るようなものなんです。森と人間の住環境が重なるような風景を出現させたい。
昔の京都は、そういうものをちゃんと含有していたような気がします。御所も寺社仏閣も、神域と呼ばれるところはみんな千年の森を備えているし、京都の山々はさまざまな人の手で、維持管理されてきた。人間が謙虚に自然に関与していくことで、できてきた森が京都にはたくさんある。私自身もそういうものに関与し、作っていくという試みをやってみたいのです。

藤原 私が長く住んだベルリンにも、ど真ん中に巨大な森林があります。森の中には広場や舞台もあって、さまざまなパフォーマンスが無料で行われている。これがないと、箱って意味がないと思うんですよね。小山田さんが今話されたプロジェクトは、ストリートや森のパフォーマンスにまで立ち戻って、パフォーマンスを誰かと共有する場所とはどうあるべきかを一から考えることでもある。その意味で非常にすばらしいと思います。

小山田 でもハードルはめちゃめちゃ高いんです。経済システムと向き合わなくてはいけないので、もしプロジェクトがスタートできたとしても、相当な知恵が必要になります。大学や市井の方たちの技術や思考を統合しながら進めていかなきゃいけないし、すぐに結果は出ません。今の私たちに30年間、荒地を見続けるというのはおそらく無理でしょう。だとしたら、いろんなレイヤーを作りながら森を育てていく必要がある。
百年、千年の森というのは、非常に長期にわたる構想であって、ここにおられる方がもういない時代の話です。そういうものを今作り始めるには、真の総合知が必要になる。上にお任せしていてそういう空間が降ってくる時代はすでに終わっていると思うので、寄付の文化含めて考えていかなくてはいけないと思っています。

(拍手)

鷲田 小山田さんのお話を聞きながら、最近読んですてきだと思ったイギリスの思想家ローマン・クルツナリックの言葉を思い出しました。「わたしたちはいかによき祖先(Good Ancestor)となれるか(良き祖先)」。

小山田 ああ。私たちはいつかは未来の人々の祖先になるわけですからね。

藤原 そういう考え方は、私たちが今最も疎かにしている産業である林業の中にはずっとあったんですよね。
京都も森の多いところですが、日本の国土の7割が森林であるにもかかわらず、その森林とかかわらなくなってきている。このことはGood Ancestorや百年規模の時間軸で物事を考えなくなっていることと連動しています。若い人が少しずつ林業に戻ってきてはいますが、まだ全然足りていない。鷲田さんの言葉を借りれば、私たちがもう少し「待つこと」をする必要がある。種を蒔いておけば、もしかしたら芽が出るかもしれない。出た芽が使えるようになるまで自分たちは生きていないけれど、次の世代の人たちのために育てるのだ、という考え方を広く共有するためにも、「木を植える」という行為は重要だと思います。

「マチガイ主義」で養う方向感覚

小山田 「千年の森構想」の発表以来、いろんな専門家の方にお会いするのですが、「そんな簡単なもんちゃうぞ」と愛のこもったお叱りをめちゃくちゃいただいてます。「何の木を植えるつもりなんだ。どんな土壌でどう育てるかを考えた上で言ってんのか」と。
でも、こういう議論が始まること自体が非常に重要なことだと思うんです。何を植えればいいのか一つとっても、専門家によって意見が違う。それらの声を集めながら実験をすべきではないのか。失敗はあるでしょう。税金を納めている市民の方たちには、その失敗込みで「気前よく」認めていただかなければ、こういうプロジェクトは成り立ちません。
昨今は、常に成功を求められる時代です。トライアンドエラーが当たり前だった表現の世界でさえ、それが許されなくなってきている気がします。

藤原 学問も表現も、失敗と付き合った先にしか見えないものがあるはずなのですが。
鶴見俊輔さんはずっと可謬(かびゅう)主義、「マチガイ主義」を唱えていらっしゃいました。人間は天然知能なので間違い得るけれど、間違いをオープンにしてみんなで意見を言い合い、より間違えない方向に持っていくことを彼は「マチガイ主義」と呼んだ。これは無惨な無ではありません。間違いがあったおかげで問題が発見されるかもしれないし、二度と繰り返さないよう看板を立てたかもしれない。
1人の天才が何かすごいものを発見して物事が進む時代は終わっているんですよね。リベラルが「気前のよさ」という意味であるというのはすごくすてきで、間違えることに対して気前よくあることもまた、リベラルなのかもしれないと思いました。

鷲田 鶴見さんはそれを「方向感覚」と言っていましたね。間違うことによって方向感覚が養われる。それが哲学や、とおっしゃっていた気がする。

小山田 道に迷うってものすごく楽しいじゃないですか。そういうことを繰り返しながら、方向感覚を獲得していく。初めて訪れる街でも、自分の方向感覚が働くような状態になればうろつきやすい。

藤原 Googleマップを使うほうが逆に迷ったりしますよね。

「一緒に考えてくれる人」

撮影:堺俊輔

鷲田 最後に一つだけ。「学問は誰のものか」について、僕は市民の皆さんにすごく励まされたことがあるんです。
僕は2011年の夏までが、大阪大学の総長の任期でした。最終年の卒業式直前に、東日本大震災と福島第一原発の事故が起きました。当時は東京から避難して来られる方もあるし、大阪も揺れたので原発被害を心配される市民が非常に多かった。
総合大学である大阪大学には、核物理学から放射能医学、原子力工学、災害学まで、原発に関連するあらゆる学問の研究者が集まっています。そこで僕は先生方に総長室に集まってもらい、大学として今どう動くべきかを尋ねました。するとみなさん自分の専門内のことはわかるのですが、全学でこの問題にどう対処すべきかの定見を持つ人はおらず、アドバイスをもらうことはできなかった。
そうは言っても、市民がこれだけ不安に思っているのです。大学として応える責任がある。そう感じた僕は、ホールで1日市民相談会を開くことにしました。医学部・工学部・人間科学部の先生方にズラっと並んでもらい、どんな質問にも責任持って答えてもらうことにした。
そうして質問を受け続けた1日の終わりに、ある科学哲学の先生が会場に対して「詳しいのは専門分野だけで、全体的なことをうまく答えられずに、今日はすみませんでした」と謝り、「市民にとってよい専門家とはどういう人のことでしょうか」と聞いたんです。すると、ある年配の男性が手を挙げて、こう言った。「一緒に考えてくれる人です」と。「私たちの代わりに責任をとってくれる人でも、専門的なことをわかりやすく教えてくれる人でもない。そんなのは自分で勉強すればいい。それよりも、その問題についてはどこの誰に相談すればいいか、どういう方法で調べられるかを一緒に考えてくれる人がいい専門家だ」とおっしゃったんです。

藤原 答えを与えてくれる人じゃないんですね。

鷲田 その発言に、どれだけ励まされたかわかりません。同時にそこに「学問とは何か」の一つの答えを見たような気がしました。

(拍手)

小山田 めっちゃええ話やな。

藤原 一緒に考える学問の担い手もそうですし、市民の中でテントを張ってパフォーマンスをすることもそうですが、いろんな人がいろんな場所で悩み失敗をしながら表現をする。そういう状態が劇場の周りにたくさんないと、劇場はただの箱になってしまう。いくら海外の素晴らしいパフォーマーを呼んですばらしい公演が行われたとしても、ただすばらしい見世物を見物しただけで終わってしまう。
そうならないように、いろんなことを試みている人たちを、リベラルに気前よく見守ったりかかわったりすること。箱の外にあるものこそ、私たちの公の根っこになっていることを今日は改めて気づかせてもらいました。

小山田 今日のチラシには「劇場とは何か」というテーマが掲げてあるのですが、やっぱりすべてのことについて答えはないというのが今日の結論ですよね。答えのなさに対して私たちが持つべき態度は、対話をし続けること、表現を交換し合うこと、何かを続けていくことなのだと思います。
今後も、いろんなテーマを深掘りする対話の場を作っていきたい。そういう形で劇場は開かれていくし、外に染み出していくのだと思います。表現や美学や主張が、生活と不可分な関係で存在することこそ、幸せな状態なのではないでしょうか。今日は長い間、ご清聴ありがとうございました。

撮影:SHINSEKI Inc.

<おわり>

  •  小山田 徹
    小山田 徹 Toru Koyamada

    アーティスト。1961年鹿児島に生まれる。京都市立芸術大学日本画科卒業。84年、大学在学中に友人たちとパフォーマンスグループ「ダムタイプ」を結成。ダムタイプの活動と平行して90年から、さまざまな共有空間の開発を始め、コミュニティセンター「アートスケープ」「ウィークエンドカフェ」などの企画をおこなうほか、コミュニティカフェである「Bazaar Cafe」の立ち上げに参加。京都市立芸術大学学長。

  • 藤原辰史
    藤原辰史 Tatsushi Fujihara

    1976年生まれ。専門は食の思想史、ドイツ現代史。2002年、京都大学人間・環境学研究科中途退学、同年、京都大学人文科学研究所助手、東京大学農学生命科学研究科講師、京都大学人文科学研究所准教授を経て、現在、同教授。研究テーマは、食と農の現代史。生態系の中に組み込まれた人間の在り方から、現代史を再構築する試みを続けている。主な著作に『ナチスのキッチン』(共和国、河合隼雄学芸賞)、『給食の歴史』(岩波新書、辻静雄食文化賞)、『トラクターの世界史』(中公新書)、『分解の哲学』(青土社、サントリー学芸賞)、『縁食論』(ミシマ社)、『農の原理の史的研究』(創元社)、『歴史の屑拾い』(講談社)、『植物考』(生きのびるブックス)、『食権力の現代史』(人文書院)、『生類の思想:体液をめぐって』(かたばみ書房)など多数。第9回井上靖記念文化賞受賞。

  • 鷲田清一
    鷲田清一 Kiyokazu Washida

    1949年京都生まれ。哲学者。京都コンサートホール館長。サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。京都大学大学院文学研究科(哲学)博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、同大学院文学研究科長・文学部長、大阪大学理事・副学長、大阪大学総長、大谷大学教授、京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。主な著書に、『モードの迷宮』『「聴く」ことの力』『〈弱さ〉のちから』『だれのための仕事』『顔の現象学』『「待つ」ということ』『つかふ』『所有論』など多数。サントリー学芸賞、桑原武夫学芸賞、読売文学賞受賞、和辻哲郎文化賞学術部門受賞。京都市文化功労者、京都府特別文化功労賞、仙台市特別市政功労者。


  • 高松夕佳
    高松夕佳 Yuka Takamatsu

    1975年生まれ。編集者、ライター。2017年、ひとり出版社・夕書房を設立。「これからの私たちのための本」をモットーに人文・芸術系の書籍を刊行する傍ら、フリーランスライターとしても活動している。2024年4月、本拠地を茨城県つくば市から京都市北区に移し、本のある場所「文庫喫茶」の運営も始めた。www.sekishobo.com

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