「いま」を考えるトークシリーズvol.27は、2026年1月10日、京都会館がロームシアター京都としてリニューアルオープンして10周年という記念の日に、メインホールで開催された。
テーマは「劇場ってどんな場所? ひとの集まる場所の未来」、登壇するのは京都市立芸術大学学長でアーティストの小山田徹氏と、京都大学人文科学研究所教授で歴史学者の藤原辰史氏、そして創立30周年を迎えた京都コンサートホール館長で哲学者の鷲田清一氏である。
400人を超える聴衆が詰めかけたクロストークの2回目をお届けする。
1回目はこちら。

撮影:堺俊輔
「集まる」ということ
小山田 入院中、いろんな本が読めてすごく幸せで(笑)、お2人の本もたっぷり読ませていただきました。昨年10月に出た藤原さんのご著書『生類の思想 体液をめぐって』に、「集まる」という項目がありました。「集」という漢字にはいろんな読みがある。送り仮名が「う」なら「集(つど)う」ですが、「る」だとどうでしょうか。これは盲点でした。「集(たか)る」なんですね。
藤原 僕は最近、漢字辞典を引くのが趣味なんです。近代以降、「集る」は人間の欲を表すかのような悪いイメージがついていますよね。でも古代日本では、「集る」というのは死体が腐敗するときに蛆虫や微生物がわらわらと湧いてきて、群がっているようなイメージだったんです。平安時代には、珍しく港に船がついたのを見つけて、子どもたちがわーっと走っていく様子が「集る」と表現されていたりする。すごくいい風景ですよね。
「集」という漢字の「木」の上についているつくりは「隹部(ふるとり)」といいます。鳥が3羽木の上に止まっているイメージです。
小山田 つまり純粋に「集まる」という意味なんですよね。
藤原 やっぱり鳥の下に木があるということが重要なんですよね。鳥が木に集まるというのは、木に集合しているというより、そこに木があるから集っている。下に木があって、たまたま集っているという状態こそが、今日のテーマ「集まる」のヒントになるのかなと思います。
小山田 僕も読んでいて「ああっ」となったんです。人間は、さまざまな菌に集られているんだ、と。
藤原 そうなんですよ。人間もたかられています。私たちの皮膚の上や大腸の中には、細胞より多い30〜40兆個もの微生物がいます。自分に群がる微生物を全部集めてこねて体重計に乗せると、なんと1キロもある。私たちは自分の遺伝子を超える遺伝情報に集られている。僕の体は本当に僕のものといえるのか。
鷲田 僕らは地球に集っているとも言えますよね。
藤原 そうなんですよ。私たち自身がもう、食糧にしろエネルギーにしろ地球に集らないと生きていけなくなっている……って、どういう話をしているんでしょうか(笑)。
哲学カフェは、デモクラシーのレッスン

撮影:堺俊輔
鷲田 ともあれ、「集まる」というのは先ほどの「焚き火」につながると思うんです。暴動のように無秩序にわーっと集まる場合もあれば、共通の意思を持った人たちが集会を開いたりデモ行進をするような集まりもある。そんな中、小山田さんはあえて最も小さい集まり、数人の集まりからデモクラシーをやり直そうとしている。
僕は今から30年ほど前、日本で初めての「哲学カフェ」を大阪大学で主宰したのですが、実は哲学カフェもデモクラシーのレッスンなんです。最初のミーティング、意見交換の場として設定した。
藤原 鷲田さんの哲学カフェってどんな空気なんですか。
鷲田 12、3人と少なく、年齢もバラバラです。読書会ではありません。「ちっちゃい焚き火」も、たまたま火があったから寄ってくる人というのがいるでしょう? 住所も職業も関係なく、「ホッとしますなあ」というぐらいで集まって、なんや知らん間に色んなことを話してしまっている。
哲学カフェも同様で、「この喫茶店あるいはお寺で何時からこういうことをします。どうぞいらしてください」とアナウンスして集まってきた人を受け入れますが、自分の所属・出身地・住所・出身学校をいわないというのがルールです。共通点を探して、安心できる土俵の上で議論するのではなく、土俵そのものを作る練習だからです。
お互いの立場も所属も思想も関係なく、それらを全部( )の中に入れたままで、ある特定のテーマに即して語り合う。そうして話すと、結論が出ないんです。第1回が終わったとき、みんな「なんのために議論したんだろう」と不思議に思われたようです。ある看護師さんは、「効率よく課題を洗い出して打つ手を決めるのがミーティングなのに、ここでは問題が増えるばかりで、ちょっと違うんじゃないですか。患者さんのことも治療技術の対象としてではなく、人として全人体に理解しない限りケアはできません」とおっしゃるので、「僕なんて自分のこともわからないのに、他人のことを全人的になんてわからないのですが、どうしたらええんですか」と茶々を入れたら、「はっ」とされて。
その1回目で今も忘れられないほどうれしかったのが、答えが出ずにみんなが不満げな顔をしていたときに、あるおじいさんが僕のところにいらして、「おもろかったですわ。見ず知らずの孫のような子といきなり『家族とは何か』について話したんはこれが初めてです。もうそれだけでよかったわ」と言ってくださったことです。
町内会の集まりでは、お互い横のつながりも利害の共通性もある中で、市に対する申し入れとか地域の安全対策といった具体的な問題について意見を言い合いますよね。哲学カフェは、それとは違います。国籍も性別も年齢も関係なく、みんなが1人のシチズンとして集まり、共通の問題について考える練習をする場なんです。「対話」が成り立たなくなっている昨今、デモクラシーのレッスンをもう一度最小単位からやり直したかった。哲学の話をするというよりは、哲学の型を使った対話の場です。途中入退室自由だし、発言しなくてもいい。みんなの前で発言するのが怖い人もいますからね。
小山田 「ちっちゃい焚き火」とほとんど一緒ですね。
円形マジックと弱目的性
鷲田 本当にそうなんです。哲学カフェも円形になってやります。輪になると、対面とはまったく違うのを実感します。
心理面接でも、フロイトなんかは後ろから聞くという怖いことをしますが、現場の方は90°が一番楽だとおっしゃいます。対面でのカウンセリングは、される方もする方もしんどいそうです。
藤原 哲学カフェも焚き火も、最初の抑圧、力が働かないようにしているのと、それは円形であることとすごく関係があると思うんです。私がそれを体験したのが、自らも臨時団員を務める「仕立て屋のサーカス」という舞台芸術集団です。
出演して初めて知ったのですが、サーカスの語源はサークル、円形なんだそうです。仕立て屋のサーカスを主宰する曽我大穂さんによると、この舞台で観客は、円形の真ん中にいる演じ手を見るだけでなく、演じ手の向こう側に映る誰かを見ている。円形なので斜め45°とか30°とかの視界に、観客の顔が必ず入ってくる。だから演者対観客という一対一の関係にならず、変な権力が入り込むこともない。
円形に座る哲学カフェにも同じ効果がある。何か大きな目的に向かって話し合って結論を得なくてもいいということは、みんなが正面衝突しない形で、それぞれの力が少しずつ発散されていく。円形というものの1つのマジックだと思いますね。
鷲田 だから終わってからのほうがむしろ大事で。結論は出ないけれど、帰宅後、「ああ、あの人あんなこと言っていたな」と、もう一度自分で反芻する感じがある。そこまで含めての哲学カフェなんです。
小山田 藤原さんと初めてトークしたとき、「弱目的性」という言葉で場を捉えてみるという話が出ましたね。主目的のある場所って結構疲れるんですよね。
藤原 今の社会は目的地獄で、あらゆることに「目当て」がある。小学校時代、必ず「めあて」と書いてから授業が始まりましたが、ああいう感じで、まず目標、目的が最初に設定され、それを達成したら無事に終わりました、と。これはつまらないです。哲学カフェも焚き火も、強い目的ではなく、色んな人の弱い言葉がちゃんと保たれる場になっている。
鷲田さんの『「待つ」ということ』を読んでも感じましたが、強い目的に最短距離で到達することを重視するあまり、私たちは待てなくなりました。あらゆることについて何かが湧いてくるのをじっと待つことができなくなり、その結果、多くのものを失った。今こそ強目的性の世界に抗い、弱目的性を唱えよう、と「いまトーク」で話したんですよね。
ひらかれた身体、ひらかれた場所

撮影:堺俊輔
小山田 目的を強く持ちすぎると、みんながつらくなってしまう。そうではない場とはどうすれば作れるのか。
『生類の思想』の最後、「集る/集られる」という関係は、人間中心主義では語れない世界であり、そこにおいて「自分とは何か」という問いは不安定だと書かれていたのが印象に残っています。
藤原 私たちは食べられる存在であることを忘れすぎていたのだと思います。私たちは本来、「食物」なんですよね。昨年来、熊による人身被害が続出していますが、身体から剥がれ落ちる皮膚だって微生物の餌になっているように、私たちは集られながら生きているのです。そのことを忘れ、自分たちだけが捕食者だと思いすぎている。
小山田 人間の身体が常に管によって自然に開かれているという指摘も新鮮でした。口と肛門があって、どこが外でどこが内側かわからない。同じように、劇場空間も、閉じたらあかんのだと思います。多様な知識や表現が自然に出入りする状態を保たなければいけない。動きのない空間や施設は死んでいるも同然です。
藤原 このところ急激に増えたと感じているのが、「関係者以外立入禁止」の看板です。私のいる京都大学でも急増しています。先日、院生が憤慨していましたよ。小さな女の子とお父さんが蝶々を追っていたら、蝶が京大の構内に入っていった。女の子が追いかけて入ろうとしたら、お父さんが「ダメダメ!」と制している。見るとそこには「関係者以外立入禁止」の看板が。「でも蝶に関心を持った時点で、その女の子には知の芽生えがある。関係者じゃないか」と。施設の運営上、「関係者以外立入禁止」が必要な場合があることはわかりますが、それが過剰になっているのではないか。劇場の「管」としての側面をもう少し考慮していい気がします。
小山田 京都市立芸大の移転に際して、鷲田さんと作った「テラス構想」も、今思えば「管」のようなものでしたね。地面から少し浮いたところにひらけた場所、テラスを作る。鎧を脱いで裸足になって上がった人たちが出会い、さまざまな交換が行われることを大学の理念に据えた。
鷲田 縁側のようなものです。平らなところに畳が1枚置いてあるとか、ゴザが敷いてあるだけで、子どもって興奮して乗ってくるんですよ。ある種の非日常空間がそこに出現する。
藤原 まさに舞台ですよね。
鷲田 その通りです。芸大のあたりは出入りを自由にして、壁も囲いもないけれど、わずかに地面から浮いているテラスを作り、そこで日常とは次元の違うことをやろう、と。
小山田 その意味でバリアフリーではないんです。あえて上がるという行為をみんなが経験することで出会えるものがある、という理念なので。そういう場所を閉じずに作るにはどうしたらいいか、というのが「テラス構想」でしたね。
先ほど話に出た、公園がデモクラティックな空間になり得るかという問いについても、地続きではダメだという気がするんです。地続きだと日常がそのままついてきてしまう。ビジネスマンはビジネスの靴を履いたまま入ってくる。
「デモに参加する」というのもそうした「一段上がる」装置の一つなのでしょう。デモはある種の主体性を持って参加するものですから。
<3回目に続く>