「いま」を考えるトークシリーズvol.27は、2026年1月10日、京都会館がロームシアター京都としてリニューアルオープンして10周年という記念の日に、メインホールで開催された。
テーマは「劇場ってどんな場所? ひとの集まる場所の未来」、登壇するのは京都市立芸術大学学長でアーティストの小山田徹氏と、京都大学人文科学研究所教授で歴史学者の藤原辰史氏、そして創立30周年を迎えた京都コンサートホール館長で哲学者の鷲田清一氏である。
400人を超える聴衆が詰めかけたクロストークは、小山田氏の司会進行で始まった。

撮影:SHINSEKI Inc.
小山田 皆さん、こんにちは。今日の鼎談、実は私が一番興奮しています。
鷲田清一さんは私が所属する京都市立芸術大学の元学長であり、元上司です。今は学長の先輩として、多岐にわたる助言をいただいています。
藤原さんとは5年ほど前の「いまトーク」(vol.17)でご一緒した際、もっと早くに出会いたかったと思うほど意気投合しました。そのとき話した焚き火の話をきっかけに、ロームシアター京都の中庭でのちっちゃい焚き火を囲むイベントが始まり、以来、毎年秋に行われています。鷲田さんと藤原さんもいろんなところでつながっていらっしゃるとのこと。
今日は「人の集まる場所」がテーマということで、まずは自己紹介を兼ね、京都会館やロームシアター京都をめぐる思い出からお話しいただきたいと思います。
鷲田 子どもの頃の私にとって、岡崎地区といえば京都市動物園のあるところでした。京都会館を初めて訪れたのは中学2年、ベンチャーズの来日公演を聞きにきたときです。入場するのに行列したのはあれが初めてでしたね。その2年後、バンドコンテスト出場のためになんと僕自身が同じステージに立ちます。結果的に受賞は叶わず、その悔しさもあってその後長らく足を運びませんでした。大人になってからです、よく来るようになったのは。
藤原 私は18歳で京都に来ました。これまでバレエやミュージカルから子どもの音楽教室の発表会までいろんな目的で訪れています。京都会館の第一印象は、屋根が大きくてかっこいい建物だな、ということ。調べてみると、研究のためよく通ってきた国会図書館で知られる前川國男の設計だと知って納得しました。
小山田 私は鹿児島の出身で、京都には大学で初めて来ました。入学式の会場がここ京都会館だったんです。式が終わると別館に向かう階段で記念撮影をし、それが終わると先輩たちに円山公園に拉致され、花見の席で浴びるように酒を飲み、翌朝気がつくと知らない先輩の部屋にいた、というのが最初の記憶です。その後、京都会館専属の大道具会社「京都舞台」のアルバイトとして、あらゆる舞台の裏を経験させてもらったのもよい思い出です。
私にとってここは、大学生としてはもちろん、生活費を稼ぐという意味でも始まりの地なんです。ここで身につけた技術を「ダムタイプ」でも大いに利用させていただきました。
鷲田 小山田さんが入学される2年前までは、京都市立芸大の音楽学部はこの隣にあったんですよ。あのお寺のような建物の中でクラシック音楽を勉強していたと思うと、不思議ですよね。
小山田 その市立芸大は、いまや京都駅の東口にあるんですからね。
ロームシアター京都の歴史について少し調べてみました。この地に岡崎公会堂ができたのは1917(大正6)年のこと。本館と東館が新築されたそうです。東館は今の京都市美術館別館です。1922(大正11)年にはこの公会堂で「水平社宣言」が、翌1923(大正12)年にはメーデーの演説会が行われている。つまり当初は、市民が自ら発信や政治活動のできる場所(公会堂)として設定されていたのです。
1929(昭和4)年には東館が火事で全焼しますが、3ヶ月後にコンクリート造りの建物に再建されています(別館)。1934(昭和9)年に京都を襲った室戸台風で本館が倒壊しますが、そのまま戦争に突入したこともあり、再建はされませんでした。残った東館も1945(昭和20)年にはGHQに接収され、別の用途に使われます。7年後、接収が解除され、再び公民館として使われるようになります。
1956(昭和31)年には現在の「みやこめっせ」のような展示館としての「京都国際文化観光会館」計画が持ち上がりますが、結果的にできたのは前川國男設計による京都会館(1960年)だった。
京都会館の附属施設だった別館は2000(平成12)年に美術館に譲渡され、2016(平成28)年、ネーミングライツの譲渡と改修工事を経て、現在のロームシアター京都になった。そのような歴史のある場所です。
最初から劇場だったと思っていたら、元は公会堂としてスタートしていたんですね。大正デモクラシーの機運が高まる中、市民の言論活動の場として必要になったからなのでしょうけれど、公会堂って、海外にもあるのでしょうか?
藤原 はい。公会堂という名前ではないにせよ、みんなが議論をする場としてのパブリックなスペースはカフェを含め色々なところにあります。公会堂で大事なのは非営利な活動をすること、そして自らの内なる意見を広く伝え、多くの人々に知ってもらうための場だということです。今では公会堂といえば音楽会場のイメージですが、音楽会が催されるようになったのは戦後のことで、それまでは人々が集まって意見を述べたり集会をしたりする場所でした。
ヨーロッパでもう一つ重要だったのは、広場です。広場や公会堂のような場所が京都や名古屋に1920年代という民主主義の時代に出てきたのは、やはり歴史的必然なのだろうと思います。
デモの起点と終点としての「公園」

撮影:堺俊輔
小山田 公会堂にも「公」の字が入っていますが、同様にここは「岡崎公園」と呼ばれています。鷲田さん、公園というのはどう定義すればいいのでしょうか。
鷲田 歴史家じゃないので詳しくはわかりませんが、京都で生まれ育った者として常々思うことがあります。京都というのは外からは、山に囲まれ、丘陵地が多く、お寺の中も緑が溢れていて、公園がたくさんある街に見えるんです。しかし実際には、日本の政令指定都市の中でも最低レベルといえるほど公園が少ない。京都で公園と聞いて思い浮かぶのは、地域の児童公園を除けば、円山公園と鴨川公園ぐらいではないでしょうか。
東京には代々木公園や上野公園、日比谷公園などいくつもあり、日比谷公園には公会堂もある。大阪なら扇町公園、天王寺公園、大阪城公園など。中之島公園には大阪市中央公会堂があります。これらの公園に共通するのが、デモの起点と終点になっているということ。市民が集まって声をあげ、街を練り歩く。かつては京都でも大学を起点にしたデモ行進はよく行われ、今出川通で集まって河原町を下り、八坂神社まで来ていましたが、円山公園には広いスペースがないために、八坂神社前で解散になっていた。
その意味で京都は、人々が市民として集まる場所としての公園に非常に乏しい印象があります。私は大学卒業以来、ながらく大阪で勤務していましたが、大阪には市民の集まる場所としての公園や公会堂を大切にする風土を感じていました。市役所が粗末な建物だった時代に、岩本栄之助という経済人の寄付によって立派な煉瓦造りの「大阪中央公会堂」が建てられている。役人が働く場所より、市民が集う場所のほうが上等な建物でなくてはいけないという心意気があったのです。
小山田 この岡崎公園もそうですが、京都の広めの公園はやはりかなり管理されている感じがありますね。そうせざるを得ない状況があるのもわかりますが、デモ会場として選ばれる場所ではない。
藤原 僕のデモデビューは扇町公園なんです。イラク戦争が勃発したとき、居ても立ってもいられず、ドキドキしながら参加しました。司会者が「意見を自由に言ってください」と促すと、若い青年が手を挙げて、「私はこの中で唯一だと思いますが、日本主義者で、右翼的な考えを持っています。天皇主義者だし愛国主義者です。でもその論理から私はこのイラク戦争に反対します」と話し始めた。いったいどうなるのかなと思って見ていたら、愛国主義の観点からイラク戦争が無意味であることを説明した。最後にものすごく温かい拍手が起こったんです。青空の下、さまざまな意見がポンポン湧いてくるというのが公の場所の価値なのだと、深く学びました。
小山田 そのような集会の経験が今、どんどん減っている。人々が特定の目的のもと集まるときには思想が統一されていないと空間が乱れる。だから邪魔者の入らない閉じた空間で、というのが定着しつつありますが、今のお話を聞くと、公共の広場には多様な意見が同時に存在できる余地がないと、やっぱり困るわけですね。
藤原 前川國男の設計である現在の京都会館ができた当時の京都市長、高山義三さんは、ここを一つの「生活道場にしよう」と言ったそうです。生活道場ってすてきな響きですよね。同じ意見の人が同じことをやる場所ではなく、錬成される場所。いろんな言葉が出てきて、自分の考えを練り鍛える、自分が誤っていないかを確認する場所。それこそが本来の公共の場所、公会堂なのでしょうね。
討議空間としての「劇場」
小山田 その後、いろいろな変遷を経て現在は劇場として使われています。劇場というのは歴史的にどんな存在だったのでしょうか。
藤原 劇場とはもともと、演者と観客が分かれている、ある意味で作られた場所です。さまざまな人々が自由に交わる公の場所とは一線が引かれている。しかし20世紀に入りデモクラシーの時代が始まると、演者と観客の境目が薄くなり、両者が混ざっていく可能性が追求され始めます。そんな中、劇場は、歴史の転換点においてたびたび重要な役割を果たすようになります。
ドイツでは、第一次大戦によって人々が飢餓に瀕した結果、それまで支配していた王家が民衆によって倒され、ドイツ革命が起こります。内戦状態の首都ベルリンでは落ち着いて議論ができないということで、郊外の文化都市であるワイマール市で憲法会議が開かれることになった。ワイマールはゲーテが住んだこともある由緒正しい街ですが、小さくて場所がない。そこで会議の場として選ばれたのが、劇場だったんです。
また、1989年はベルリンの壁崩壊に代表されるように、東欧の国々が新体制に移る歴史的大転換の年でした。チェコスロバキアの社会主義政権が倒れたビロード革命の拠点も、劇場でした。プラハの劇場から「市民フォーラム」が結成され、演じ手と聞き手で分けるのではなく、全員が主役であるという空気が醸成された--そのこともまた劇場を語るとき重要な点だと思います。
鷲田 日本では、日本帝国憲法が作られた明治前期、自由民権運動の中で、民権結社や学習結社などの「結社」が全国にたくさんできました。これはみんなで勉強する場所であると同時に、みんなが社会についての自らの考えを交代で演説する場所でもあった。東京・多摩の民間結社「五日市学芸講談会」が起草した私擬憲法草案「五日市憲法」(1881年)もそうした結社から生まれたものの一つです。
今では政治問題で人々が集まるというと、いきなり政党のようになってしまうのですが、当時は地域ごとにいろんな階層の人たちが集まって、今でいう読書会のような勉強会を日常的に行うグループのことを結社と呼んでいた。そのような集まりが全国にあり、その中から憲法草案ができてくるという、現代よりはるかにデモクラティックな時代があったのです。
小山田 日本の人口がまださほど多くない時期ですから、少人数で集まって作ろうとしていたという点でドイツのワイマール憲法とも重なりますね。
鷲田 ヨーロッパの劇場には、古代ギリシャから連綿と続く歴史があります。19世紀中頃までは、劇場とは見せ物小屋、権力者の所有物でした。民衆が仮設で河原でやる芝居小屋とか見せ物小屋がある一方、コロッセウムのように権力者が民衆に格闘技をやらせて見て楽しむものもあった。王侯貴族が広大な敷地の中に舞台を持つ時代を経て、19世紀中頃以降は上流階級、ブルジョアが楽しむ公共財になっていった。
現在の劇場やコンサートホールの原型が誕生した19世紀中頃は、近代演劇や小説の生まれた時代でもあります。演劇の題材といえば神話や英雄譚が中心でしたが、普通の市民が主人公の文芸が生まれる。それに伴って劇場もブルジョアに開放され、誰もが使える公共の場所になっていったのだと思います。
藤原 なるほど。最近私は、愚民政策、人間がいかに「愚民」になっていくのかについて調べているんです。まず出てくるのが、ギリシャ人の「パンとサーカス」です。人々がコロッセオに野獣と人間、あるいは人間同士の殺し合いを見にいく。この場合の劇場は、権力者たちが人々に政治的なものを忘れさせるため、考えない人々を作る装置だったとも考えることができます。19世紀半ばに近代演劇が誕生したというのは、愚民になるように誘導されてきた人たちに何かが芽生えた証拠ではないか。その「何か」が、現代まで劇場の背景としてあり続けているのではないかと思います。
分離と抑制からストリートへ

撮影:堺俊輔
小山田 昨年入院中、ワイマール憲法についての本を読み込んでいたんです。あの時代にあんなにリベラルでアグレッシブな憲法を作れたことに関心しきりでしたよ。あの憲法を今の日本に適用させようとした場合、何が障害になるかを考えると、世の中を重くしているものが見えてくるような気がします。
藤原 日本国憲法はワイマール憲法を一つの理想として作られているので当たり前に聞こえるかもしれませんが、1920年当時、男女に平等に選挙権があるというのは革命的だったし、表現や集会・結社の自由、国民が生きていく上で最低限必要なことは国家がギリギリまで面倒を見るという社会的生存権の保障が明記されたことも非常に新しかったと思います。
ただ一つ問題だったのは「大統領緊急令」の存在です。国家が危機的状況に陥ったときには、大統領が基本的人権の制限を発動できる。それがワイマール憲法の大きな穴でした。ともあれ、それ以外はすばらしい憲法だったわけで、劇場で生まれたというのはすごく象徴的ですね。
鷲田 劇場から討議空間が生まれるというのは、現代においては難しいことですよね。今日もステージと客席は明確に分かれていて、しかも客席が暗いのでステージ上からは観客の顔が見えない。皆さんは見られないまま、ステージ上の私たちを見ることができますが、私たちは見られるばかりで見ることができない。劇場空間とはそのように分離されている場所でもあるんですね。
人を分離する装置という意味では、テレビも同じです。視聴者である我々は出演者から決して見られることがない一方で、「あのコメンテーターすごい指輪してるな」とか「あのネクタイはどうだ」「お化粧はどうだ」と出演者のことをジロジロ見てしまう。
さらに怖いのが、この構造はパノプティコン(全展望監視刑務所)と同じだということです。東京刑務所に代表される、中央の監視塔から円周上に独房が連なるパノプティコン構造では、監視等の小さな穴から絶えずすべての独房を監視できるようになっている。哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した構造で、いつ見られているかわからないので実際には監視していなくても暴動が起こらず機能する点で画期的です。
小山田 恐怖で抑制するということですね。
鷲田 そう。だから戦後、高度消費社会になったとき、先端的な演劇人たちはメジャーな劇場やホールでの芸術表現を拒否し、テントを立てたり小劇場を作ったりしたわけです。回り回って今、ロームシアター京都のようなメジャーな劇場を、どうすれば分離空間としてではない形で使えるかを議論しているのですから、おもしろいですね。
小山田 このような作りの劇場のことを、プロセニアム型劇場(額縁舞台)といいます。両側に壁があり、ステージには袖があって幕がかかっており、客席と舞台が明確に分かれている。まさにテレビですよね。壇上の私たちはテレビフレームの中にいる人たち。これが劇場の基本構造になっています。
50-60年代には街全体が劇場だといい、80年代にはフリースペースを作るなど、外に出る人々が出てきましたが、巡り巡ってここに戻ってきた。今これが安定した状態なんですよ。
鷲田 音楽の施設では今も、あたかも自らが存在しないかのように聴衆から咳一つ起きないのが最高の音楽空間という場合と、観客が全員立ち上がって演者と一緒に騒ぐという場合との両極端がありますが。
小山田 今回のトークも参加者が100人程度だろうと思ったので、みんなでステージ上で車座になろうと思っていたのですが、気がついたら300人超えてしまったので……。
「劇場化」の危険性
藤原 お話を聞いていると、こういう箱空間がちゃんと機能するためには、やはりストリートが大事だということですよね。空の下での議論が大事だ、と。一方で、プロセニアム型劇場空間を融解するような、境界を溶かすような試みもある。
そこで思い出すのがやはりナチスです。ナチスは街頭政治を考案しました。日本に例えると国会議事堂や永田町よりも街頭に公共性を見出したんですね。かれらにとっては、街頭で敵の党を罵倒しあったり、集会を潰しに行ったりすることこそが、公共における政治表現になっていく。
政権を取ったナチスは、アルプス以北のゲルマン地域に、古代ゲルマン民族の野外劇場「ティングシュテッテ(Thingstätte)」があったという説を唱え始めます。彼らは野外劇場の存在を示す資料を見つけるや、そこにギリシャ・ローマにそっくりな劇場を作り、野外演劇を始めます(ティングシュピール、Thingspiel)。これはまさに演じ手と観客をわけることなく、一緒になっていくことを促す装置でした。当初はかれらも観客に政治の主体として入ってこいと促したのですが、次第に観客のほうからどんどん入り始めると収拾がつかなくなり、中止します。ハイデルベルクにあるナチスの作ったティング・シュピールの劇場に行ってきたのですが、ものすごく大きな野外劇場で驚きました。
もっと境界を融解するような劇場があるべきだと思う一方で、一歩間違えばナチ型の政治の劇場化に陥ってしまう危険性もある。政治の劇場化にもテレビ型のパノプティコンにも陥らないような劇場のあり方を探れたらいいのですが。
小山田 今のこの劇場の構造って、みんなが同じものを見ているという共同幻想を産むための装置なんですよね。実は今日、このトークの終了後、劇場の外で「ちっちゃい焚き火を囲んで語らう会」を行います。あくまで「ちっちゃい焚き火」というところがミソです。キャンプファイヤーのような大きな焚き火は幻想性が高いですよね。興奮するし、求心力が高い。劇場の構造も幻想性が高いゆえに、使い方を間違えるとファシズムになってしまう。
ファシズムというのは、あらゆるものが演出された劇場型政治です。そしてナチスの演出は、舞台美術家としては悔しいほど優れているんです。赤と黒、はためく映像、巨大空間の中で人々が整然と動く様子……どれも与える印象は強烈で、現代の映像論理のツボをちゃんと押さえている。ゲッペルスはすごい演出家だったと思います。演劇人というのはかように人を陶酔感に導こうとしてしまう人種なのです。
藤原 でも、観ているほうも陶酔したいですよ。
小山田 そうなんです。だからお互いが契約を結んだような関係になる。真っ暗な空間の中でみんなが耳を澄まし、次に何が起きるかを期待しながら待っているところに何かを提供する。これは使い方を間違えると、洗脳になってしまうからえらいことです。
そうした構造からどうやって逃げるべきなのか、その構造を持ちながらも違う形が作れるのかどうか。演劇人はずっと悩んできたし、これからも悩むのだと思います。表現に携わる者は、自分の作るものが人に与える影響を考え続けなければいけないのでしょうね。
国家にしろ商業的なものにしろ、大きな花火を打ち上げるようなイベントはたくさんありますが、それらの背後には必ずある方向性に誘導しようという目的があります。そうしたものとどう付き合っていくのか。
スマホも巧妙に誘導してきます。私たちはスマホを通して多様な世界を見ていると思っていますが、実際は「あなたへのおすすめ」の世界がどんどん押し寄せてきているだけですよね。
藤原 だから愚民政策は4Sが重要なんですよ。スピード、スクリーン、セックス、そしてスポーツ。今日ではスクリーンはスマホになりましたが。
小山田 そうか。もはや映画ではない、と。劇場を語るときには、ナチなどのファシズムが利用してきたメディアの1つでもあることを、心に置いておかなくてはいけないと思います。
<2回目に続く>