「芸能が生まれる場所」をテーマに、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一氏が案内人を務め、2021年度からロームシアター京都で毎年開催してきた【伝統芸能入門講座〜芸能の在る処〜】。2024 年度は劇場を飛び出して「芸能の舞台となった土地をめぐるバスツアー」をメインプログラムに、「学ぶ編(講義)」「旅する編(バスツアー)」「考える編(旅の振り返り)」の3回シリーズで開催された。今回は、2025年3月15日(土)に開催されたバスツアーのレポートをお届けする。ツアーのテーマは「源義経の都落ちルート」をたどりながら、京都・滋賀にゆかりある古典の舞台をめぐっていくもの。ゲストに朗読家 馬場精子氏を迎え、旅する先々で馬場氏の朗読によって物語世界により深く没入していく趣向も。バスツアーでありながら、体験型演劇を楽しむような充実の1日となった。
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バスツアーのはじまりはじまり。
まずは、源氏の屋敷があった「六条堀川」へ

この日の旅のしおり。充実の内容にワクワク感が高まる!
木ノ下歌舞伎ファン、古典ファンにとって垂涎の企画となった本ツアー。3月中旬の土曜日、倍率5倍をくぐり抜けて当選された30余名の参加者がぞくぞくと集合場所のロームシアター京都に集まってくる。あいにくの曇天、雨を含むような薄墨色の空ながら、これから悲運の英雄 源義経の都落ちルートを旅すると思えば、これぞ最高の舞台装置に思えてくるもの。バスに乗り込むと木ノ下裕一さんと担当スタッフ 枡谷さんお手製の「旅のしおり」が配られ、旅気分がぐんと高まってくる!

一行を乗せたバスは、まずは弁慶と牛若丸(義経の幼名)が出会ったとされる「五条大橋」を通り、最初の目的地である六条堀川へ。ここはかつて源氏が「六条堀川館」を構え、義家から頼朝、義経までが代々拠点にしていたと伝わる場所だ。最初にここを訪ねることで、「義経が幸せだった時代に思いをはせ、そこから逃亡せざるを得なかった義経の心情を感じてみよう」と木ノ下さん。
六条堀川館跡と伝わる西本願寺の北側で、バスはしばし停車したのだが、もちろんこの地に千年前の面影が残っているはずもない。そこで木ノ下さんから旅の極意として「“セルフVR”と名づけて、自分自身でその土地にまつわる物語を投影して楽しむススメ」が語られた。その場所にまつわる伝説や物語にふれた上でその土地に降り立つことで、「昔はこんな場所だったのか、こんな人がいたのか」と想像の世界でタイムトリップを楽しむというものだ。
そのためのトリガーとなるのが、この日のゲスト 馬場精子さんによる朗読だ。奈良や平安時代の復元音により『万葉集』や『源氏物語』の朗詠を行ってきた馬場さんは古典から現代作品まで幅広く朗読する朗読家。この日の行く先々で、その深くあたたかな声で、物語の主人公たちに寄り添い、彼らの生きざまを語り、私たちの目の前に物語世界を鮮やかに立ち上げてくれたのだった。

源氏の六条堀川館にあった井戸跡の石碑。
六条堀川で馬場さんが朗読したのは、『義経記』巻第六「忠信最期の事」。義経の家臣、佐藤忠信が都落ちした義経を探し回る最中の話だ。「源氏の屋敷に行けば主君に会えるかもしれない」と訪ねてみたものの、義経は既に都を離れているので、ここにはいない。それどころか屋敷は荒廃しており、その様子に忠信が愕然とするシーンが描かれる。
朗読を聞いてしんみりとした気持ちになって館跡に降り立てば、かろうじて残された小さな空き地に、石碑がぽつんと建つのみ……。それも館にあったとされる井戸「左女牛井(さめがい)」の跡地であることを伝えるものでしかない。義経が京都を逃れた後に屋敷は焼き払われたが、井戸だけは大切に残され、後世に至るまで名水と謳われたという。だがそれも、第二次世界大戦時の建物疎開(堀川通の拡張)で破却。最後まで戦に翻弄されたと思うと、切なさがいっそう募る。
義経の逃亡ルートを追いかけて。
平安時代の「逢坂の関」はどんな場所だった?
都落ちを迫られる義経の状況を想像したところで、いざ逃亡ルートをたどる行程へ。能『安宅』によれば、一行が都を離れたのは旧暦の2月10日。まさにこの旅と同じ季節だ。
木ノ下さんによれば、史実では義経一行がどこを通ったかは一切不明であるにもかかわらず、後世の人々はそのルートを想像力豊かにイメージし、歌舞伎『勧進帳』をはじめとするさまざまな物語を編み上げてきたという。そのルートとは京都から大津の「逢坂の関(おうさかのせき)」を越えて近江国へ入り、敦賀を抜けて奥州平泉を目指すというもの。今回はこの物語にならい、粟田口や松坂峠(京都市山科区)を通って、都と近江国の国境であった旧・逢坂の関を目指すことに。この関については、3月8日の「学ぶ編」で予習した通りで、起源を平安初期に遡る国内有数の交通の要地。多くの人が行き交ったゆえに、古来、さまざまな和歌や物語の舞台となってきた。

京阪電車 大谷駅の近くにある「逢坂山関趾碑」。
国道1号線を走り「逢坂の関」跡地へ近づくと、次第に左右に切り立った小山が迫ってくるのが分かる。木ノ下さんによれば、この関所はかつて急峻な逢坂山の山中に設けられたが、近世になって現在の地上まで山が掘り下げられたという。つまり、かつて関所があったのは私たちの頭上、はるか空の上。当時の正確な関の位置は、今や誰も分からない。そんな場所を旅人が行き来していたなんて、なんだか夢のような話に思えてくる。
周辺を散策する前に、まずは腹ごしらえ。関所跡の石碑から徒歩1分、風情ある旧東海道の小道に佇む老舗うなぎ店 かねよで名物「きんし丼」に舌鼓を打った私たち。……と丼のふたを開けてびっくり! ふっくらと焼き上げたうなぎの上にどーんと大きな玉子焼きが乗っていて、なんとも美味。聞けばこちらの創業は江戸末期で、東海道沿いの茶屋が前身のこと。店構えや店内の佇まいから、かつて街道を旅した人々の気分にもひたれるのもうれしい。

「かねよ」の名物 きんし丼。ごちそうさまでした。
食後に訪ねた「蝉丸神社」は、かねよから徒歩数分。創建は946年、主祭神の蝉丸大神は「学ぶ編」で学んだあの蝉丸だ。平安初期に生きたとされる盲目の琵琶の名手で、醍醐天皇のご落胤という説も。小倉百人一首に収録されている和歌「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」でもおなじみだが、まさか神として祀られているとは。
鎮守の杜に囲まれた社殿があるのは、参道の長い石段を登った先。「逢坂山の峠にあった関所を訪ねるような、擬似体験を楽しんでほしい」と木ノ下さん。


なお、界隈には蝉丸の名を冠した神社が計3社あることからも蝉丸への深い信仰がしのばれる。音曲芸道の祖神と仰がれた蝉丸を祀るこれらの神社は、かつては、諸芸能を生業とする人々を統括し、興行に必要な免許を発行していたという。役所ならば都がいいのに……と一瞬思うも、流浪の存在であった芸人たちは、社会の身分制度の枠組みの外を生きた存在。蝉丸のように、社会の周辺へ追いやられたのかもしれない。と同時に、山深いこの地にはなにやら不思議な力が籠っている気も。彼らは自然とこの地に吸い寄せられてきたのかも。
ここでは、2つの古典にふれる時間が用意されていた。ひとつは、「学ぶ編」ゲストの能楽師 田茂井廣道さんが事前に録音してくださった能『蝉丸』の道行。まさに、この神社ならではの演目だ(あらすじは「学ぶ編」レポートを参照)。もうひとつは、馬場精子さんのライブ朗読で、『源氏物語』 16帖「関屋」の冒頭のシーンを原文と田辺聖子の現代訳で。

「関屋」は、光源氏がかつて逢瀬を拒ばれた空蝉に、逢坂山で偶然再会するというエピソード。互いに牛車に乗っているため顔はあわせないが、互いの揺れ動く心情が鮮やかに描かれていて、「ここだけ短編小説として切り出せるくらい魅力的なシーンです」と木ノ下さん。朗読の最後は空蝉の落涙……。と朗読を終えたタイミングでついに雨が降りはじめた。なんという偶然、それとも蝉丸の神威?

大津市歴史博物館でミニ講座。
地勢や経済から見つめる「逢坂の関」とは?
続いて向かったのは「大津市歴史博物館」。東西交通の要地として発展した大津の歴史と文化を紹介する博物館で、東海道大津宿の名物みやげ「大津絵」のコレクションや研究でも知られる。ここでは学芸員 横谷賢一郎さんによって「難所にチャンスあり、難所に活路あり」と題された、逢坂の関に関するミニレクチャーが行われた。

古い絵図や写真も交え、歴史や地勢、経済学をまたいで行われたトークは、さらなる知的好奇心を刺激する内容。特に印象的だったのは、逢坂山は義経や蝉丸のように都を去ったり、追放された者たちの避難所(アジール)である一方、大きなビジネスチャンスが潜んでいた地であるという話。
横谷さんによれば、逢坂の関は山中の難所ではあるが、3つの主要街道が交わるため物流が集中していたそうだ。そのため、江戸時代の京都—大津間は、歩行者用と物資を運ぶ 牛車 用の2つの車線が設けられていたという(他に2車線の街道は、全国でも京都―伏見間のみ!)。なお、都から逢坂山を越えた先に広がる大津の町は、東海道最大の人口を誇った宿場町。「大津百町」の異名も持ち、「アメリカのある経済学者は、江戸時代後期における他国の統計結果と比較した上で、京都と大津の間の物流量と人々の往来は当時、世界一盛んであったとも言っています」と横谷さん。

『東海道名所図会1』(寛政9年/1797年)より逢坂山近景。左手に東海道の逢坂越えの道、手前は琵琶湖方面へ向う東海道。「逢坂は日本三大関所のひとつ。山城と近江を隔てる巨大ゲートのような地形にあったことがわかります」(横谷さん)。

上記絵図の部分拡大。「S字カーブの道が見えますが、現在の関跡付近も同じくS字カーブになっています。鉄道敷設時に山が掘り下げられましたが、道の骨格はそのまま残りました」(横谷さん)。

『伊勢参宮名所図会1』(寛政9年)より、江戸時代の逢坂山。図の手前、一段低くなっているのが牛車専用の道。
トークの最後に、「戦に敗れて遁走したとしても、社会の負け組になったとしても、逢坂の峠を越えれば、また活路が見出せた」と語った横谷さん。物語が生まれる土地には、やはり人々を惹きつける魅力やエネルギーがあるのだと実感させられたひとときだった。
大津港からしばしの船旅へ。
海路で旅した義経の心情を追体験

義経の足跡を追う旅はまだまだ続く。
『義経記』などによれば、逢坂の関を越えて近江国に入った義経は、大津の打出浜(うちではま)から舟で琵琶湖の北端・海津に向かったと語られる。今回はその船出の気分を味わってみようと、浜大津から「ミシガンクルーズ船」に乗船し、琵琶湖周遊クルーズに。雨が強まってきたものの、湖上から望む山の稜線が霞む様子が、義経一行の別れの涙でにじんでいるように見えて、これはこれで味わい深い。

乗船後は波に揺られながら、馬場さんの朗読をゆったり味わうひとときに。ここでは時計の針を一気に現代に進めて、近江を愛した二人の昭和の文筆家、司馬遼太郎と白洲正子の随筆を聴き比べる趣向。司馬遼太郎のテキストは『街道をゆく1』より「楽浪の志賀」の冒頭部分。『街道をゆく』は週刊朝日で1971年から25年にわたって続いた連載で、第1回が近江の湖西(滋賀県西部)であることからも、司馬の深い近江愛がしのばれる。一方、白洲正子のテキストは、滋賀の魅力を語った随筆『近江山河抄』の冒頭部分。彼女もまた、古代の日本文化を色濃く残す近江に強く惹かれた人物で、同著以外にも多くの紀行文を残している。
「二つの作品を聴き比べることで、それぞれが近江をどう感じているかが際立ちます」と木ノ下さん。「日本列島のなかで近江はどこにあるのか、都人にとって近江はどんな土地なのかと、大きな視点から近江にぐっとフォーカスしていくのが司馬さんのスタイル。一方の白洲さんは、いきなり柿本人麿の歌を引用し、“人の気持ち”から近江への思いをぶわっと一気に広げている。さらに「近江は日本の楽屋裏だ」と語り、近江と原始の日本文化の関わりに光を当てているのも興味深いと感じました」(木ノ下さん)。
なお、司馬がタイトルにした「楽浪(ささなみ)」は琵琶湖の西側沿岸の古名であり、湖西の地名「大津」「志賀」「比良」などにかかる枕詞でもある。木ノ下さんによれば、語源は諸説あり、琵琶湖のさざ波だという説も、山の名前だという説も。確かに湖上から滋賀の山々をみると、確かに波打つように360度湖を取り囲んでいるのが分かる。山と湖があっての近江なのだとあらためて実感したのだった。

最後は、木曽義仲の墓所へ。
因縁の重なる地で感じることとは。
ツアーの最後に訪ねたのは大津市膳所にある「義仲寺(ぎちゅうじ)」。琵琶湖にほど近い旧東海道沿いの住宅地にひっそりと佇み、その名の通り、源氏の武将・木曽義仲(源義仲)の墓所、そして意外なことに江戸時代の俳人 松尾芭蕉の墓がある寺院だ。


木曽義仲は源頼朝・義経の従兄弟にあたる武将だが、最後は都を追われ、琵琶湖畔の粟津原(あわずがはら *義仲寺からも近い)で討死。享年31歳、身内である範頼・義経の軍に討たれるという悲劇的な最期を迎えた。その様子は『平家物語』をはじめ、能『巴』『兼平』などで語られるが、そのわずか2年後に義経もまた都を追われ、義仲終焉の地に近い浜から逃亡していくことになるとは、なんと皮肉めいていることか。

義仲寺にある木曽義仲の墓
義仲寺の谷高伊佐夫さんによれば、同寺は義仲の骸を弔った小さな庵がはじまりだという。といっても敗者である義仲の首は落とされ六条河原にさらされたため、ここは胴塚だそうだ(首塚は現在京都・八坂の法観寺にある)。一時は荒廃したが、戦国の頃に近江国守が寺を再建。その後、松尾芭蕉が近江滞在の折には何度も当地に来訪し、宿舎にしたという。大阪で没した芭蕉だが、「骸は木曽塚に送るべし」という遺言に従い、同地で埋葬されたという。
馬場さんによって朗読されたのは『平家物語』より<木曽殿最期>、すなわち義仲討死の場面である。3月8日の「学ぶ編」では能『巴』を通じて、義仲の従者であった女武者・巴御前の視点で義仲の最期に迫ったが、今回は、よりフラットな視点で歴史を語る平家物語を味わおうという試みだ。この地で没した義仲、その近くから逃亡していく義経。さらに数世紀後に同じ土地に逗留し、湖を眺めながら門人と語らい過ごした松尾芭蕉——。馬場さんの声と物語、土地が持つ力が重なり合い、長い時空を旅しているような不思議な感覚にとらわれたのは筆者だけではないだろう。偶然か否か、芭蕉は「奥の細道」の旅で義経が没した奥州平泉を訪ねているし、芭蕉がいなければ、義仲の塚は叢に埋もれたままだったかもしれない。俳諧のメインストリームを離れて諸国を旅した芭蕉もまた、社会から見ればアウトサイダー。歴史の敗者である義仲や義経にシンパシーを感じていたのだろうか。

松尾芭蕉を祀る茅葺きのお堂「翁堂」。境内には墓と史料観(資料館)がある。

義仲公墓の近くに、ひっそりと小さな「巴塚(供養塚)」もある。

義経が船出した「打出浜」の地名は今も残る。京阪石場駅や琵琶湖ホールのあたり。
こうして、旅の全行程を終えた一行は、再びバスに乗って京都に戻る復路へ。来た道をただ戻るわけだが、物語の主人公たちの心情を追体験した後に眺める風景は、がらりと解像度が変わってくるから面白い。木ノ下さんが、「物語を逆再生する感覚」とたとえていたけれど、言い得て妙だなあと思った。
今なら、ただの国道として通ってきた逢坂の関が、かつては大変な難所であったことが分かるし、都と近江の国境と知れば、都を去らねばならなかった人たちの思いがひたひたと迫ってくる……。木ノ下さんによれば、『義経記』では荒れ果てた蝉丸の庵を義経がしみじみと眺め、自分と重ねるように感じ入るシーンもあるという。「義経が船出をした打出浜は、義仲が没した粟津ヶ原に近い。そこで義経は自分が殺した義仲について考えないことはなかったはず。能『安宅』の道行をあらためて聞き直すと、逃避行の旅路のなかに、さまざまな歴史や土地にまつわる因縁が織り込まれているように感じられてきます」(木ノ下さん)。
源義経に蝉丸、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉。物語の主人公の面影を訪ね、さまざまな土地と千年の時空を行き来した今回の旅。素晴らしい企画と馬場さんの美しい朗読をはじめ、充実のしおりに、完璧すぎる移動中のBGMのセットリスト(今回紹介できなかったのが残念!)。そして、めぐった先々での没入的な物語体験……。さすがは舞台芸術のプロたちが本気で演出したバスツアー。まるで、壮大なタイムトラベルに出かけたような充実の1日だった。いつの日かまた、別の土地で生まれた物語を、木ノ下さんや馬場さんとめぐってみたい。

ツアー終了後のお見送りで、木ノ下さんから参加者へお手製のしおりのプレゼントが! 裏面には直筆サインと参加者の名前を書いてくださっていた。