演目の定期的な上演から若手継承者の育成に至るまで、日本の伝統芸能にとって専門劇場が果たす役割は大きい。ロームシアター京都が主催し、木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一氏が案内人を務める「伝統芸能入門講座〜芸能の在る処〜」は、こうした芸能を育む場としての専門劇場に光を当てた講座シリーズである。
2023年度の3回目は、「浪曲」をテーマに12月27日(金)にロームシアター京都ノースホールで開催された。人気浪曲師の玉川奈々福氏、浪曲を中心とした民俗学・口承文芸の研究者の真鍋昌賢氏(北九州市立大学文学部教授)をゲストに迎え、20世紀前半に「大衆芸能の王者」として爆発的な人気を誇った浪曲の魅力、その興隆と現在について、劇場史の視点から迫った。
【レクチャー】浪曲の口演空間史 ―声がつくる演者と客の関係性―

真鍋昌賢氏
腹の底から響くようなソウルフルな唸り声。独特の節回しと啖呵(セリフ)、三味線とのスリリングなセッションで、人間のドラマを物語る「浪曲」の世界——。本講座の第1部は、浪曲研究者で『浪花節 流動する語り芸―演者と聴衆の近代』(2017年発行、第40回サントリー学芸賞)などの著書もある真鍋昌賢氏によるレクチャーで、浪曲が演じられてきた劇場史がひもとかれた。「浪曲師と観客の関係は、圧倒的な声の力によってつながっている」と真鍋氏。講座前半では関西における上演空間の変遷とそれが演者の芸や身体に与えた影響を掘り下げ、後半では昭和初期に焦点を当て、浪曲が全国的な人気を得るに至った二つの要因について、人気演者・寿々木米若の活動記録から迫った。
講義に先立ち、「浪曲」というジャンル名の変遷にふれた真鍋氏。実は、現在の正式名称であるこの呼び名は、大正末期以降に徐々に広まっていった新しい呼び名であるという。芸能が誕生した明治時代の関東では「浪花節」、関西では「浮かれ節」、九州では「祭文(さいもん)」と呼ばれており、名称を上書きしながら芸能を発展させてきた経緯がある。なお、現在も義理人情の代名詞として“浪花節”という言葉が使われている点も興味深く、往時の人々のこの芸能への愛着が伝わってくるようだ。(※なお、本レポートでは時代を問わず「浪曲」の名称を使用する)

図1:『明治新撰 西京繁昌記』1877年〔明治文化研究会編『明治文化全集』第8巻日本評論新社1955年改版所収より〕

図2: 昭和初期の定席の様子(京都・新京極の福真亭 )(井川清編『三代目吉田奈良丸脚本集』奈良丸興行社 1936年)
浪曲は明治初期に生まれた比較的新しい芸能だが、そのルーツとして挙げられることが多いのが、チョンガレ、チョボクレ、デロレン祭文などだ。真鍋氏によれば、浪曲は発展の過程のなかで、5つの口演空間(①定席以前—仮設小屋・屋外など、②定席、③劇場、④地方巡業、⑤複製メディア—ラジオ・レコード)を有してきた稀有な芸能であるという。
まずは黎明期の明治初期だが、当初は常設の劇場がなく、仮設小屋や屋外などで、ザルで対価を徴収する形式で行われた(①)。その様子は当時の絵図(図1)からも想像でき、こうした極めて原初的な環境で培われたのは、「道行く人の足を引き止めるような、野生的で迫力に満ちた声であったであっただろう」と真鍋氏。
明治中期になると、ホームグラウンドとしての「定席(常設の寄席)」が誕生(②)。明治末年には浄瑠璃や落語をはるかにしのぐ定席数を誇ったという。主な聴衆は労働者階級であり、年月を経て客層も変化していった。また、定席を手に入れた演者は口上技術を磨き上げ、観客とのコミュニケーションを深めていった。

図3:劇場で演じられるようになった浪曲。東京・国技館における2代目 吉田奈良丸公演より((尾上金城編『浪花節あれやこれや』三芳屋書店1914年)
明治末から大正時代になると、浪曲は大劇場に進出した(③)。「広い劇場空間では演者と観客の距離が生まれ、演出がスペクタクル化していった」と真鍋氏。演者は紋付袴を着用し、舞台上のしつらいも華やかになり、この時期に現在の上演スタイルが確立されたことも分かる。なお、当時大ブレイクした浪曲師のひとりが桃中軒雲右衛門(1873-1916)で、レコードに吹き込まれた声も紹介された。
都市部で確固たる人気を得た浪曲は、一方で、地方巡業を盛んにおこなった(④)。さらに国産レコード・ラジオの普及(⑤)という相乗効果に支えられ、全国的な人気をさらに強化していくこととなる。真鍋氏はこの時代の申し子として、美声で人気を博し、『佐渡情話』のレコードの大ヒットで知られる寿々木米若(1899-1979)の活動記録を紹介。数多くの新作をレコードで発表し、1940〜50年の米若の巡業記録の足取りを丁寧に追うことで、全国的な活況の様子が生き生きと見えてくるようであった。
講義のまとめとして、浪曲の全国的普及の背景について「圧倒的な声の力を持つ浪曲が、複数の口演空間を獲得したことで、演者と観客のつながりを多層的かつ強固にしていった」と言及した真鍋氏。黎明期には「通行人を振り向かせる力」を、定席では「親密さをアピールする力」を、劇場では「観客と間合いをとり、スペクタクル化する力」を得て、さらに地方巡業と複製メディアの力を得て「横への拡散力」を高めていった浪曲。現在はこれらすべてが芸能の魅力となっているが、歴史を遡るとそれぞれの由来は場所と深いつながりがあり、これらの積み重なりによって、浪曲独特の声や演出の深みが育まれたのだろうと述べた。
今後の浪曲史研究のアップデートに向けては、SPレコード*や紙資料のさらなるアーカイブ、関西浪曲史の研究の必要性を強調した真鍋氏。関西には「けれん(笑い)」の系譜などもあるが、まだまだ資料の掘り起こしが足りない分野も多く、さらなる研究が期待されると語った。
*真鍋氏は、浪曲レコードコレクター森川司氏の1万枚以上のSPレコードを国際日本文化研究センターに寄贈し「浪曲デジタルアーカイブ」の設立に寄与。その一部は一般公開されている。
【クロストーク】浪曲師は地方を目指す!? 地方で愛され成熟した浪曲の多様性

左から木ノ下裕一氏、玉川奈々福氏、真鍋昌賢氏
続いて、真鍋氏のレクチャーをもとに、真鍋氏と玉川奈々福氏、木ノ下裕一氏による鼎談が行われた。生粋の浪曲ファンでさまざまな浪曲公演のプロデュース、他ジャンルの芸能との交流も深い玉川氏の視点も交えながら、浪曲が全国津々浦々で愛された背景への深い洞察、観客との親密な関係性によって発展してきた経緯、今後のファン層拡大のための提言などが熱く語られた。ここでは三者のトークを抜粋・編集した上で紹介する。
浪曲の口演空間史を振り返って
木ノ下:真鍋先生の講義を通して、数ある語り芸のなかでも浪曲だけが「5つの上演空間」すべてを自在に使いこなし、発展してきたのだと実感しました。だからこそ、圧倒的な全国人気を獲得できたのだとも。一方で、これほど人気を博していた浪曲は、なぜ戦後に人気が低迷していったのでしょうか。
真鍋:よく聞かれるのですが、これという単純な答えを出すのがむずかしく……。さまざまな背景を慎重に検討していく必要があります。戦後の民間放送と浪曲の関係でいえば、1950〜60年代初頭は、浪曲史のなかでもかなり多くの新作が生まれた頃ですが、ここに到来したのがテレビ時代。一般家庭へのテレビの普及が進むと、浪曲の声とは異なる「新しい声」が人気を博していくようになりました。男性の声では、植木等の鼻に抜けるよう心地よい声、ムード歌謡のフランク永井の低音の魅力などがあり、こうした影響をどう見ていくかというところもあります。
玉川:講義のなかで古い舞台写真をたくさん拝見でき、大変参考になりました。舞台のしつらいにバリエーションがあるのも面白かったですし、あらためてみると、テーブル掛けや旗が飾ってあったり、浪曲の舞台ってほんと派手ですよね。見ている人を煽るといいますか(笑)。
木ノ下:明治初頭の上演風景を描いた絵(図1)にも驚かされましたね。錫杖を振り鳴らし、着物もはだけていて、うなりたてている。トランス状態にも見えて、何かやばいものを見ているような感じです。この絵からたった数十年で一気に洗練されて、高尚な劇場で演じられるようになる。その発展のスピードがすごいと思いました。
真鍋:この絵は、浪曲の原点を表している気がします。浪曲研究をはじめた頃、聞き取り調査で劇場や素人の方の練習会に通っていたのですが、ファンの感想を聞くのが本当に楽しくて。皆さん「こたえまへんな」とか、(昭和の名人 東家浦太郎さんに対して)「がつんときちゃったんだよ」「くらくらきちゃったんだよ、そっからもう追っかけよ」などとおっしゃるのです。それはあたかも声に実態があって、私たちの胸ぐらをグッとつかむような、目に見えない圧倒的な力で迫ってくるような感覚。聴くというより「浴びせられる」といった方が近いかもしれません。この絵を見ていると、まさに浪曲が「衝撃を味わいたい」という聴衆の欲望に応えるために声という武器を磨いていったのだと実感させられます。
玉川:浪曲の肝は、声の圧にありますね。私が先生から真っ先に教わったのは「一席のうち一回は、お客をなぎ倒せ(それくらい圧をかけろ)」ということでした。
真鍋:そこで聴衆の満足感が出てくるんですよね。昔の浪曲は上手下手だけでなく、一生懸命かどうかも評価軸になっていた。そこも面白いところだと思います。

真鍋昌賢氏
若手浪曲師に旅をさせよ
木ノ下:講義のなかで、はじめは大阪郊外にあった浪曲の寄席が、徐々に都市の中へ進出していった歴史をご紹介いただきましたが、都市部の人たちの反応はどうだったのでしょうか。また定席から劇場に移る過程で、観客の層に変化はあったのでしょうか。
真鍋:残念ながら、観客に関する一次資料は多くありません。限られた資料からわかることとしては、明治30年代の新聞記事は「労働者階級の娯楽」として浪曲をルポルタージュしていますが、明治末になると桃中軒雲右衛門は皇族の前で公演を行っており、この頃に客層の変化があったであろうということです。ジェンダーに関していえば、雲右衛門は日露戦争(明治37-38)に際して寄付興行や賛助公演を行ったのですが、これを婦人会のお歴々が鑑賞したことで、女性のファン層が増えるきっかけになりました。
玉川:労働者階級の演芸として愛された背景があるからか、浪曲は文化人には徹底的に嫌われましたね。久保田万太郎や夏目漱石、泉鏡花、永井荷風にも……。
真鍋:浪曲の力強い声が、理屈抜きで彼らのカンにさわったのでしょう。一方で興味深いのは、戦後の進歩的知識人たちは「なぜ浪曲が大衆人気を呼ぶのか?」について喧々諤々の議論をしているんです。浪曲が描くのは、人間の義理人情や情愛であり、貴賤の境なく共感できるもの。これを節と啖呵で編み上げ、過剰な声、時には命懸けの声でワッと浴びせかけていくですから、そのインパクトは凄かったはず。彼らも否定はしながらも、どこか無視できないところがあったのでしょう。
木ノ下:奈々福さんは多くの地方巡業をされていますが、都市部と地方の公演で雰囲気は違いますか?
玉川:地方公演の方が熱狂的に迎えられることが多く、お客さんの平均年齢も低い傾向にあるように思います。地域によって上演空間もさまざまなので、あらゆる場で生き抜く筋肉を鍛えられる場所でもあります。真鍋先生の講義にもありましたが、浪曲師は同じ演題でも、場によって演じ方を変えていきます。屋外で演じる時は「絶対に足を止めさせてやる」という覚悟でのぞみますし、初めて浪曲を聴くお客さんの時、見巧者を相手にするとき、自分の立場が2番手のとき、大トリのときなど、環境や条件によって魅せ方はがらりと変わる。若手演者もたくさんの経験を積めるので、たくさんの地方公演を体験させてあげたいんですよね。
真鍋:講義でご紹介した仙台巡業の写真が、私はとても好きで。立派な演台もなくてマイク1本しかないのに、舞台上までお客さんが押し寄せていて。これだけ熱狂的に迎えられるとはなんと幸せな風景だろうと。
木ノ下:うらやましいと思うのが、浪曲は都市部だけでなく地方でも愛されてきたこと。一般的に文化は都市に集中し、地域格差が出る傾向にあります。経済格差が文化格差を生むといってもよいのですが。現在は配信やサブスクもあるとはいえ、「売れれば売れるほど、都心を離れて地方へ行く」という浪曲の構図は夢があっていいなと思いました。
浪曲がもつたくましい雑食性
木ノ下:浪曲は民話がベースの話もあれば、人気の歌舞伎作品に取材したもの、新作もあり、「雑食性がすごい」という印象があります。なんでも自分の懐に入れて、どんどんアレンジしてきた。巡業を通していろんな土地でいろんな人に向けて演じてきたことで、自然とレパートリーを広げてきた芸能なのだなと感じています。
真鍋:それは浪曲師が培ってきた巧みな「編集能力」によるものでしょうね。作品をゼロからつくることもありますが、多くは他の物語から話をつまみ、節と啖呵で編み直してきたわけですから、「どの部分をつまむか」が大切になってくる。「流用のセンス」といってもいいでしょう。梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』(1965)という自著のなかで、北九州・八幡でのエピソードを語っています。そこで熱狂的に迎えられ、ロングランを繰り返すうちにネタがなくなり、古本屋でネタを探しては、それを浪曲にして上演する自転車操業をしていたとか。大正生まれの浪曲師が生前に、映画を元ネタに浪曲をつくったと語ってくれましたし、最盛期のニーズに応えるために、貪欲に物語を飲み込んでいく力が必要だったのでしょう。
玉川:巡業していると、お客さんから「こういう物語展開がいい」とか「悲しすぎるからハッピーエンドにして」というリクエストが出てきて、次の公演から内容を変えていくことがあります。元は浄瑠璃の心中ものであった「お染と久松」が、全然違う展開になり(『お染と久松 悲恋の曲』)、能の「藤戸」もあっと驚く結末に(『恩讐藤戸渡り』)。雑食性といえば聞こえがいいけれど、浪曲にはいい加減なところが多々あって、それもよさだと思うんです。
木ノ下:旅の効能といいますか。ひとつの場所だけで活動していると、よいと思う基準が画一化されてしまうけれど、一人の演者がいろんな土地を旅することで、いろんな価値基準を体得することができるのでしょう。
玉川:各土地でお客さんと共につくり上げてきた芸なので、地域によってかなり芸風が違いますよね。主に関東節、関西節に分けられますが、地方独特のものもかなりある。九州は熱と力で押していく芸風で、関東節の名人 広沢虎造先生が九州公演をしたら「もっとがんばれ」といわれたとか(笑)。それから、浦安や銚子などの漁村での公演が一番辛かったとおっしゃる先輩も多いですね。自分たちが気に入らない演者が出ると幕を締めちゃうそうで。「早く引っこめ」と下駄で拍手をすることも……。
真鍋:粋で都会ウケする芸、地方でウケる芸がありますね。「ケレン(笑い)」の演者の対談を読むと、五畿内で引っ張りだこでも、なかなか地方へ出られなかったとあります。大衆文化史として研究すると、東京や大阪などの都市圏が中心になりますが、浪曲においては地方も大切。そこに目を向けると、これまで見えていなかった芸能の歴史が鮮やかに動き出していく。私は、大衆文化史の最先端は郷土史にあると考えています。
木ノ下:お客さんが「こたえまへんなあ」とつぶやいた一言が真鍋先生の研究を後押ししたように、土地土地で観客の生の声を聞くのは大切ですね。研究する側の手ざわりが変わりますから。劇場の醍醐味は演者と客の交感ですが、客同士の交流もいいですよね。昔の歌舞伎の幕見席では、隣からいろんなお菓子が回ってきて、なんとものどかな世界でした。僕みたいな若者がまぎれていると特に珍しがられて。そこで聞いた話はどれも印象的で、「勘三郎(十八代目)が演じた××の役は最高だった!」などとおっしゃるのですが、実際には勘三郎さんは演じておらず、その方の記憶違いなんです。でも、それがその人にとっての「正史」であり、こうした記憶の混同も含めて芸能だという気がします。

木ノ下裕一氏
真鍋:記憶の歪みは大切だと私も思います。私も聞き取りをする際は、それを正すのではなく、なぜその演目がそれほど大事なものになっているかを聞いていきます。浪曲は、演者とお客さんの関係で豊かになっていく芸能であり、お客さんがどう感じたかが一番大事なんですよね。
芸能文化を横断してみる視点を
木ノ下:最近は、各芸能の間をお客さんが行き来する感じがありませんね。現代演劇は好きだけど古典は観ない、歌舞伎は好きだけど文楽は観ないという風に。好みがあるので仕方がないことですが、このままでは古典芸能が先細りになってしまう気がします。好みではないけれど、「なぜほかの人たちが、その芸能を大事にしているか」を理解したり、感じようとしながら観るのもいいんじゃないかと思うのです。
玉川:わかります!まさに、木ノ下さんが今おっしゃったことが、私が著書『語り芸パースペクティブ』(2021)でやってみたかったことなんです。説経祭文にごぜ唄、義太夫、講談、能、浪曲など、いろんな語り芸に出会っていただき「では、私が好きな芸能はなんだろう?」と考えてもらえるような本にしたかった。この延長として行った企画が、2023年秋に木ノ下さんと落語家 桂吉坊さんと開催した「吉坊・裕一・奈々福の終わらない古典のはなし」というトークイベントです。古典芸能はそれぞれに相互関係があって、発展の過程で互いに影響しあってきたはずなのに、現在は縦割りでファンがついてしまって、その関係性が見えなくなっている。それを横断して眺めてみようという試みでした。

玉川奈々福氏
真鍋:奈々福さんがおっしゃるように、芸能史で大事なのは「芸能間の交流史」だと思います。そこかしこに繋がりや影響があって、そこに気づくとがらりと見え方が変わってくる。私は大学でメディアのゼミを受け持っているのですが、学生にはいつも「異文化を面白がる構えが大事」と伝えています。近年はアイドルやアニメ、推し活に興味がある学生が多いので、授業では「どこに惹かれるの?」「どこが楽しいの?」とどんどん質問していくんです。すると意外な芸能とのつながりも見えてくる。授業ではアイドルのライブと歌舞伎の舞台の映像を続けて見せて、空間構造について語り合うこともあります。
木ノ下:浪曲は異文化を渡り歩き、越境しながら発展して来た芸能。ジャンルを横断してみるといろんなことが見えてくることでしょう。奈々福さんにお聞きしたいのですが、今後の浪曲界に期待することはありますか?
玉川:おかげさまで入門者が増え、浪曲作家や、自分で作品を作る演者も増えている状況ですが、まだまだ演者の数が少ないのが悩みです。演者の数を増やす工夫をしていきたいですね。一方で、最近の浪曲作家さんは期待しかありません。アニメや日常茶飯の出来事を浪曲にするなど、斬新な作品を多数作られるんです。だから、表現の幅をどんどん広げていって、新しい場を開拓するのが夢です。東京には定席の寄席「木馬亭」がありますが、作品のバリエーションが増えれば、それに対応する場を増やす必要がありますから!
木ノ下:最近はオーディブルやポッドキャストの影響もあり、「聴く文化」「聴くメディア」が再び力を持ちはじめていますよね。講談師 神田伯山さんの人気は、迫力ある聴くドラマを若者が再発見したことにはじまったように思います。浪曲の今後にも大いに期待したいです。
真鍋:若い世代の浪曲師には、YouTubeを含めていろんなメディアを活用しながら、新しい実験をどんどんしてほしい。米若さんもすべての新作が十八番になったわけではありません。人気が出たのは、ひるむことなくどんどん新作を発表していった結果です。
玉川:実際のライブにもぜひお越しいただきたいですね。浪曲師は体のなかで音を共鳴させて語ります。その共鳴がお客さんに伝わる声になるのですが、その場で聴くのとメディアを通して聴くのでは大きな違いがある。米若先生は顎が張っている骨格で、倍音も多く出た方ですから、生で聴くとずしりと体に響いたのでは。今日の講義で聴いた声は若い時代ですが、後年はさらに渋みが増し、倍音がビシビシきいている。生の声にはさぞかししびれたことでしょう。
木ノ下:奈々福さんは、今後やってみたいことはありますか?
玉川:『語り部パースペクティブ』の第2弾をやりたいですね。第1弾は伝統芸能が中心でしたので、語り芸の枠をさらに広げて、野球などスポーツの実況中継者、駅員さんの話を聞いてみたくて。というのも、陸上競技会でいう「第1位のコース!××君」のような、独特の抑揚や節が気になるんですよね。それからデパートの売り子さんも。彼らは「声で客を誘い込む人」であり、これもまた一流のプロの芸。日本の放浪芸を追いかけた小沢昭一さんも、いわゆる民俗芸能ではなく、商売につながる金をとる芸に興味があるとおっしゃっていた。芸能というジャンルにとらわれず、身近な声のプロの話を集めていきたいですね。
木ノ下:現代の放浪芸を収集していくとは興味深いですね。今年度の最終回でしたが、過去3年間の講座を包括するテーマと、広がりのある会になったと思います。奈々福さん、真鍋先生、ありがとうございました。

左から木ノ下裕一氏、玉川奈々福氏、真鍋昌賢氏