タイトルからうかがえるように、この作品は、「悲しみ」をテーマにしている。いいかえれば、この作品は「悲劇」を志向しているといってよい。だが、この作品は「悲劇」ではない。いわば、「悲劇」になりきることができないまま忘れられていく記憶と、「悲劇」になどなりえないことが分かっているにもかかわらず、忘れることができずに残留している記憶のわだかまりについての物語こそが、群像劇としての『sad』という作品の本質なのである。
劇場は、いわゆる対面型客席で、その真ん中に舞台空間がある。両サイドの客席にはさまれた長方形の演技エリアは、さらに三種類の空間に分割されており、中央の、ほぼ正方形の所作台のような空間の上手下手の一番外側には、各場面で出ていない役者たちが控えている人工芝が敷かれた緑色の空間が、そしてその人工芝空間と中央ステージの間に、スタンドマイクが上手下手に一本ずつ置かれている。この作品のドラマトゥルギー上、最も重要なのは、実は、スタンドマイクの小さなエリアである。登場人物たちは、2時間余りのこの作品のなかで、何度もスタンドマイクの前に立ち、かなり長いモノローグを延々と語ることになるからだ。
時には5分以上にもわたって、延々と繰り広げられるモノローグの数々。その背後で、時にはそれをかき消すくらいのボリュームで、BGMが鳴り響いている。物語の主要な舞台は、下関駅の近くにある花屋とスーパーマーケット。一見日常的な風景だが、リアリスティックに日常的な会話やしぐさが描写されるわけではない。もちろん、そのような場面が皆無ではないが、そうした場面は、中央の正方形のステージで、いわば劇中劇のように演じられる。そして、そうした「劇中劇のような日常風景」の多くは、一歩離れた舞台脇からスタンドマイクで語る、誰かひとりの登場人物の脳裏にある〈記憶〉の光景にすぎないのである。
たとえば、花屋のアルバイト店員・濱田順子(諏訪七海)が、「生まれる場所を選べないのと同じで、私が見るひとつひとつの景色はすべて私に押し付けられてるのだ」と語る場面がある。いいかれば、ここでの「日常風景」の多くは、リアリスティックな描写の対象ではなく、できればそこから逃れてしまいたい何か、として存在しているのだ。この作品の終盤にさしかかったところで、この作品のなかで印象的な場面のひとつが出てくる。それは濱田順子と花屋の店長・佐藤晃(西村貴史)の、それほど長くはない対話のシーンである。順子は、晃のことがどちらかといえば嫌いである(冒頭近くの順子のモノローグ)。その晃に対して、順子はある日「私のことを下の名前で呼んで」と突然口にする。人の好い晃が、その求めに応じると、順子はすかさず「下の名前で呼んでんじゃねえよ!!」と激しく晃を罵倒し、さんざん罵った後で「ごめんなさい」と謝る。人の好い晃は何度もその求めに応じ、晃の人の好さを分かっている順子は、何度も罵倒し、ごめんなさいと呟く。そして最後に、そうした一連のやり取りが一種のロールプレイであり、そこでの罵倒が、実は順子の死んだ父親に対する順子の思いであったことが明らかになるのである。
この場面の直後の、スタンドマイクによる順子のモノローグのなかで、順子はその行為を、「記憶の成仏」と表現している。そして父親をめぐるおぞましい記憶が、ロールプレイを通して解消されたことを、観客はその後の順子の言葉から理解することになる。この芝居のなかで、その他の人物たちによっても頻繁に繰り返されるモノローグたちは、まるで一種のマイク・パフォーマンスのようであり、誰にも届くことのない言葉をマイクを通して声に出して発語することで、それぞれの人物たちが、嫌悪に満ちた日常風景のなかで、ほんとうは何を感じ、どんな記憶を捏造していたのかが明らかになる。まさにそのプロセスが、『sad』という作品の最も重要な見せ場となっているのである。そうした長大なモノローグには、どこかギリシャ悲劇やラシーヌの悲劇のモノローグの長大さを、ふと想起させるものがある。
アリストテレスは、『詩学』のなかで、「歴史が実際に起こったことを記述するのに対し、悲劇は起こり得たことを記述する」という意味のことを語っている。起こりえなかったことを声に出すことを通じて、人々は悲劇からカタルシス(精神的浄化)を得ることができるのだ。たとえば『オイディプス王』(ソポクレス)が、隠された出生の秘密が「声に出して露見すること」によって、あるいは『フェードル』(ラシーヌ)が、隠された義理の息子に対する禁断の愛を「声に出して露わにすること」によって、「起こり得たかもしれないこと」は、舞台というフィクションの場を通じて、はじめて現実として受肉する。演劇の醍醐味のひとつは、まさにそこにあるということはできる。
にもかかわらず、『sad』の魅力は、そうまでして「悲劇」に接近しつつも、最終的には「悲劇」になりきれずに終わるところにあるように思える。上記のようなモノローグたちが、時に感情が高まり、叫びに近い響きにまで達することがあったとしても、この作品全体を通してみたとき、私たち観客は、そして、登場人物たち自身にとってさえも、そうした記憶の悲劇は、どこか冷静に、遠くから引きのカメラで眺められているような感触がある。たとえば、瀬戸伊織(木之瀬雅貴)という人物が、自分が高校時代に好きだった同級生の村上ゆき(平嶋恵璃香)のことを、記憶のなかで勝手に死んだことにしてしまっていたことに気付くモノローグがある。主情的に語れば語るほど、そこで語られている内容は、信憑性から遠ざかり、執拗に語りつづけようとする行為だけが、宙に浮いてくる。この作品の魅力は、そうした記憶の捏造や忘却を、ごく普通に起こり得ることとして、終始、実にさりげなく提示している点にこそあるといってよい。さまざまなありきたりの登場人物によって反復されるその身振りは、作品を「演劇」ではなく、むしろ「写真」に近づけていくような気さえする。よく知られているように、フランスの批評家ロラン・バルトは、「写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」写真に特有の作用のことを、プンクトゥム(=ラテン語で「点」「刺し傷」の意)と呼んだ。『sad』の登場人物たちは、半分思い出せなくなっている「写真」のような記憶の彼方からやってくる「刺し傷」と、マイクスタンドの前でたった一人で向き合い、声にし、悲劇の主人公としての英雄的な死とはついに無縁のまま、いつしかすべてを忘却していく存在なのだ。
そして、『sad』が優れた作品となりえていたのは、そうした構造を表現する形式を、演出家としての穴迫信一が、作劇の面においても、時空間の構成の面においても見出すことができていたからだ。ところで、形式性という点では、私たちは「マームとジプシー」の藤田貴大や「ままごと」の柴幸男を、すぐに思い浮かべるかもしれない。こうした現代演劇の作家たちは、良くも悪くも、演劇というジャンルの形式性をできるかぎり完全に組み換え、新たな形式を見出そうとする野心にあふれている。一方、穴迫信一の形式性には、そうした野心はあまり感じられない。あえていえば、穴迫の作品には、どこかかつての小劇場演劇――たとえば1990年代の鈴江俊郎や松田正隆――を想起させる懐かしさがある。だが、穴迫は、おそらく懐かしさに耽溺することでは一歩も前に進めないことくらいは自覚しているのだろう。その証拠に、時折台詞をかき消すくらいの音量で鳴るBGMは、私たちが演劇を見ているということをふと忘れさせ、ライブハウスでコンサートを見ているような気分にスライドさせるほどだ。そうやって、穴迫はいったん「演劇」を忘れたことにした上で、バラバラになった演劇の記憶の断片を、ひとつずつ拾い集めて再構成しているようにも見える。その意味で、『sad』という作品は、「演劇」というプンクトゥムに対する一種の「喪の仕事」であり、その点が、私たちに舞台を見ることへのかすかな信頼の炎を、そっと吹き起こしてくれるのである。その身振りの貴重さだけは、私たちはとりあえず自覚しなければならない。たとえ、その身振りが、演劇の未来にとっていかなる意味があるのかを置くとしても。