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ブルーエゴナク『sad』劇評

悲しみのかたち  

文:高橋宏幸(演劇批評家)
2019.2.22 UP

 古典的と言われようと、悲劇がカタストロフィによってもたらされた悲しみを浄化するならば、喜劇にはとりあえず定説はない。だが、強いていえば、アリストパネスはヘロポネソス戦争を背景とする政治体制を告発し、ソフィストたちの詭弁を嘲笑した。いわば、喜劇は風刺として現実を映す。しかし、悲劇や喜劇という二項で作品を分けること自体が、19世紀以降の演劇では難しい。イプセンやチェーホフによって「悲劇の死」が宣告された後で、悲劇に何ができるのか。

 たしかに、大いなる災いは悲劇をふたたび求める。ここ10年単位で見れば、ソーシャル・エンゲイジドという言葉がアートの世界にあらわれて、演劇の社会性という言葉も息を吹き返した。むろん、演劇に限らず芸術は社会を写し、つながり、介入するものだ。だが同時に、芸術なるものは耳あたりのよい社会性や公共性に包摂されるものとは異なる性質ももっている。なにものからも自由であろうとする運動性。現在もてはやされる悲劇は、いわば災厄のあとに建ち上がる共同体を補完するためのものではないか。

 しかし、北九州の劇団であるブルーエゴナクが上演した『sad』は、そのような共同体を再建するための悲劇とはまったく違う。北九州を拠点にした劇団が、京都の若手を支援するプログラムで上演した文脈以上のものがある。企画自体の説明は省くが、この作品、もしくは上演したブルーエゴナクという劇団の存在は、新しい可能性として、今後の日本の演劇の状況を切り開くかもしれない。

 現在描かれるべき悲劇の諸形態として、様々な人々にまとわりつくような、悲しみのかたちを浮かびあがらせている。断片の集積のような物語の一つ一つを取れば、たとえ突拍子もない行動があり、いびつな人間の関係性が含まれていたとしても、他愛ないことかもしれない。少なくとも、フィクションとして描くならば、思いつきそうな話だ。

 スーパーの男性店員とクレーマーの女性。認知症の祖母と墓参りをする孫。花屋における男性店員と女性店員の応対など。いくつかの対の関係が、ときに重なり合って複層する。しかし、絡まりはするものの、そこから先に劇的なエピソードが伴って物語を終焉へと導かない。そもそも、きれいに一筋の物語として集約しようと思っていないのだろう。人々の邂逅によって紡がれる小さな物語たちは、輻輳(ふくそう)して繋がりもすれば、とくに繋がらずにも終わる。物語自体も自転するようには動き出さない。むしろ、物語に回収されないように、かといって反解釈として、解釈を拒絶するのでもなく、ゆるやかに、そこにいる人々の内面と関係性が、どれだけ感情が吹き出すシーンがあろうと、いかに描くかということを目指しているかのようだ。

 たとえばかつて傷害事件があったカップル、祖母の万引きが露呈したこと、子供の頃の記憶と家族関係など、劇的にしようと思えばできる要素はいくらでもある。いや、リテラルに言えば、ドラマは起こってはいる。しかし、舞台全体を覆う色調はそこにおもねらない。たとえ事件をはさんで、なだらかにその人たちの関係性は変遷しても、大きな破綻はどこにもない。まるで日々が過ぎるように、どのような状況であれ毎日があるように、悲劇的な境目としての亀裂に疑義を呈するようなのだ。だから、突然激昂したり、感情がどのような形であれ暴発したりするシーンがあっても、それは劇的な緊迫感のなかにない。むしろ、異常な行動がときにあったとしても、ありきたりな日々のなかに溶け込むように、そもそも尺度としての正常や普通さといったものも、どこにもないことが示される。

 これだけを言葉で言えば、リアリティあふれる静かな演劇のような舞台と思われるかもしれない。しかし、戯曲だけでなく演出が、いわゆる精緻でリアルな演劇を描くこととは一線を画している。正方形の舞台の両側に客席は設えられて、俳優たちは逆の両側に佇み、片方に座ったり、双方を行き来したりする。そして中央の舞台上で演技をするのだが、会話で綴られるシーンを中心としても、ときにマイクを使ってナレーションのようなモノローグがあって、キャラクターの内面が吐露される。また、シーンによっては、ラップや歌、印象的な音楽が挿入されて、一見すると雑多な手法でミックスされる。

 上演後に戯曲も読んだが、戯曲だけを取れば、驚くほどに舞台の表象とイメージの差がある。上演において受けた印象との違いに驚かざるをえない。おそらく戯曲だけならば、よく言えば荒削り、悪く言えばリアリティが抜け落ちていたり、突拍子もない行動があったり、不自然さが際立つ。もちろん、突然キレるということもあるが、感情がなだらかに推移して行為へとつながっていない。サブテキストなるものに、まるで重きをおいていないのだ。

 ただし、上演という形態を事後のなかで考えると、むしろそれが重要となる。そこには、絡まりつつも、絡まらない人間模様が、いわばそれこそ何か出来事は起こったとしても、日々にその出来事も埋没されて、ただ続く悲しみがある。それは、あいまいで、おぼろげで、ゆるやかに、しかし悲しみをたたえている。いわば劇的な行為や普段の何気ない会話も含めて、同じ日々の中にある悲しみの異なった諸形態の一つだ。

 かつてならば、別役実の不条理演劇の初期作品などを、世界を別種のリアリティで見ようとした戯曲たちと言うことはできる。いわばリアリズムやナチュラリズム、日本の文脈では、その変種たる静かな演劇とも違い、人々の存在することを、不条理ゆえの無気味さや在ることの不安として、ヒューモアを交えて描こうとしたものだ。ただし、その悲しみは、余韻とでもいうべき、抒情や慕情のような慰めとなった。確かに、叙情へと逃げ込むことは、日本のとくに戦後という空間が作用した作品には、いまもってありがちなものである。それを悲劇における浄化と呼んでもいい。しかし、この作品は存在を問うことに比べれば圧倒的に茫洋として、あくまで日々そのものを悲しみの諸形態の一部として、現代の表象として映し出す。

 それは、うがった見方かもしれないが、地域を拠点にするような劇団だからこそ、このような薄くなりつつも根深く残る、もしくはそこに可能性を見出すような口当たりのいい共同体を無批判に肯定する言説に批評的なのだろうか。たしかに、地域であれ家族であれ、共同体は希薄となりつつもどのような形となっても残りづけるだろう。しかし、そこに閉塞感は同時に伴う。回帰するようにあらわれる口当たりのいい悲劇のあとの共同体論を見つめつつ、そしてそこにある、さまざまな悲しみの形を描く。それは演出の多様さの半面、実はローカリティに深く根ざしている。

 悲劇の死の後の緩慢な悲しみを映す演劇の創り手として、新しい才能は確かにいる。少なくとも、すでに時代に楔を打ち込むかのような優れた作品は作られている。

撮影:堀川高志

  • 高橋宏幸 Hiroyuki Takahashi

    1978年岐阜県生まれ。演劇批評家。桐朋学園芸術短期大学 演劇専攻 専任講師。早稲田大学、日本女子大学などで非常勤講師。世田谷パブリックシアター「舞台芸術のクリティック」、座・高円寺劇場創造アカデミー講師。俳優座カウンシルメンバー。『テアトロ』、『図書新聞』で舞台評を連載。評論に「アゴラからアゴーンへ 平田オリザの位置」、(『文藝別冊』)、「プレ・ アンダーグラウンド演劇と60年安保」(『批評研究』)「原爆演劇と原発演劇」(『述』)など。Asian Cultural Councilフェロー(2013年)、司馬遼太郎記念財団フェロー(第6回)。

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