1920年代前後から、在日コリアンを始めとする日本社会における「マイノリティたち」が多く暮らしてきた京都駅の南、鴨川の西にある東九条。長らく差別を受けてきたこの地を支える高齢者支援施設や教会、多文化共生を推進する行政や文化団体といったコミニュティに、akakilike (アカキライク)を主宰するコレオグラファーであり、ダンサーである倉田翠が訪れ、様々な人々と出会い、交流を重ねる過程から生まれた『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』を観ながら、幾度となく私の脳裏を過ぎり、舞台上に現れては消えて行く身体と言葉と映像に重ね合わされ、共振していたものが二つある。
一つ目は、愛娘も健康も金銭も名誉も失い、自死を決したポール・ゴーギャン(1848-1903)が、異境タヒチで言わば遺書として描いた『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?』(1897年)という、プログラムに記された倉田の「あなたはどこから来たのか、いったい何者か」という問いをパラフレーズしたタイトルを掲げる絵画である。赤子と家族を右に、果実をもぎ取る若者を右寄り中央前面に、人間を超える存在たる「超越者」を左後方に、「言葉の無力性を物語る」足元の白い鳥を見つめる死を目前にした老婆を左に配した、ゴーギャン自らが畢生の作と呼んだこの絵画は、ペルー人の祖父を持つフランス人画家にとっては異文化に属する他者の生の断片を折り込みながら、命限りあるものに普遍的な誕生と死滅という時間の始まりと終わりを描き出し、その間をたゆたう人間存在なるものを問い直す。
もう一つは、リトアニアに残した家族や親戚のほぼ全員をナチス・ドイツに殺されたホロコースト・サヴァイヴァーであるユダヤ系フランス人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-95)が、第二次世界大戦直後にパリで行った講演録『時間と他者』に刻まれた「時間とは、孤立した単独の主体に関わる事象ではなく、主体と他者の関係そのものである」という冒頭の一節である。同胞ユダヤ人のみならず、一千万人を超える民族的、性的、政治的、宗教的「異分子」たちが、組織的に虐殺されるという過酷な現実を生き延びたレヴィナスは、過去から現在、そして未来へと流れるクロノジカルな概念からではなく、自己主体と、言語や理解といった共通の基盤を欠いた絶対的他者という二項対立的な関係性から、人知を超えた現象としての時間を問い直す。
いずれの表現手法も、地理的、歴史的、文化的背景も、現代の東九条で作られた舞台作品とは大きく異なる。三者三様ながら、他者と出会う過程で不可避に起きる発見と葛藤、笑いと涙、希望と絶望、現実と虚構が入り混じる時間の断片を集めながら、多文化共生の(不)可能性、他者と自己を切り離しつつ結び付ける言語と記憶にまつわる物語を紡ぎ出そうとする欲望の深さには、通じるものがある。
『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』は、ステージに倉田と車椅子に座る高齢者の「山田さん」が舞台上に登場し、観客への挨拶と紹介がてら、会話をひとしきりしている最中、倉田がやや唐突にダンスを踊ることで始まり、終わる。恐らくは記憶障害を患っている「山田さん」は、二度目に登場した時に、つい一時間ほど前の出来事をまるで覚えておらず、再び「はじめまして」の挨拶が繰り返されることになる。同じ(ような)事が二回繰り返されながら、記憶と時間が必ずしも共有されず、過去と現在は必ずしも繋ってはいないと言う事実が、「今、ここ」という時間と場所に縛られつつ、瞬時に消え去っていく時間芸術のフィクションを通して、観客に突きつけられる。
「今」という瞬間しか存在しない世界を生きる他者との悲しくも愛しい交流は、「山田さん」の登場を伴う舞台の始まりと終わりの間に挿入されるスクーリンに投影される映像にも繰り返し立ち現れてくる。京都コリアン生活センター「エルファ」、東九条まちづくりサポートセンター「まめもやし」、在日大韓基督教会京都南部教会といった場所を訪れる倉田は、曖昧な記憶しか持たない他者の時間、あるいは時間という他者の内部に直感的に、触感的に入り込み、以下のような言葉を交わし、ダンスを踊ってみせる。
「あんた、初めて見た。」
「あ、そう。私は知っているで。ふふ、何回来たかな。… 私、カラオケも一緒にしたで。」
「いつ?」
「いつやったかな?」
他者と共有していたはずの言葉や記憶や経験がすでに消え去っていたとしても、舞台上の現実も虚構も瞬間ごとに消え去っていくにしても、倉田は自らが記す「深く刻まれた歴史が蓄積する身体の末端にある『今』」と言う断片を見出し、かき集めようとする。『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』において、唯一プロの演技者である倉田が踊るシーンは全体で五分にも満たないと言う点において、通常のダンス・パフォーマンスの定義を擦り抜ける。しかしながら、京都市役所の男性職員が娘二人と一緒にサッカーボールを追いかけたり、茶髪の「浦ちゃん」が泣きじゃくる倉田の相談に乗ったり、自転車を乗り回したりする場面を見ながら、観客の心も時に激しく、時に微かに揺れ動く。ダンスの語源である「わななくこと、震えること」に立ち返りながら、演者と観客、自己と他者の関係性を問い直しつつ共振させる、新たなるダンス・コラボレーションが立ち現れていた。
写真:前谷開