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akakilike『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』劇評

誠実さと残酷さ

文:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
2019.5.31 UP

「ダイバーシティ」「社会包摂」「多文化共生」といった言葉が現代社会の様々な位相で唱えられ、公共劇場空間にも浸透してきている。舞台芸術はその時、モダニズム芸術の自律性、演出家・振付家の権力性、「訓練された正しい身体」の特権性、美という絶対的価値基準といった軛から解放され、民主化されるのだろうか。あるいは、自らの存在意義を「福祉」「(擬似)ソーシャルワーカー」「地域活性化」として社会に認めてもらえることに安堵するのだろうか。だが同時に、リサーチやインタビューの対象者(の抱える「問題」)を演出家が搾取する権力構造への批判に対峙することを迫られる。彼らが「出演者」として舞台上に姿を現わすとなれば、なおさらだ。とりわけ、「出演者」が障害者や何らかのマイノリティ性をもった「当事者」である場合、「深刻さ」の提示と同時に「二重の搾取」であるというジレンマが発生してしまう。

ダンサー・振付・演出家の倉田翠とテクニカルスタッフで構成されるユニット、akakilikeの本作『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』は、こうした困難な問いやジレンマに対して、倉田自身が誠実に向き合う作品だった。本作は、京都市の「文化芸術で人が輝く社会づくりモデル事業」の委託を受け、2018年1月に上演した作品をベースとしている。倉田は、在日コリアンの多く住む東九条にある老人ホーム「故郷の家」に通い、高齢者や地域住民と対話を重ねてきた。上演時間の約60分は、様々な社会的立場、年齢、バックグラウンドの「出演者」たちと、倉田自身が「個人として出会い、相対し、会話する」こと、その一瞬一瞬の充溢に賭けられていた。その最も突出した局面が(それは演出家としての倉田の戦略が最大限に作動する局面でもある)、冒頭と終盤で2回繰り返される、「車イスに乗った認知症の山田さん」と会話するシーンだ。毎回「はじめまして」と声をかけ、「私のこと覚えてる?ダンスの姫さん(山田さんが付けたあだ名)やで。今から踊るから見てて」と言い、バレエの短いシークエンスを踊ってみせる倉田。山田さんとの相対は毎回出会い損ね、同時にその都度、新しく出会い直している。「山田さんが自宅から劇場まで来てくれたことが嬉しい」と涙ぐむ倉田。だがその涙も、山田さんは「次の再会」の時には忘れているかもしれない。「忘れてもいいと思ってる」と倉田は言う。その踊りは、自身のためでも、観客のためでもなく、今目の前にいるたったひとりと時間を共有するために踊られている。たった1分後には忘れられてしまっても。だからそれは反復ではない。この一瞬一瞬を目の前の誰かと分かち合うこと。そこにダンスの悦ばしい側面があること。もがき苦しみつつもダンスを手放そうとしない、ダンサー・倉田翠の本質がにじみ出るシーンだ。

本作にはまた、上記の「山田さん」以外にも、様々な人々が登場し、倉田と1対1で対話する。京都市文化芸術企画課の男性職員は、「文化芸術で共生社会を実現する」取り組みについて説明しつつ、自問自答的なモノローグを展開していく。「アーティスト/施設入所者/スタッフ/市職員」といった既存の枠組みのままではだめなのではないか。彼の語りは、「全ての人がアーティスト」というヨーゼフ・ボイスの社会彫刻的な考えに接近する。一方、「社会包摂」に携わる自分は、自身の家族や子育てを大切にしていると言えるだろうか。別の場面では、若い女性が登場し、字幕も通訳もないまま、韓国語でかなり長くしゃべり続ける。倉田や(韓国語を理解できない)観客にとって、その語りは、文字通り理解されない未消化な異物として響き続ける。在日4世だという彼女は、韓国に行ったとしても、仕事や生活基盤がないこと、在日のローカル言語とズレがあるため言語面でも困難があることを(日本語で)倉田に話す。

このように、作品制作のプロセスで出会い、関わった人々自身が出演し、自身の言葉で語る本作において、倉田は(姿の見えない)演出家として動かすのではなく、1人ひとりと「倉田翠」として向き合い、アドリブも含めたその場の反応に誠実に対応する。その断片的な連なりの間を縫って挿入されるのが、制作プロセスを記録した映像だ。「故郷の家」での高齢者たちとの会話、食事や季節の行事での様子、韓国語と日本語で礼拝が行なわれる教会、京都コリアン生活センター「エルファ」のデイサービスに通う高齢者たち。韓国人の女性との結婚を考えているという青年は、制度や周囲から受ける違和感について倉田に話す。興味深いのは、正面のスクリーンに映されるこれらの映像を、倉田と出演者たち自身が舞台端に座り、観客同様に「見ている」仕掛けだ。視線のフレームを入れ子状に形成すると同時に、パフォーマンスのただ中にのめり込むのではなく、「そこで行われていること」から距離を取って相対化する眼差しの客観性が担保される。ドキュメンタリー性の強い舞台作品への、自己反省的な眼差しとして演出の冴えが光る。

だがここで、出演者たちが自身の言葉で語り、剥き出しの存在として相対する一方で、倉田自身はどうなのかという問いが発生するだろう。対話相手を務めつつ、自らは安全地帯に身を引いたままでは、やはりそこに非対称性が発生するのではないかと。ここで発動するのが(ほぼ唯一の)演劇的な反転だ。それまで淡々と語っていた京都市職員の男性が、横たわった倉田に突然、罵声を浴びせ始める。「あんたもな、一回くらい就職したらどうや。ダンスなんて訳分からんことやってんと。父さんは、35年間働き続けてるんや」。(「演技」というフィクションの力を借りてだが)、「親からの圧力や無理解」という自身の直面する問題を俎上に乗せる倉田。黙って耐えているのか、無視を決め込んでいるのか、微動だにしない彼女の身体は、だが、スクリーンに幼少期の家族スナップが投影され始めると、もがき狂うようなダンスを展開し始める。七五三、誕生日、バレエの発表会…。「幸せなホームビデオ」の光景は、それが幸福であればあるほど、残酷さを増幅させる。

「家族」への自虐的な愛憎は、(現時点で倉田の代表作と言える)『家族写真』(2016年初演)から通底するテーマである。『家族写真』では、「一家団欒の象徴」であるテーブルを囲み、それぞれの時間をバラバラに生きる「家族」の不穏なドラマが展開する。生命保険について語り続ける父親、バレエを踊り続ける母親、同じく拙いながらも懸命にバレエを披露する少女、その兄役でありカメラで撮影し続ける写真家。倉田ともう一人の男性ダンサーは、「男女のカップル」を反復しつつも、兄妹の成長した姿なのか、父母の若い頃の残像なのか、判然としない。彼らはバラバラに解体されつつも、ある瞬間には全員が儀式のように静止する。「写真撮影」は、「家族」の紐帯を保証する儀式的装置だが、その撮影されたイメージを私たちは見ることができない。のたうちまわって激しく踊りながら、盛大に吐血する倉田。横たわる彼女に馬乗りになり、容赦なくシャッターを切り続ける写真家。「家族」はむしろ痛みであり、向けられる眼差しは文字通り「暴力」となって犯されるような傷を刻み付けるのではないか。そんな声にならない叫びが聞こえるような作品だった。

本作でもまた、(出演者自身の実際の)「家族」の光景と、「擬似家族」が舞台上で交錯する。背広を脱いだ京都市職員は、カジュアルな普段着になり、「パパー」と駆け寄る娘たちとサッカーに興じる。一方、スクリーンを見つめる男性職員と娘2人と並んで座る倉田の後ろ姿は、「子どもを挟んで座る夫婦」のように見え、擬似的な家族を形成する。(倉田自身の家族は登場しないが)フィクションの力を借りて、「家族」の残酷さと同時に「自分も一員である」穏やかな肯定感への憧憬をさらけ出した。そこに、出演者各人に対してだけでなく、つくり手として自分自身に向き合う誠実さがある。

 

写真:前谷開

写真:前谷開

 

  • 高嶋 慈 Megumu Takashima

    美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン「artscape」と「京都新聞」にて連載。近刊の共著に『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社、2023)。「プッチーニ『蝶々夫人』の批評的解体と、〈声〉の主体の回復 ─ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』」にて第27回シアターアーツ賞佳作受賞。論文に「アメリカ国立公文書館所蔵写真にみる、接収住宅と「占領」の眼差し」(『COMPOST』vol.03、2022)。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。

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