閉じる
作・出演:太陽劇団
(テアトル・デュ・ソレイユ)
演出:アリアーヌ・ムヌーシュキン
(2019年京都賞受賞)
創作アソシエイト:エレーヌ・シクスー
音楽:ジャン=ジャック・ルメートル

フランス語上演
(多言語の使用場面あり)
日本語字幕付き
(京都公演は2階客席にて英語字幕あり)
上演時間:3時間15分(予定・休憩含む)
閉じる

『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』
日本公演についてAbout Kanemu-Jima Japan Tour

京都賞受賞をはじめ
世界が賞賛を惜しまない
アリアーヌ・ムヌーシュキン率いる
伝説の劇団、22年ぶりの来日

世界的演出家アリアーヌ・ムヌーシュキン率いるフランスの
太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)の22年ぶりとなる来日公演がこの秋ついに実現します。
ムヌーシュキンが愛してやまない日本文化へのオマージュを込めた
新作『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』。
日本と思しき架空の島を舞台に、謀略と権力闘争、演劇祭を巡る虚々実々、
愛と哀しみの人間模様が、演劇的な表現様式を駆使して描かれます。
魂を揺さぶる演劇の力。
太陽劇団が放つ劇的ダイナミズムに、ご期待ください。

あらすじStory

時は現代。病床に伏す年配の女性コーネリアは、夢の中で日本と思しき架空の島「金夢島」にいる。そこでは国際演劇祭で町おこしを目指す市長派とカジノリゾート開発を目論む勢力が対立していた。夢うつつにあるコーネリアの幻想の島では、騒々しいマスコミや腹黒い弁護士、国籍も民族も様々な演劇グループらが入り乱れて、事態はあらぬ方向へと転がっていくのであった…。

© Michèle Laurent

太陽劇団についてAbout Théâtre du Soleil

太陽劇団は1964年にフランスで設立。パリ郊外のカルトゥーシュリ(旧弾薬庫)を活動拠点とし、“集団創作”というユニークなスタイルで知られている。ヨーロッパやアジアの伝統様式を取り入れる一方で、社会への問題意識も鋭く作品に反映し、古典から現代劇まで幅広いレパートリーを持つ。フランス革命を題材とした『1789』(1970年初演)で大成功を収め、以来世界が認める現代演劇のトップランナーとなった。2001年に『堤防の上の鼓手』(新国立劇場)で初来日、文楽のエッセンスを大胆に取り入れた舞台で話題を呼んだ。演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンを中心に総勢約110名、世界25カ国以上の多国籍、多民族の多様性に富んだメンバーで構成され、劇団アトリエから生み出される音楽、美術、衣裳などいずれも高い完成度を誇る。カルトゥーシュリには劇団自慢の食堂もあり、楽屋の様子も見られるような祝祭感に満ちた“演劇の理想郷”には、演劇ファンはもとより家族連れも多数訪れている。
https://www.theatre-du-soleil.fr/fr/

Ariane Mnouchkine

アリアーヌ・ムヌーシュキン
演出家/太陽劇団創立者・主宰

1939年パリ生まれ。映画プロデューサーを父に持ち、早くから文化的環境の中で育つ。59年ソルボンヌ大学在学中に演劇集団A.T.E.P.(パリ学生演劇協会)を結成、これが後に太陽劇団へと発展する。64年の太陽劇団旗揚げの前年に日本を旅し、この時の日本文化体験が、その後のムヌーシュキンの演劇人生に大きな影響を及ぼしたという。パリ郊外のカルトゥーシュリを拠点に独自の集団創作スタイルをとる太陽劇団だが、ムヌーシュキンの強力なリーダーシップのもと古典から現代劇まで多数の話題作を生み出してきた。映画『1789年』、『モリエール』など監督作品もあるが、舞台の映像化にも積極的である。一方で「エコール・ノマド」といったワークショップを世界各地で開き、若き演劇人の育成にも励んでいる。これらの長年にわたる功績が評価され、2019年に第35回京都賞思想・芸術部門を受賞した。

©inamorifoundation

アリアーヌ・ムヌーシュキンからの手紙Letter from Ariane Mnouchkine

親愛なる日本の皆さんへ

太陽劇団は初来日から22年を経て、ようやく日本に帰ってこられることになりました。

2年以上の忍耐と努力、希望と失望、コロナとマスク、悲しい別れもありました。
でも、ようやく夢が実現します!

私たちの新作『金夢島L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』を皆さんにお見せできることに、
俳優、スタッフたち劇団員全員が大きな感動に包まれています。

私たちの舞台は、夢の中の日本、時には悪夢のような、想像上の、時には風変わりな
熱烈に愛する日本です。

私は日本から私生活や芸術において多くの恩恵を受けました。
この公演はそんな日本に対する情熱的な愛と限りない感謝の気持ちを込めたものです。

太陽劇団が皆さんのもとへ。
日本へ。
10月に東京へ! 11月に京都へ!

とても待ち遠しいです。
大変光栄です、私たちは。
近いうちに!

アリアーヌ

「演劇とはまさに人間性の祭典そのものだ!」
(フセヴォロド・メイエルホリド)

2023年2月、パリにて
アリアーヌ・ムヌーシュキン

Chers amis au Japon,

Le Théâtre du Soleil revient enfin au Japon, 22 ans après son premier voyage.

Après plus de deux ans d’attente et d’efforts, d’espoirs et de déceptions, de Covid, de masques, de séparations et de deuils, enfin le rêve se réalise.

Je voudrais que vous sachiez l’immense émotion que nous ressentons, tous, comédiens,
techniciens, administrateurs, toute la troupe, à l’idée de vous présenter ce spectacle, notre Île d’Or, notre Kanemu-jima, qui met en scène un Japon rêvé, cauchemardé parfois, un Japon imaginé, parfois farfelu, toujours adoré pour ne pas dire vénéré.

Un spectacle qui, en vérité, est un geste d’amour passionné et d’infinie Gratitude envers ce pays
qui m’a tant appris et à qui je dois tant dans ma vie personnelle et dans mon art.

Le Théâtre du Soleil arrivera bien.
Au Japon.
En octobre à Tokyo, en novembre à Kyoto.

L’impatience est immense.
Si honorés nous sommes.
A bientôt !

Ariane

« Le Théâtre n’est rien d’autre qu’une fête de l’humanité »
Vsevolod Emilyevich Meyerhold

Ariane Mnouchkine, Paris, février 2023Ariane Mnouchkine

閉じる

Cartoucherieカルトゥーシュリ

パリ郊外ヴァンセンヌの森にある劇団本拠地カルトゥーシュリには自慢の食堂もあり、公演中はムヌーシュキンはじめ様々な国籍や民族の劇団員たちが観客をもてなします。さらに楽屋など舞台の裏も表も見せたりと、演じる側と観る側の間に“壁” は一切ありません。このような祝祭感に満ちた“演劇の理想郷”には、演劇ファンはもとより家族連れも多数訪れ、まさに民衆に開かれた演劇のあるべき姿を示しています。

  • ©Archives Théâtre du Soleil
  • 壁面に書かれたタイトル
    ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • エントランス内にある食堂
    ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • 陽光が降り注ぐ中庭
    ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • 劇場入口でムヌーシュキンがお出迎え
    ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • ©まつかわゆま (2022年5月撮影)
  • カルトゥーシュリの入口 
    ©まつかわゆま (2022年5月撮影)

カルトゥーシュリ
バーチャルツアー

太陽劇団クロニクル 
1964-2023Chronicle of Théâtre du Soleil

  • ①『1789』(1970) ©Gérard Taubman
  • ②『十二夜』(1982) ©Michèle Laurent
  • ③『アガメムノン』(1990)©Michèle Laurent
  • ④『堤防の上の鼓手』(2001) ©Michèle Laurent

 太陽劇団はフランスでアリアーヌ・ムヌーシュキンらによって1964年に旗揚げ。パリ郊外のカルトゥーシュリ(旧弾薬庫)を活動拠点とし、独自の集団創作スタイルで知られています。演出家ムヌーシュキンの強力なリーダーシップのもと古典から現代劇まで多彩なレパートリーを生み出し、劇団の工房で創られるオリジナルの音楽、美術、仮面、衣裳なども高い完成度を誇っています。ヨーロッパやアジアの伝統様式を取り入れる一方で、現代社会の諸相を綿密にリサーチした作品づくりなど、常にラジカルで挑戦的な演劇表現を貫いてきました。フランス革命を題材とした『1789』(1970年初演①)で大成功を収めて以来、シェイクスピア劇②の連続上演やギリシア悲劇③にも挑み、世界が認める現代演劇のトップランナーの地位を不動のものとしました。

 映画プロデューサーを父に持つムヌーシュキンは『1789年』、『モリエール』などで映画監督としても活躍し、『モリエール』はカンヌ映画祭や岩波ホールでも上映されました。社会問題にも意識的で、難民問題を扱った『最後のキャラバンサライ』(2003年初演)は、戦争や紛争で傷ついた人々への誠実な思いに溢れた大作です。また一方でワークショップ「エコール・ノマド」で若き演劇人の育成にも励んでいます。これらの長年にわたる功績が評価され、2019年に第35回京都賞思想・芸術部門を受賞しました。

 日本へは2001年に『堤防の上の鼓手』(新国立劇場④)で初来日、文楽の人形遣いを大胆に取り入れた演出が話題を呼びました。若き日に日本を旅したムヌーシュキンは、日本の文化芸能に大きな影響を受け、能、歌舞伎、文楽、大衆演劇などのエッセンスを自らの演劇にも取り入れてきました。そうした日本文化への憧憬が隅々まで込められた『金夢島』は、まさにムヌーシュキンと太陽劇団の集大成ともいえます。

コメント&劇評(パリ公演)Commentary & Reviews

  • 太陽劇団とその代表、アリアーヌ・ムヌーシュキンによる果てしないクリエーション作業の末に生み出された『金夢島』に乗り込みましょう。そこで我々はまばゆいばかりの劇場の夢を発見するのです。架空の日本を舞台にしたこの劇は、現実にある無数の記号と響きに満ちており、演劇の力と美しさを大いに称えています。これまで以上に輝きを増した劇団は、私たちの生きる今を活気づけてくれるでしょう。
    - La Terrasse 2021年11月13日 by Agnès Santi
  • 『金夢島』にあるのは演劇の力とその力を信じる心だ。海や砂の嵐、夜に咲く桜、遠くに見える火山…といった美しいイメージで表現され、幻想的に風景が変化し、舞台と袖を行き来する役者の動きはバレエのようで、役者たちの一体感が感じられる。
    - Le Monde 2021年11月17日 by Brigitte Salino
  • 『金夢島』には、素晴らしくて驚きに満ちたシーンがたくさん登場する。この旅のような作品が私たちを誘うのは、日本の佐渡島ではない。想像上の日本と架空の島だ。(中略)ムヌーシュキンが世界を作るやり方には、なにか果てしなく楽しいものがある。まるで子どもがするような、真剣で、しかし遊び心に溢れたやり方だ。
    - Libération 2021年11月22日 by Anne Diatkine

コメント&劇評(パリ公演)Commentary & play reviews

  • 太陽劇団とその代表、アリアーヌ・ムヌーシュキンによる果てしないクリエーション作業の末に生み出された『金夢島』に乗り込みましょう。そこで我々はまばゆいばかりの劇場の夢を発見するのです。日本を舞台にしたこの劇は、現実にある無数の記号と響きに満ちており、演劇の力と美しさを大いに称えています。これまで以上に輝きを増した劇団は、わたしたちの生きる今を活気づけてくれるでしょう。

    - La Terasse 2021年11月13日 Agnes Santi

  • 『金夢島』にあるのは演劇の力とその力を信じる心だ。海や砂の嵐、夜に咲く桜、遠くに見える火山…といった美しいイメージで表現され、幻想的に風景が変化し、舞台と袖を行き来する役者の動きはバレエのようで、役者たちの一体感が感じられる。

    - Le Monde 2021年11月17日 by Brigitte Salino

  • 『金夢島』には、素晴らしくて驚きに満ちたシーンがたくさん登場する。この旅のような作品が私たちを誘うのは、日本の佐渡島ではない。想像上の日本と架空の島だ。(中略)ムヌーシュキンが世界を作るやり方には、なにか果てしなく楽しいものがある。まるで子どもがするような、真剣で、しかし遊び心に溢れたやり方だ。

    - Libération 2021年11月22日 by Anne Diatkine

  • 日本とその伝統に敬意を表し、多国籍の約50名のアーティストが驚くべきポテンシャルを発揮して舞台を彩る、家族や友人と一緒にここに立ち会って、ユートピアを体現した演劇空間で起こることを味わってほしい。
    (中略)物語は四方八方に分散する。しかし、役者のエネルギー、生き生きとした表情、映像の美しさが観客を魅了し、それぞれのシーンから醸し出される人間性、そのユーモアが余韻に残るのだ。

    - Artistik Rezo 2021年11月22日 by Hélène Kuttner

  • アリアーヌ・ムヌーシュキンと太陽劇団は、泥を金に変える、舞台の錬金術師だ。現実に言及したり、舞台の前面に押し出すことを自らに禁じて、その代わりに、現実を魅惑的な絵に変えてみせる。(中略)『金夢島』は、洗練と冗談という両輪からなる。また、この作品は、夢と現実、見えるものと見えないもの、ポリティック(政治)とポエティック(詩的なもの)、確信と疑い、明白さと深さとを同時に描いてみせる。

    - MEDIAPART.fr. 2021年11月22日 by Antoine Perraud

閉じる

コラム&ムービーColumns & movies

  • 悪夢のなかで希望を生きる―太陽劇団『金夢島』
    文:太田耕人(演劇批評家、京都教育大学学長)
    2024.4.1
    悪夢のなかで希望を生きる―太陽劇団『金夢島』
    文:太田耕人(演劇批評家、京都教育大学学長)
    2024.4.1

     太陽劇団の集団創作『金夢島』は、アリアーヌ・ムヌーシュキンと俳優陣、エレーヌ・シクスーによるテクストに、絵画のようにうつくしい美術とルメートルの音楽が配され、演出ムヌーシュキンの美意識が細部までゆき届いた作品になった。
     フランスでの初演は2021年。新型コロナによる約1年の延期の末、パリ東郊ヴァンセンヌの森にある劇団の本拠地カルトゥーシュリ(旧弾薬製造工場)で上演された。夜間外出禁止令も発出されたパリで、人々の活動も演劇も、ようやく息を吹き返した時機である。自身も罹患したムヌーシュキンは、コロナ禍の状況に言い及びつつ、比喩的な意味で「病んでいる」世界の情勢をバーレスク風に戯画化した。
     初老の女性コーネリア(前作「インドの部屋」にも登場した)は、病床で感染症の熱に浮かされ、夢の中で架空の島「金夢島」に到着する。そこでは、漁港の古い船庫で、女性市長の山村と市長の右腕である安寿が、地域興しの国際演劇祭を計画している。次期市長を狙う助役・高野、島の漁業会社の株主である渡部は、演劇祭を失敗させ、山村を追い落とそうと謀る。礎石に媽祖が宿ると言われる船庫は更地にし、港も埋め立てて、カジノを誘致しようというのだ。「金脈」に引き寄せられて、悪徳弁護士の広川、ラスベガスの回し者ジャン=フィリップが一味に加わる。文化振興と環境保護を掲げる市長派は女、金と権力を求める反市長派は男と、善悪の構図が示される。ただし、市長派のうち、市長秘書の海斗だけは男で、スパイとして反市長派に潜入する(広川操縦のヘリに海斗が乗るシーンは、クレーンでヘリが動かされ、スペクタクルな見せ場になる)。
     下敷きにあるのは、ムヌーシュキンが2017年に訪れた金山の島、佐渡。親鸞や世阿弥ら知識人、芸術家が遠流され、30以上の能舞台が残り、文弥人形の人形芝居が伝承されている。35年続く国際芸術祭には鼓童が出演し、1万数千人が集まる。「日本のあらゆる自然や文化が凝集」(ムヌーシュキン)されている地である。
     むろん金夢島は、現実の佐渡ではない。漁業中心の鄙びた島、「神仏の加護で…守られ疫病の恐れはない」(海斗)ユートピアである。コーネリアの夢の中に学生時代の恩師スピノザ先生が現れ、「乳と神酒の川」が流れていた黄金時代を巡る一節をオウィディウス『変身物語』から引用する。その印象が金夢島に重なる。
     劇は何重にも入れ子構造を成している。演劇祭で上演される劇があり、その外に金夢島の世界があり、その外に島の夢をみているコーネリアがいる。彼女はムヌーシュキンの分身よろしく、ト書きを語り、俳優に指示を出す。さらに言えば、彼女の世話をする守護天使ガブリエルは黒子姿であり、黒子が彼女を操っているようにもみえる。入れ子構造が意識され、劇の虚構性が暴かれるたび、(ブレヒトのいう)「異化効果」が生じる。観客は醒めた現実へ引き戻され、突きつけられた課題を自ら思索するよう仕向けられる。

    撮影:桂秀也

     異化効果を生じさせるには、異質なものを差し挟むのが常套手段である。ブレヒトは歌を挿んだが、ムヌーシュキンは文学作品の一節を差し込んだ。リルケ、ボルヘス、イランの詩人アクマド・シャムロウ等が引用される。例えば、警備員の明は、登場するなり、17世紀英国の詩人ジョン・ダンの散文を朗誦する。「人間は誰も完全なる孤島ではない/誰もが大陸の一片/本土の一部だ…誰が死んでも私は心を削られる 私も人類の一部だから/それゆえ問うな 誰がために弔鐘は鳴るのかと/鐘はあなたのために鳴っている」。ダンは疫病で重篤になった際、この『不意に発生する事態に関する瞑想』を書き、疫病との闘いにかけては、個人は人類全体とつながっていると訴えた。同様に、拝金主義という病との闘いにおいて、金夢島で起きることは世界全体で起きていることとつながっている。金夢島は世界の暗喩なのである。
     キャスター付きの台の上に載った美術を、俳優が舞台に押し出す。瞬く間にそれらを組み立て、解体し、場面が転換する。居酒屋、書店、露天風呂(全身タイツを着た「裸体」の俳優が入浴する)、噴火するミニチュアの富士山、満開の桜…。病床に臥せるコーネリアも、脚車付きの病院用ベッドをガブリエルに押させて、舞台を横切る。海辺らしく、北斎「神奈川沖浪裏」の大浪が背景になり、最後には歌舞伎の波幕も使われる。正面高くの窓からは、港の風景が見え、印象的な図像も覗く。パスティーシュ風の美術は、二十歳代のムヌーシュキンが衝撃を受けたという、浅草の大衆演劇に通じるキッチュな美を宿している。

    撮影:桂秀也

     国際演劇祭参加の劇団は、いずれも政治的、社会的な問題を抱えた地域から来ており、その問題を反映した作品を演じる。中東、香港、アフガニスタン、ブラジル…。使用言語も、25カ国以上の俳優が属す太陽劇団らしく、日本語、フランス語(変則的に動詞を文尾に置く)に加え、ポルトガル語やペルシア語も織り込まれる。
     中東一座「偉大なる平和劇団バベル」の団員はパレスチナ人とイスラエル人の夫婦で、アラブ語とヘブライ語が飛び交う。夫が作り物のラクダに跨って長々と独白を語るため、芝居は遅々として進まない。「中東和平より遅い」と怒って、妻はラクダの引き綱を持ったまま退場する。引き綱に引っ張られてラクダの皮が剥がれ、木枠がむき出しになり、失笑を買う。
     深刻な政治諷刺もある。まず、スピノザ先生がドストエフスキー『罪と罰』を引く――シベリアの監獄で発熱したラスコーリニコフが、感染症がアジアで蔓延する夢をみるくだりだ(140年前の予言!)。その直後、島の文弥人形の劇団が現代中国を題材にした新作を試演する。武漢の医師、李文亮がいち早く新型感染症に気づき、宴の中止とマスクの着用を訴える。だが当局に逮捕され、それでも諦めずに直訴するが、習近平に罵倒される。
     ちなみに、『金夢島』の俳優たちは肌色のごく薄い生地で顔面を覆っている。透かし見える表情にはぎごちなさがある。そのせいで、人形を遣う俳優たちも人形のように見えてしまう、なんとも不思議な感覚を私は味わった。
     香港の劇団「民主主義=我が要望」は、巨大な椅子を舞台に据えた。ノーベル平和賞授賞式の際に、獄中にいた天安門の闘士、劉暁波のために用意された空席の椅子である。天安門事件を追悼する劉の詩が読み上げられる。やがて、稽古中の演出家に、香港にいる伯母から緊迫した電話がかかってくる。九龍の繁華街・旺角で、抗議活動中の民衆と警察が衝突したという。伯母が身を隠すレストランにも警官隊が押し寄せるところで、電話は切れる――。
     その後も、いかにも夢らしく雑多な出来事を巻き込みながら、劇は最終的には希望を示唆する結末に向かう。高野と渡部が捕縛され、パンチ・アンド・ジュディよろしく、滑稽にスラップスティックで叩き合い、罵り合いながら連行される。巨大な鶴の被り物が数羽登場し、佐渡で永く見られていない、「吉祥」の鳥が飛来したことが示される。最後は全員が登場し、英国歌手ヴェラ・リンの「また逢いましょう」(1939)に合わせて舞い納める。「♪どこでいつかは分からない。でも…私たちはまた逢える、明るく晴れた日に」。コロナ禍を乗り越えることができたように、世界に蔓延する反民主主義的な病である独裁や弾圧も、いつかは克服できる。この幕切れはそんな希望を仄めかす。「希望は幻想じゃない。希望は力なの。この劇には多くの希望が込められています」(ムヌーシュキン)。
     ムヌーシュキンは異化効果によって、劇の出来事と現実とを照らし合わせることを、間断なく私たちに要請した。希望の実現は劇中では果たされない。現実世界で私たちがとるべき行動、挙げるべき声に委ねられている。そういうことなのだろう。

    閉じる
  • 虚構と現実のあわいを旅する
    文:畑律江(毎日新聞客員編集委員)
    2024.4.1
    虚構と現実のあわいを旅する
    文:畑律江(毎日新聞客員編集委員)
    2024.4.1

     夢と現実のあわいを旅した。ロームシアター京都で上演されたフランス・太陽劇団の『金夢島』。それは、劇団を率いる演出家、アリアーヌ・ムヌーシュキンが紡ぎ出す、めくるめくような美の世界だった。
     太陽劇団が初来日し、東京公演を行ったのは23年前。この時、筆者は上京の都合がつかず、人形浄瑠璃文楽の技法を取り入れたという上演作『堤防の上の鼓手』を見逃した。以来それは長く憧れの作品だったが、今回、京都公演の前に行われた上映会で映像を見ることができた。大きな驚きと感動を覚えた。
     黒い頭巾と衣装をつけた俳優たちが、役を演じる俳優たちの後ろに立ち、人間を人形のように「遣っていた」。驚かされたのは役を演じる俳優たちの顔だ。それぞれが特殊な材質の薄いマスク(仮面)をつけている。目や口元の動きはわかるのだが、どこかのっぺりとしていて静謐。ところが一度物語が動き出すと、表情が純粋に、生々しく迫ってくる。それは時に官能的でさえあった。マスクは、もはや顔と一体化した「皮膜」だった。
     ふと、浄瑠璃作者・近松門左衛門の「虚実皮膜論」が思い出された。芸術の真実とは、事実と虚構との微妙な境界にあるとする芸術論である。私は、文楽の魅力の一つは、人形だからこそ伝わる人間感情の純粋さにあると考えているが、『堤防の上の鼓手』の俳優の表情には、文楽人形に似た純粋さがあった。彼・彼女らは人間と人形との「境界」にいる。それは、虚実皮膜論を文字通り、目に見える形で具現化した様式のように思われた。

    撮影:桂秀也

     さて『金夢島』である。今回は日本から、喜多流能楽師の大島衣恵、和泉流狂言師の小笠原由祠ら、佐渡を拠点とする太鼓芸能集団「鼓童」元メンバーの大塚勇渡、歌舞伎をレパートリーに持つ「前進座」の横澤寛美らが指導に入ったという。そこから一体何が生まれたのか。
     時代は現代。病に伏す女性コーネリアは、日本の「金夢島」にいる夢を見る。この架空の島が舞台なのだが、あっ、と気づいた。夢の中の登場人物は皆、あの皮膜マスクをつけているではないか。ああ、この世界は夢と現実のあわいにある、そう感じた。
     金夢島には佐渡島のイメージが重なる。島には、国際演劇祭で町おこしを目指す市長・山村真由美と右腕の安寿ら市長派と、カジノリゾート開発をもくろむ助役の高野、渡部らの勢力があり、対立構造の中、国籍も民族も異なる演劇グループが次々にやって来る。今まさに大阪で、カジノリゾート計画がさまざまな議論を呼んでいる現実を思い出した。
     助役は腹黒い弁護士らと共謀して目的を遂げようとするが、結局失敗に終わる。枠組み自体はシンプルだ。だが仏語、日本語をはじめ10近くの言語が交錯する舞台は、軽いめまいを覚えるほどに濃密だ。登場する劇団も、アラビア語を話す夫とヘブライ語を話す妻で作る中東一座「偉大なる平和劇団バベル」、大五郎が率いる人形劇団、香港の劇団「民主主義=我が要望」、市職員による「デモクラティック小提灯劇団」、アフガニスタンの難民劇団「アンズの民族離散」、「ブラジル社会主義劇団 聖母」――と多彩である。
     俳優たちは、片側に車輪がついた四角い板を自在に動かし、さまざまな装置を作る。時には長い橋掛かりのついた能舞台のような空間も出来上がる。演技に注目すると、まずは能の基本動作であるすり足を見せる。ほかにも、スケールの大きい歌舞伎の敵役のような「ハ、ハ、ハ」という大笑い、悪役の高野の女方芸、女性二人組が見せる和太鼓奏者のような撥さばき……。さまざまな芸能の演技法が縦横に織り込まれている。
     こうした演技は「まねてみた」というレベルにとどまっていない。たとえば島の二人の漁師は、能「八島(屋島)」を謡い、舞う。その詞章に重なるのは、佐渡の「武右衛門」伝説だ。湖を埋め立ててしまった武右衛門が、美しい娘の姿で現れた湖の守り神の後を追ううち、水底に沈むという物語。漁師たちの演技からは、彼らが真剣な稽古を重ねた成果がうかがえ、客席からは自然に拍手が沸き起こった。印象的だったのは演技のうまさだけではない。海を背景に戦いの苦しさを描く能「八島」は漁民たちの悩みと重なる。また、息子を捜し続ける市役所経理の天野耕吉の姿には、子を捜す母を描く「隅田川」のイメージがある。そして人が酒に酔う場面では、酒を好む想像上の動物が現れる「猩々」が使われる。どの謡曲も巧みに読み替えられ、現代の物語に生かされていると気づく。
     大五郎一座の人形芝居は、古浄瑠璃・文弥節の語りで演じられる佐渡の民俗文化財、文弥人形を思わせる。登場人物たちが市政について語り合うのは、なんと銭湯の湯船の中。湯気が立ちのぼり、背景には丁寧に富士山の絵が配されているのが面白い。小提灯劇団は「コンチキショ」などと陽気にはやしながら島の居酒屋にやってくる。このシーンは、黒澤明監督の映画『どん底』へのオマージュだが、そうした場面からは、日本の庶民文化に対するムヌーシュキンの並々ならぬ関心がのぞいている。

    撮影:桂秀也

     そればかりではない。舞台には、世界の戦争や抵抗運動の現実――中国の民主活動家の話、民主化を求める香港の人々の動き、アフガニスタン難民の苦しみ、いつ果てるともなく続くパレスチナとイスラエルの戦いなど――への言及がみられる。新型コロナウイルスへの警鐘を鳴らしながら公安局に処分され、ウイルス感染により亡くなった中国の医師のエピソードは人形芝居を通して演じられ、第二次世界大戦中、神風特攻隊第一号とされた日本の兵士・関行雄の話までが登場する。
     各エピソードが抱える背景や歴史は、どれも重くて複雑だ。それゆえ、ここで一つのひっかかりを指摘しておかざるを得ない。言及がそれぞれに短く、観る者が意味をつかもうとしているうちに、場面はたちまち次の場面へと展開する。このため各エピソードが少々断片的に映ったことは否めないのだ。だが、難民をも含む多国籍の劇団員からなる太陽劇団の歩みを振り返る時、わかるのは、ムヌーシュキンが、世界で絶えない人間の衝突と、そこから見えてくる人間性の問題を常に見つめつつ表現活動に携わってきたという事実である。確かに、現実と演劇を切り離し、政治的問題への直接的な言及は避けるべきだと考える向きもあるだろう。だが、この演出家はその態度を選ばない。ムヌーシュキンの胸にはきっと、未来に向けて伝えておきたい人間社会のありようが山積しているに違いないのだ。創作アソシエイトのエレーヌ・シクスーが「歴史の箱舟」と形容したように。
     幕切れ、癒やしを象徴する大きな鶴の人形が現れ、勢ぞろいした俳優たちが能「羽衣」を舞う。清らかな天女の心へのあこがれ。謡はやがて第二次世界大戦後中にイギリスで流行した「また会いましょう」のロマンチックなメロディーへと変化する。従軍する兵士に「生きていて」と告げるような曲。「ある晴れた日 必ずまた会える」――能の舞が、この美しい洋楽に何としっくりと合ったことか。
     日本での取材会で、ムヌーシュキンは京都の「美」のすばらしさを語った。そして同時に「それは非常に壊れやすい」とも。そのことを今、最も心に刻むべきは私たち自身だろう。84歳になる今日まで、ムヌーシュキンがはるばると歩んできた演劇の旅を改めて思う。どこで生まれ、どこに暮らそうと、世界中のすべての俳優は、自身が胸打たれた演技の形式を学ぶことができ、好きな舞が舞え、愛する歌が歌える――。それが彼女の演劇の信条だ。そして、それを実現させるためにも、演劇には常に自由と平和を希求する魂が必要なのだ。
     ムヌーシュキンは、彼女に美のインスピレーションを与えた日本に「また会いましょう」と深い感謝を捧げた。「また会いましょう」。私も思わず、心の中で返事していた。

    閉じる
  • 横溢する演出的欲望
    文: 柴島彪 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
    2024.4.1
    横溢する演出的欲望
    文: 柴島彪 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
    2024.4.1

     メタフィクションの小説について、パトリシア・ウォーは「人工作品としての自らの地位に自意識的に、そして組織的に注意を向け」たテクストと説明している[1]。語り手が物語に顔を出すものからボルヘスの複雑な入れ子状の世界まで手法は様々だが、自らのフィクション性に自覚を促すことで、「透明」で「自然」なリアリズムを成り立たせている諸規則を問題化するのだ。太陽劇団のアリアーヌ・ムヌーシュキンによる『金夢島』もまた、そうした物語を成立させるために作者と鑑賞者の双方に了解された規則を顕在化させる壮大な劇である。しかし演劇と小説とでは幾分話が違う。演劇には作者以外に演出という重要な役割が含まれるし、自らが作り物であるという事実を抑圧するプロセスは、ナラティブの他の形式――小説、映画、漫画――よりも、すでにはっきりと観客に意識されているものだからだ(「芝居がかった」という言い方がいくつかの言語にあるように、典型的な演劇は大げさな化粧をした役者が、大げさな身振りでどう見ても偽物の書き割りの前で演技するものだ)。とすれば、劇場でメタフィクションが試みられるとき、それはどのような仕方でか。

     『金夢島』は、錯乱した老婆、コーネリアの夢の物語だ。ずっと夢見ていた日本に来たと思い込んでいる彼女は、ベッドの上でこの島の国際演劇祭の成り行きを見守る。日本のどこかにありそうでなさそうな島だ。演劇祭を無事に遂行しようとする山村市長とその支持者、そして次期市長となって漁港を潰し、カジノを建設しようとする渡部や高野らの反対派の対立を基調としながら、演劇祭を訪れる世界各地の劇団による中途半端なリハーサルが描かれる。それがコーネリアの意識の中で起こっていることだと分かるのは、「現実」世界の登場人物である彼女がその島の物語に介入しているためである。この主人公は演出家として、人物に退場のタイミングを命じ、そのありようを指定する。「退場する前に不敵な笑い 歌舞伎風にね」というように。登場人物たちもまた、(特に冒頭のあいだ)自らの虚構性に幾分自覚的である。登場人物や黒子たちが台車を運んできて、能のような舞台や四角い小島を作るのだが、演劇祭でのスピーチを練習するとなったとき、山村市長は役者たちが用意し始めるこのプラットフォームに「この台車はなに」と戸惑っている。また、電話で密談中の高野は人の気配に驚き、しかしそれが黒子であったことに安堵する(実際、それは変装した娘の勝子だったのだが)。

     さらに重要なのは舞台装置の扱いである。劇団員たち自ら制作するという種々様々なからくりや装置は、所与の背景として馴染んでいたかと思うと、次の瞬間には種明かしされることで、その幻想が剥ぎ取られる。たとえば暗闇に浮かぶヘリコプターは、照明がつくと人力で上下に動くクレーンが顕になる。あるいは、火山の書き割りが倒れて後ろでタバコをふかす劇団員が現れるといった場面だ。このように、コーネリアの物語は、その完璧な虚構性に常にほころびを見せている。

    撮影:桂秀也

     演出家が演劇をコントロールしようと努めるとき、私たちのこの現実も、演劇のなかに折りたたまれていく。この芝居において、現実はなにより政治とのかかわりで引き合いに出されるが、その仕方は極めて図式的なものだ。イスラエルとパレスチナの対立はピュラモスとティスベ的な恋愛悲劇に矮小化されるし、習近平もプーチンもエルドアンもネタニヤフも十把一絡げに地獄から送り込まれた政治家モドキと文字通り「悪魔化」される。それもこれもコーネリアが考えることだ。そのフラットさは彼女の思い描く極度に戯画化された愚かで単純な人物たちとも共通している。しかしそれは観客から見れば、虚構が中途半端にしか成立していないように見えるだろう。

     したがって、コーネリアの夢の世界だからといって、彼女は作者として全てを掌握するのでも、全知の語り手でもない。知らない登場人物、不明な行動原理。「ここで陰謀が必要ね」と言って悪役を自ら召喚したにもかかわらず、その行動をコントロールすることはできない。ここでは裸になっても肉襦袢の顔面を塗り固めたカリカチュア的な人物たち[2]が作り物らしさを強調すると同時に、彼/女らの勝手気ままな――自律的な?――振る舞いが作者兼演出家の権威をなし崩しにしているのだ。

    撮影:桂秀也

     そのまま物語は加速度的にゴタついていく。世界各地からの劇団が到着するに従って登場人物は増え続けるが、順番に行われるリハーサルは、内部で揉めたり邪魔が入ったりと、いつまで経っても上手く行かない。舞台上の演出は、それを追いかけるように過剰さを増していく。舞台の手前の縁から、舞台いっぱいに広がる布が引き出され、そこに下から空気が吹き込まれて波が起きる。フランス語以外の歌や台詞が増えていく。もう一つの幻覚として、コーネリアの少女時代の師、スピノザ先生が現れる。しかし一方で、コーネリアの病状は悪化しているらしい。彼女を見守るガブリエルは、いつの間にか黒子の帽子が取れて顔があらわになり、最後には看護師の姿になる(戻る?)。こうして一方では舞台=妄想と現実の乖離が強調されていく。とはいえエントロピーが増大するに任せておくわけにはいかない。演劇の時間は限られている。

     コーネリアは急展開が必要だと言い、悪役2人は縛り上げられて登場、逃亡を試みたもう一人の悪役も、市長派の村人の機転で演劇祭に向かう車に乗せられる。デウス・エクス・マキナ。鶴の一声。最後はもちろん大団円だ。「帰ってきた」と叫ぶ清香の声を追うように、突然高い竹馬を履いた巨大な鶴が現れる(この竹馬の人物は、舞台装置の出し入れの際に登場してはいる)。渡り鳥である鶴は、北方が寒くなりすぎる冬に鹿児島、とくに出水に多く飛来する、おそらくそのことへの言及である。そしてヴェラ・リンの“We’ll Meet Again”が流れるなか、これまで出てきた人物たちが(悪役も含め)揃って能を舞う。この曲は、第2次世界大戦中に英国兵士への慰問として歌われて大ヒットしたものだ。「どこでか分からない いつになるか分からないけれど 私たちはまた会うでしょう いつか晴れた日に」という歌詞が思わせるのは、全てが終わったあと――関わった人皆が死んだあと――の想像上の穏やかな時間である。物語がきちんと終わったわけではない。物語なんてどうでもいい。演出がその極大に達し、そして収束するのだ。『金夢島』は、演出自体を上演する、その欲望に突き動かされている。

     

    [1]パトリシア・ウォー『メタフィクション:自意識のフィクションの理論と実際』結城英雄訳、泰流社、1986年、13頁。
    [2]実際の肌を露出せずに裸体や肥満、刺青を表現するために用いられる入れ襦袢は、歌舞伎への参照だろう。

    閉じる
  • 転身の舞台
    文: 羽渕徹 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
    2024.4.1
    転身の舞台
    文: 羽渕徹 テキスト監修:浄土複合ライティング・スクール
    2024.4.1

     携帯の着信音が鳴り響く。ふたりの黒子が舞台下から客席を探すが、携帯は見つからない。これでは舞台の幕が開けられないと黒子のひとりが訴えるのだが、鳴っているのは自身の携帯だったというオチである。

     太陽劇団「金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima」はそんなシーンから始まる。物語の舞台は、病でベッドに横たわる老齢の女性、コーネリアの夢の中であり、幻想のニッポンだ。そして序盤の展開で、ああ、これは筆者の住む町でも聞いたことのある話だと思う。平田オリザ率いる青年団が拠点を移し、演劇で地域振興を企画していた市長が選挙で負けるという出来事があったあの町だ。とはいえ、この町に限った話ではない。近年、演劇祭は全国的におこなわれるようになっているし、カジノ建設も大阪をはじめとする都心部では誘致の計画が立てられ、侃々諤々の議論がなされ、また分断を生んでいる。

     上演は3時間ほど。その中で場面転換の度に、劇中劇の舞台、銭湯、居酒屋等々と、舞台装置が暗転せずに何度も素早く入れ替わっていく。通常、場面転換は裏方による仕事となるが、それを舞台上の黒子だけでなく役者もおこない(この規模の劇団では稀であるだろう)、黒子が小道具の上に乗ってスケートボードで滑るように移動させたかと思えば、平台を収めきれずに難儀するような仕草も見られ、転換中の所作が非常にコミカルに演出されている。さらには主人公であるコーネリアが、雲海に見立てられた小道具の布を手に持ち、ゆらゆらと揺り動かすことさえあるのだ。つまりこのようなシーンでは、黒子と役者はその役割を入れ替え、見られる存在の反転が起こることになる。

     このあたりのことは、太陽劇団という組織のあり方とも関わるだろう。この劇団は、パリ郊外のカルトゥーシュリ(旧弾薬庫)という施設を拠点として活動している。ここでは俳優からキッチン担当、照明音響映像スタッフ、守衛、さらにはトップである演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキンでさえ給料は平等であり、俳優であっても劇場設営を手伝ったり大道具を作ったりするそうだ[1]。

     舞台上でも平等主義は貫かれている。冒頭で開演のシーンについて述べたが、黒子の存在はそのことを象徴するものなのではないだろうか。太陽劇団は、2001年に初来日した際、「堤防の上の鼓手」という作品を上演している。これは俳優が人形のように、黒子によって操られるという文楽の手法を用いた作品である。ここでも、黒子は背景に溶け込むのではなく、俳優を肩車して操るといった所作によって前景化されるのだ。今作において黒子は開演とともに登場したかと思えば、場面転換で滑稽な仕草を見せる。このようなシークエンスによって、黒子は役者の後方に位置するような場合でもプレゼンスを持つことになる。例えば次のようなシーン。

     竿に吊り下げられた網籠の中に細かな紙が入っており、それを黒子が揺動することによって、移動する役者の頭上にだけ雪を降らせる場面。あるいは、吹雪の中を歩く役者のマントを傍らで持ち、それをばたばたと上下に動かすことで、マントが風になびく様子を表現するといったシーンだ。このような演出は、現代においてスペクタクル性をもった映像を見慣れているわれわれにとっては、ある種の滑稽さを与えると同時に、黒子の存在を前へと押し出す仕掛けともなっている。

    撮影:桂秀也

     ところで、ともすればフランスに拠点をおく太陽劇団が、文楽に代表されるこのような技法を演出として用いることは、昨今では「文化的盗用」と捉えられかねない。このことについてムヌーシュキンは、植物の種子が風に運ばれて拡散していくことを防げないように、文化は誰の所有物でもなく、決定的に純粋だと言うことはできないと述べる。その上で異文化を敬意と感謝を持って学ぶのだ、と[2]。

     たしかに、文楽のルーツを遡れば、傀儡子という木の人形を操る芸能集団に行き着く。傀儡とは中国語を由来とし、諸説あるようだが渡来人によって伝えられた可能性もあるという[3]。そして太陽劇団がおこなうのは、文楽の技法をそのまま真似たものではなく、顔をマスクで覆った役者が人形の代わりをするといったことからもわかるように、現在の文楽のかたちとは異なったものとなっている。また「金夢島」では、日本の能楽師や狂言師、歌舞伎俳優等から協力を得て制作されたのだという。

     とはいえ、そもそも演劇とは、古代ギリシャの時代から何者かを演じること、つまりは他者のアイデンティティを生きてみることで自己を越え出ていくものではなかったのだろうか。コーネリアが傍で仕えるガブリエルの問いに答えて言う『変身物語』はその典型であり、人間が動植物といった様々なものに変容する物語だ。この時、黒子の顔を覆う黒い布や役者が着用するマスクは、演じる俳優の属性を匿名的なものにし、変身を促すものとして機能している。顔を布で覆うことは、例えば肌の色といった固有性を観客から見えなくするのであり、そのことによって俳優の出自は宙吊りにされることになる。

    撮影:桂秀也

     しかしその一方で、匿名的なはずの黒子が頭巾を脱ぎ、顔を見せるシーンがある。その黒子はカジノ建設を目論む高野の娘、勝子であり、頭巾を脱ぎ捨て、その父親をこれでもかというほど罵倒するのだ。ここで俳優は黒子の衣装を身につけることによって、異文化に属する黒子に同一化していると言えるのだが、娘は正体を自ら暴きながら、父親の悪事を責め立てることになる(ただし勝子はさらに顔を覆うマスクを身につけている)。それだけでは終わらない。勝子を演じる俳優、アンドレア・マルシャンは中東の劇団員役として、さらにはブラジル人の演出家役としても登場する。これはこの人物だけに限ったことではなく、高野が歌舞伎の女形に変装し、ガブリエルが冒頭で黒子として客席に呼びかけるように、この舞台では、ひとりの人物の属性は複数化されるのだ。こうして黒子として不可視化されていた存在が時に現れ、あるいは仮面をすげ替え、転身していくことで初めて、固定的な属性といったものが突破されていくのではないだろうか。

     黒子は役者になり、役者は黒子になってその役割を入れ替える。役者は幾つもの仮面を纏う。冒頭で黒子が携帯電話への注意を呼びかける先は、結局は観客ではなかった。黒子が慌てて言う客席への呼びかけは、自身へと照り返されることになる。携帯は観客の側ではなく自身のポケットに入っていたのだと認識は問い直される。そして、その黒子は素顔を見せ、ガブリエルであることが、何者であるかが明かされる。属性の変化とはこのような行為の反復の中にある。

     

    [1]上田久美子がつづる太陽劇団の情熱と日常、そして「金夢島」開幕までの2週間 https://natalie.mu/stage/pp/theatre-du-soleil-japan2023、最終アクセス 2023年11月19日。
    [2]カロリーヌ・フレスト『「傷つきました」戦争──超過敏世代のデスロード』堀茂樹訳、中央公論新社、2023年、118頁。
    [3]服藤早苗「傀儡女の登場と変容──日本における買売春」『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)』第10号、2010年12月、436頁。

    閉じる
  • 太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ) 『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』 PV Short ver.
    2023.9.21
    閉じる
  • 日本の夢、夢の日本——太陽劇団『金夢島』
    藤井慎太郎(早稲田大学)
    2023.9.1
    日本の夢、夢の日本——太陽劇団『金夢島』
    藤井慎太郎(早稲田大学)
    2023.9.1

    はじめに 太陽劇団、アリアーヌ・ムヌーシュキンとその作品
     1964年に創設された太陽劇団(Théâtre du Soleil)は、設立から60年近く、世界的に知られるようになってからもすでに半世紀以上の歴史を持ち、今日においてもフランスとヨーロッパを代表する集団である。設立以来、劇団を率いるアリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)は1939年生まれであり、日本のアングラ世代の演出家、鈴木忠志(1939年生)や唐十郎(1940年生)と同世代であり、美学的・思想的にも共通点が多い。19世紀末以来の民衆演劇(théâtre populaire)運動の流れを継承し、演劇における民主主義の実現に貢献すると同時に、ヨーロッパの前衛演劇の旗手たちと同様に、ヨーロッパ演劇の伝統には飽きたらず、「東洋」——神秘化・理想化されることも多く、特に今日では問題を孕んだ概念でもある——に演劇と俳優術の根源を求めて、実験と探求を重ねてきた。
      1968年の五月革命の熱狂と混乱もまだ醒めやらぬ1970年に初演され、フランス革命を主題とすると同時に現代演劇にも「革命」を引き起こした『1789』(観客動員28万1370人、数字は劇団ウェブサイトによる<以下同様>)、その続編ともいうべき『1793』(初演1972、10万2100人)によって大きな成功を収め、その存在は世界中に——佐伯隆幸らによって日本においても——知られることとなった。コンメディア・デッラルテに着想を得た『黄金時代』(L’Âge d’or, 1975、13万6080人)、クラウス・マンの小説を翻案した『メフィスト』(Mephisto, 1979、16万人)がそれに続いた。
     1980年代には『リチャード2世』(Richard II, 1981)、『十二夜』(La Nuit des rois, 1982)、『ヘンリー4世』(Henry IV, 1984)からなるシェイクスピア・サイクル(Les Shakespeare、計25万3000人)が上演された。これによって1982年、ムヌーシュキンは教皇庁栄誉の中庭にてアヴィニョン演劇祭の開幕を飾る最初の女性演出家となった(2023年の今年になってようやくジュリー・ドゥリケJulie Deliquetがそれに続いた。いずれもジャック・ルコック国際演劇学校の出身であるのは興味深い)。その後、『アウリスのイフィゲネイア』(Iphigénie à Aulis, 1990)、『アガメムノン』(Agamemnon, 1990)、『供養する女たち』(Les Choéphores, 1991)、『慈しみの女神たち』(Les Euménides, 1992)の4作品からなる「アトレウス家の悲劇」サイクル(Les Atrides、計28万6700人、1作目はエウリピデス作、後の3作品はアイスキュロス作『オレステイア』三部作)によって、その評価は揺るぎないものとなった。
     その後も『タルチュフ』(Le Tartuffe, 1995、12万2000人)、『堤防の上の鼓手 俳優によって演じられる人形のための古代東洋の物語』(Tambours sur la digue — sous forme de pièce ancienne pour marionnettes jouée par des acteurs, 1999、15万人)、『最後のキャラバンサライ(オデュッセイア)』(Le Dernier Caravansérail (Odyssées), 2003、18万5000人)、『はかなきものたち』(Les Éphémères, 2006、動員数不詳)、『フォル・エスポワール号の遭難者たち』(Les Naufragés du Fol Espoir (Aurores), 2010、10万人)などの名作を発表し続けてきた。半世紀以上にわたって、フランス演劇界で最も高い知名度を誇る(そして最も手厚く文化省の助成を受ける)劇団のひとつであり続けていることは特筆すべきことだ。
     そうしたこれまでの業績が評価されて、2019年には京都賞を受賞したことも記憶に新しい。このたび東京と京都で上演されることになった『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』(以下『金夢島』、L’Île d’or — Kanemu-Jima, 2021)は、そのムヌーシュキンが『堤防の上の鼓手』に続いて日本とその演劇と文化に直接に取材してつくり上げた作品であり、日本公演は同作の2001年新国立劇場公演以来となる。京都賞授賞式の際に自ら語ったように、1963年に日本を訪ねた経験がムヌーシュキンの日本に対する関心、ひいては彼女の演劇そのものの原点にある。

    独特の集団性 集団創造
     太陽劇団の特徴はその独特の集団性にある。半世紀以上にわたって、アリアーヌ・ムヌーシュキンの強い個性とリーダーシップのもとに置かれた集団であるとともに、俳優を中心に据えた集団でもある。重要な決定は劇団の構成員による投票によって下され、その作品はしばしば集団創造のかたちをとる(『金夢島』もそうである)。
     太陽劇団はSCOP(Société coopérative de production、生産共同組合)の法人格を持つが、SCOPにおいては従業員が株主となり、平等に利益が分配される。太陽劇団においては70〜80人が常勤で雇用され、月給2000ユーロが平等に支払われているという。俳優は舞台に立って演じるだけでなく、舞台装置の製作など裏方の仕事も同時にこなしている。カルトゥーシュリ(旧弾薬庫)では、幕間に提供される食事や飲み物も、舞台衣裳と化粧もそのままの俳優たちによって給仕されるし、そもそも、劇場の入口で「もぎり」として観客を迎え入れるのは、今も変わらずムヌーシュキンその人なのである。

    俳優の道の追求 劇団を支える俳優と人脈
     太陽劇団は、まず俳優の集団である。俳優の道を追求して極めるために、インド、中国、インドネシア(バリ)、日本をはじめ国外から数多くの俳優や芸術家を招き、ワークショップを重ねる。『金夢島』の創造プロセスにおいても、日本の関係者だけに限っても喜多流能楽師の大島衣恵(きぬえ)、和泉流狂言師の小笠原由祠(ただし)、横澤寛美ら前進座の複数の歌舞伎俳優、そして元鼓童の大塚勇渡(はやと)らが協力している。太陽劇団に招かれた芸術家はしばしばARTA(Association de recherche des traditions de l’acteur、俳優伝統探求協会)においてもワークショップの講師を務める。ARTAは1989年に設立され、太陽劇団と非常に関係が深く、同じカルトゥーシュリを拠点としている組織である(劇団の俳優や関係者が歴代の——後述するベルッジ=ヴァヌチーニ、デュロジエ、ビゴが現在の——芸術監督を務めている)。
     現在の劇団を中心を担っているのは、ブラジル出身のジュリアナ・カルネイロ・ダ・クーニャ(Juliana Carneiro da Cunha)、母もまた太陽劇団の俳優であったエレーヌ・マドレーヌ・ポール・サンク(Hélène Madeleine Paule Cinque)、イタリア出身のドゥッチオ・ベルッジ=ヴァヌチーニ(Duccio Bellugi-Vannuccini)、フランスでも有名な旅回り一座の家系に生まれたモーリス・デュロジエ(Maurice Durozier)、一度劇団を離れ、『金夢島』で再び太陽劇団に合流したジョルジュ・ジャック・ビゴ(Georges Jacques Bigot)、日本出身の小野地清悦(Seietsu Onochi)らの名優たちである。ほかの作品と同様、『金夢島』においても、俳優のほとんどは複数の役を一人で演じている。
     太陽劇団を離れた後にさらにキャリアを築いた俳優の名前も何人か挙げよう。1970年代に看板俳優を務めたフィリップ・コーベール(Philippe Caubère)、1980年代後半に劇団に所属したアルジェリア系のジネディーン・スワレム(Zinedine Soualem)とアルメニア系のシモン・アブカリアン(Simon Abkarian)らは俳優・演出家として、舞台で映画・テレビで活躍している。1990年代初頭に俳優を務めたクリストフ・ローク(Christophe Rauck)は演出家となって、ビュサン人民劇場、サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場、リールのノール劇場を経て、現在はナンテール=アマンディエ劇場のディレクターを務めている。
     そのほかにも、パリ第8大学の教授となったジャン=フランソワ・デュシーニュ(Jean-François Dusigne)やフランシュ=コンテ大学(ブザンソン)で教授を務めたギイ・フレクス(Guy Freixe)ら、研究の道に進んだ俳優もいる。太陽劇団における俳優の道の追求が、多くの人材を輩出し、様々な可能性を拓いてきたことが分かるだろう。

    俳優の多様性 移民と難民
     太陽劇団は20を超える多国籍の俳優から構成されているが、これは今日のフランスでも依然として例外的なことである。その中には難民としてフランスに逃れてきた者も含まれている。アリアーヌ・ムヌーシュキンは、それが正規であろうと非正規であろうと、移民・難民の擁護者である。そこには、(ときにフランス人自身の意識に反して)フランスが歴史の古い移民国家であり、かつてはヨーロッパ諸国から、今日では旧植民地を中心に世界から移民を受け入れてきた伝統を持つことはもちろん、アリアーヌ自身、ロシアから亡命してきたユダヤ系のアレクサンドル(Alexandre Mnouchkine, 1908-1993)を父に持つこと、第二次世界大戦中のドイツ占領期にその家族の多くが収容所に送られたことも影響しているだろう。無声映画の撮影現場を舞台とした『フォル・エスポワール号の遭難者たち』は、フランスでも著名な映画プロデューサーであった亡き父に捧げられたオマージュであった。太陽劇団の近年の作品の多くは、ムヌーシュキン自らの手によって、単なる記録映像を超えて、新たな撮影と編集を加えて映像作品化されているのも、父の影響といえるだろう。
     1996年、非正規滞在者たちが正規化を求めてパリ市内の各所(サン=ベルナール教会の占拠によって特によく知られる)を占拠したときには、300人を一時的にカルトゥーシュリに迎え入れた。ムヌーシュキンのそうした移民・難民問題に対する意識は、『そして突然、眠れぬ夜が』(Et soudain, des nuits d’éveil, 1997、5万5000人)、そしてとりわけ『最後のキャラバンサライ』(2003)に結集している。2000年前後の数年間、ドーヴァー海峡に面したカレー近くにあるサンガット難民センター(Centre de Sangatte)には多くの難民が——劣悪な環境の中で——収容されていて、彼らはユーロトンネルに向かう貨物列車に飛び乗って、鉄路で英国を目指そうとしていた。『最後のキャラバンサライ』は、絶望と希望が隣り合わせるその施設を作品の入口としつつ、多くの難民から聞き取った、彼らの人生の苦難の道のりをエピソードとして集めている。この作品は2005年、アフガニスタンのカブールでも上演され、同時に開催されたワークショップをきっかけに、アフターブ劇団(Théâtre Aftaab、アフターブは「太陽」の意)が生まれるもとになった(政情の不安定化に伴って劇団は解散したが、一部はフランスの太陽劇団に合流した)。
     そうした俳優の全員がフランス語を母語とするわけではないとして、それが問題とならないような作品、演技と演出が目指されているのだ。文化は誰のものでもなく、みんなのものである、あらゆる俳優は、自らの出自や母語や肌の色によらず、どんな人間でも演じうる、そうしたユートピア的普遍性は太陽劇団の信条でもある。そのことをあらためて再確認させたのは、ロベール・ルパージュ(Robert Lepage)を外部から演出に招いてつくられた『カナタ エピソードI 論争』(Kanata — Épisode I — Controverse, 2018、2万7240人)が「文化の盗用」(cultural appropriation)批判の対象となり、主にカナダ芸術評議会の助成金が下りなかったことによって、上演自体が危ぶまれたときであった。カナダ先住民の暗い歴史を舞台化する際に、俳優や作家の中に先住民が含まれていなかったことが、カナダの先住民コミュニティによって問題視され、強く批判されたのだ。一度は公演そのもののキャンセルがアナウンスされたものの最終的には実現にこぎつけ、ムヌーシュキンはひとまずキャンセル・カルチャーに抗って自分の信念を貫いたかたちである。

    カルトゥーシュリ 軍事施設から文化施設へ
     太陽劇団の金字塔的作品『1789』の上演会場となったカルトゥーシュリ(Cartoucherie)は、パリ市の東端ヴァンセンヌの森の中にあり、フランス軍が所有しながらも放棄されていた弾薬庫・工場跡であった。それが、『1789』をきっかけとして軍事施設から芸術の場へと変貌し、今では太陽劇団、アクアリウム劇場(Théâtre de l’Aquarium、「水族館」「水槽」の意)、タンペット劇場(Théâtre de la Tempête、「嵐」)、エペ・ドゥ・ボワ劇場(Théâtre de l’Épée de bois、「木の剣」)、アトリエ・ドゥ・パリ(Atelier de Paris – CDCN)の5つの劇場組織が並び立つ、小さな劇場都市に生まれ変わっている(とはいえ、カルトゥーシュリといえば、今日でもまずは太陽劇団の代名詞である)。
     カルトゥーシュリ内部の巨大な空間は、作品ごとにその姿を変え、舞台と客席(そして両者の関係)、さらに楽屋(やってきた観客の目に必ず留まるように配置されている)、ホワイエ(食事・休憩スペースを兼ねる)が新たに設計・構築される。上演される作品が日々、同一ではありえないように、カルトゥーシュリの劇場空間そのものも、作品が異なれば(外観を除いて)同一ではないのだ。「舞台美術」という言葉には収まりきらない、そうしたセノグラフィといえば、ギイ=クロード・フランソワ(Guy-Claude François、1940-2014)の名前と不可分であった。太陽劇団の作品のセノグラフィは、劇団創設期から2014年に没するまで彼が手がけてきた(『金夢島』の舞台美術はムヌーシュキンの考案に基づいている)。
     同じように、太陽劇団の音楽といえばジャン=ジャック・ルメートル(Jean-Jacques Lemêtre、1952年生)である。1979年以降、自ら作曲を手がけるとともに、舞台の傍らで多種多様な楽器を使いこなす彼の姿は、太陽劇団の作品と切り離せないものとなった。そしてテクスト(戯曲)といえばエレーヌ・シクスー(Hélène Cixous、1936年生)の存在が欠かせない。シクスーはパリ第8大学で教鞭をとった英文学者・フェミニズム研究者であり、作家・劇作家・詩人でもある人物だが、1984年頃から太陽劇団に欠かせない協力者となった。ときに戯曲そのものや翻訳を提供し、ときに集団創造で生み出されたテクストを完成に向けて織り上げていく。エラルト・シュティーフル(Erhard Stiefel、1940年生)は、能楽の仮面に出会ったことをきっかけとして、ヨーロッパにおける演劇の仮面製作の第一人者となった人物だが、1970年代から太陽劇団の仮面製作にたびたび関わり、『金夢島』の人形製作も手がけている。そしてシャルル=アンリ・ブラディエ(Charles-Henri Bradier、1974年生)が、1995年から現在に至るまで、ムヌーシュキンの右腕として、劇団を切り盛りしている。彼らの名前は『金夢島』にもクレジットされている。

    コロナ禍を超えて
     『金夢島』は、2020年春から世界を襲ったコロナ禍によって、創造過程においても大きな困難と遅延を強いられた。2020年春に佐渡島で予定されていたワークショップは実現できないままに終わった。2021年秋の東京芸術劇場およびロームシアター京都で予定されていた日本公演(世界初演となるはずだった)も、プロセスに大きな遅れが生じたこと、日本政府による厳しい入国制限が続いていたことを受けて延期を余儀なくされ、同年11月にカルトゥーシュリで初日を迎えることになった。作品冒頭、日本に恋焦がれるコーネリアは、眠れぬ夜を過ごすうちに日本の夢、夢の日本を見ることになるのだが(したがって「ありのままの日本」ではない)、その姿にはムヌーシュキンや劇団関係者の苦悩と憧憬も投影されているのである。
     紆余曲折を経ながらも来日公演がまさに満を持して実現したことを喜びつつ、この作品が日本の観客にいかに受け止められるのか、私自身も楽しみに待ちたいと思う。

    太陽劇団のウェブサイトは、アーカイヴとしても例外的なまでに充実している。フランス語の情報がほとんどではあるのだが、写真だけでも覗いてみていただけたら幸いである(本文中、作品ごとにリンクを付してある)。

    閉じる
  • 太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ) 『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』 PV
    2023.7.14
    閉じる
  • ついに来日する伝説の劇団、 新作のテーマは夢の中の日本
    文:副島 綾(舞台芸術アドバイザー)
    2023.7.14
    ついに来日する伝説の劇団、 新作のテーマは夢の中の日本
    文:副島 綾(舞台芸術アドバイザー)
    2023.7.14

    太陽劇団、22年ぶりの来日公演は、空想上の日本を舞台にした作品。出演者・スタッフ
    総勢65名、多国籍なメンバーたちが見せてくれる夢の日本に私たちも旅立とう!

     パリ郊外の森の中に、世界の演劇人たちが夢見る劇場がある。1960年代、弾薬庫だった建物(カルトゥーシュリ)で始まったこの演劇活動は、アリアーヌ・ムヌーシュキンの太陽劇団としてその名を知られるようになった。美術制作のための吹き抜けの作業場、世界の楽器を収集した楽器室、人形や仮面製作の工房、客席のある稽古場。衣装用の倉庫には過去の衣装が保管されており、役者たちが稽古で引っ張り出すことができる。ここは、ひとつの理想郷だ。

     作品が仕上がると、劇場のホワイエは演目に想を得た内装になる。開演前は、作品に縁のある食事を俳優たちが提供する。客席の真下には共有の楽屋スペースがあり、のぞき窓のある幕を通して準備中の俳優たちを観察することができる。そして席に向かうと、御大アリアーヌが立っていて、まるで古い知り合いかのようにチケットの席を確認してくれる。終演後は、出演者による音楽パフォーマンスまである。観客が、 この場所にやってきたら、公演の前後を含め祝祭的な時間と空間を体験するのだ。

     太陽劇団は、1964年の旗揚げ以来、古典や現代作品を上演し続けてきた。世界情勢への関心度も高く、紛争地域を含めた世界中から俳優を受け入れ、彼らの出身国の表現手法をワークショップなどで共有している。これが、劇団作品に漂うヒューマニズムにつながっているのかもしれない。そして客席には、さまざまな世代が混ざっている。創設当初から観ていそうな演劇通、若い学生たち、家族連れ……世界の文化に心と目が開かれている人たち特有の空気が、この客席には満ちている。

     劇団発足前の1963年に日本に滞在したアリアーヌは、大衆演劇に触れ、能や狂言といった古典芸能に注目し、その重要性を早くから俳優たちに説いてきた。2017年頃、そんな彼女が日本を舞台とする作品を創るべくリサーチを開始したとの噂が立った。その作品は、コロナによるロックダウンの波をかいくぐり、幾多の困難を乗り越えて2021年についに初演された。世界初演の当日、アリアーヌは82歳になっていたが、やはり入り口で観客を迎え、チケットを確認していた。

     太陽劇団の本拠地で私が観た本作は、夢の中の日本を描いたものだった。夢だから、現実の日本とも異なり、人物の顔もぼんやりしていて、流れには飛躍があるが、各シーンの転換が息をのむほど美しい。役者たちの重心は低く、まるで彼らが奏でる音楽のようだ。そのようにして、色彩豊かで、音の感触、木の香り、湯気、風景のディテールがリアルに立ち上がる。そんな夢をフランスの観客たちは共有し、体験した。この夢には、団員たちのイマジネーションが重なっている。彼らが、一年半に及ぶ集団創作で数々のシーンを生み出したからだ。

     演劇とはそもそも、舞台と客席が共に見る夢である。作り手が自分の魂を映し出し、観客はそれぞれの状態を投影して受け取る、集団で創作される夢である。集えることの尊さが実感される今日、同じ時代に生まれた証として、私たちは迷わずこの夢の中に飛び込めばいいのである。

    東京芸術劇場広報誌「芸劇BUZZ」vol.44 2023より転載

    閉じる

京都賞についてAbout the Kyoto Prize

「京都賞」は、稲盛和夫氏(京セラ株式会社創業者)により1984年に設立された稲盛財団による、科学や技術、思想・芸術の分野に大きく貢献した方々に贈られる日本発の国際賞です。「科学や文明の発展と人類の精神的深化のバランスをとりながら、未来の進歩に貢献したい」。稲盛和夫氏のそのような願いが込められています。

アリアーヌ・ムヌーシュキンは、この京都賞の第35回(2019年)の思想・芸術部門を受賞しています。

贈賞理由

アリアーヌ・ムヌーシュキン氏は1964年に創設した「太陽劇団」を半世紀以上率い、国際的に評価された傑作を次々と世に創出した。その卓越した才能の根幹には演劇は共同で考え、創造し、享受すべきだとの信念がある。氏は多様な人材を糾合し、彼らの中に眠っている技能や創造力を開花させることで、劇団員の高い精神性と奔放な想像力を育んだ。
制作に際して氏はまず演劇作品のあり方を問い、舞台芸術の創造を原理からとらえ直そうとした。それはヒエラルキーを排した劇団組織や、舞台創造の方法論としての集団創作に現れている。さらに観客を演劇に欠かせないもう一人の「創造者」として位置付け、俳優・演出家と観客の間に強い関係を築くことを意図した。パリ郊外のカルトゥシュリーを拠点とする劇団の公演はさまざまな人々が出会う祝祭的な場として体験され、「民衆演劇」の理想を実現したと言える。
氏は観客の感性に訴えるためサーカス、コメディア・デラルテ、日本の能、歌舞伎、文楽、インドのカタカリ舞踊劇などの伝統芸能を参照しつつ、身体性を重視した演技法を探求した。それらを現代人の感性で再構築し、俳優の即興演技を生かした独自の方法を案出した。その一つが文楽に想を得た『堤防の上の鼓手』(1999)だ。ここで追求したのは演劇を舞踊、音楽、文学など他の分野と融合させた総合芸術で、現代演劇で行われた同様の試みの中でも傑出した成果をあげた。1980年代初頭には『リチャード二世』(1981)を皮切りにシェイクスピア三部作を上演、古典劇の新演出でも優れた手腕を発揮した。それまでの作品『1789』(1970)などと同じく、同時代人とともに自らの歴史を把握し直し、混沌とした現代の闇を明示しようと試みた。エレーヌ・シクスー氏の叙事詩によりカンボジアの大虐殺を描いた『カンボジア王シアヌークの恐るべくも未完の物語』(1985)や、数々の証言に基づいて難民らの苦闘を綴った『最後のキャラバン宿』(2003)などでは適度の娯楽性を保ちつつ、同時代人の歴史・政治への強い意識啓発を促した。
かくのごとく、ムヌーシュキン氏の活動は演劇創造の方法と表現を革新し、世界的に大きな刺激と影響を与え続けている。以上の理由によって、アリアーヌ・ムヌーシュキン氏に思想・芸術部門における第35回(2019)京都賞を贈呈する。

(「京都賞」WEBサイトより引用)

  • ムヌーシュキンによる記念講演
    「この賞は誰に贈られたのか?」

    日時:2019年11月11日(月)
    会場:国立京都国際会館
    2:22~5:14「講演要旨」(訳:中条省平)
    52:15~1:02:10  « La galaxie du Théâtre du Soleil » © Théâtre du Soleil

    日本語フルテキスト(PDF)

    閉じる
  • ムヌーシュキンへのインタビュー映像

    日時:2019年11月13日(水)
    会場:グランドプリンスホテル京都「茶寮」
    インタビュアー:片岡文子

    閉じる

観劇サポートSupport available for watching performance

本公演では、お客様の観劇に際して以下のサポートのご用意をしております。
ぜひご活用ください。

  • 東京公演

    ■車椅子でご鑑賞のお客様へ
    ※車いすでご鑑賞を希望のお客様は、ご案内できるスペースに限りがあるため、ご来場前に東京芸術劇場ボックスオフィスへお問合せください。

    ■聴覚支援システム
    ※全日程でヒアリングループ(磁気ループ)を作動します。
    劇場の構造上ご利用いただきにくい座席が一部ありますので、
    事前に東京芸術劇場ボックスオフィスにてご確認ください。

    ■託児サービス
    【東京芸術劇場でご鑑賞の際には、一時託児をご利用頂けます】
    (生後3ヵ月~小学校入学前までのお子様対象/有料・定員制・土日祝を除く希望日1週間前迄に要申込)
    ご予約受付・お問合せ:株式会社ミラクス ミラクスシッター TEL.0120-415-306(平日9:00~17:00)

    詳細は、東京芸術劇場ボックスオフィス TEL.0570-010-296(休館日を除く10:00~19:00)、
    または当劇場webサイト(鑑賞のサポート)にてご確認ください。

  • 京都公演

    ■きこえない・きこえづらいお客様へ
    <ヒアリングループ>
    ヒアリングループをご利用いただけます。ヒアリングループとは、舞台付近で集音した音を送信機から専用受信機へ送ることで、舞台の音をクリアに聞くことができるシステムです。磁気コイル付補聴器・人工内耳を装用の方に、舞台音声を伝える機器をご用意しています。(補聴器をお持ちでない方には専用受信機の貸出あり)

    【お申込み】
    座席位置・提供数に限りがございますので、下記までご予約・お問合せください。
    ロームシアター京都 TEL. 075-771-6051 Fax.075-746-3366
    Email. accessibility@rohmtheatrekyoto.jp
    Fax/Emailの場合、以下の通りお知らせください。内容確認後、こちらからご連絡致します。
    件名:「太陽劇団 観劇サポート」
    ①お名前 ②ご希望のサポート内容 ③日程 ④観劇人数

    ■車椅子でご来場のお客様へ
    本公演では車椅子席のご用意がございます。座席位置・提供数に限りがございますので、下記までお問合せください。なお、同伴の介助者がいらっしゃる場合もあわせてご相談下さい。
    お申込・お問い合せ:ロームシアター京都チケットカウンター TEL. 075-746-3201

    ■福祉専用駐車場、多目的トイレがご利用いただけます。また、車椅子のお貸出しも承っております。
    お申込・お問い合せ:ロームシアター京都 TEL. 075-771-6051

    ■託児サービスについて
    両日ともに託児サービスを実施いたします。
    対象年齢:3か月~就学前 料金:有料 1,000円 /1公演/1人
    託児サービスの詳細・お申込みはロームシアター京都WEBサイト公演ページをご覧ください。

スケジュール&チケットSchedule&Tickets

  • 東京公演
  • 京都公演

2023年10月20日 (金) ~10月26日 (木) ※23日(月)休演

10/20 (金) 10/21 (土) 10/22 (日) 10/23 (月) 10/24 (火) 10/25 (水) 10/26 (木)
14:00 休演
18:00 休演

※10/21、10/25の上演終了後、ポストトークを開催。詳細は下部をご覧ください。
※開場は開演の30分前。

全席指定(税込)
S席¥9,800/A席¥7,800/65歳以上(S席) ¥8,300/25歳以下¥5,500/高校生以下¥1,000

※未就学児はご入場いただけません。
※65歳以上、25歳以下、高校生以下割引チケットは東京芸術劇場ボックスオフィスにて前売のみ取扱い(枚数限定・要証明書)。
※一般料金のチケットで年齢割引の対象者様が入場されても差額の返金はできません。また、年齢割引のチケットで一般の方がご入場される際は、公演当日に受付で差額のお支払をお願いいたします。
※障害者手帳をお持ちの方は、割引料金でご観劇いただけます(要事前申込)。詳細は、東京芸術劇場ボックスオフィス、または当劇場webサイト(鑑賞のサポート)にてご確認ください。
※やむを得ぬ事情により、記載内容・公演情報等に変更が生じる場合がございます。
※営利目的の転売は固くお断りいたします。
※公演中止の場合を除き、ご予約・ご購入いただきましたチケットのキャンセル・変更は承れません。
※ご来場前に必ず当劇場webサイト内の注意事項と本公演の最新情報をご確認ください。

[発売日]
一般発売 2023年 7月15日(土) 10:00~

[チケット取扱]
▶東京芸術劇場ボックスオフィス
TEL.0570-010-296(休館日を除く10:00~19:00)
※一部携帯電話、PHS、IP電話からは、ご利用いただけません。
WEB https://www.geigeki.jp/t/
窓口 営業時間:休館日を除く10:00~19:00
※24時間受付(メンテナンスの時間を除く)

▶チケットぴあ https://pia.jp/t/geigeki/ セブン-イレブン
▶イープラス https://eplus.jp/geigeki/ ファミリーマート
▶ローソンチケット https://l-tike.com/ ローソン、 ミニストップ店内 Loppi
▶Confetti (カンフェティ) https://www.confetti-web.com/
0120-240-540 ※通話料無料 (平日10:00~18:00 オペレーター対応)

お問合せ:東京芸術劇場 TEL.03-5391-2111(代表)


【追加席発売決定!10/17昼12時より~】
舞台美術プラン決定により、全日程追加席を発売いたします。
※追加席は客席の都合上、舞台の一部が見えづらい可能性があります。
席種:
S席 9800円(税込)※日時限定・若干枚数
追加席7800円(税込)
※一部見えにくいシーンがある場合がございます。予めご了承ください。
東京芸術劇場ボックスオフィスのみ取り扱い
WEB:10月17日(火)12:00~
電話・窓口:10月18日(水)10:00~
⇒https://www.geigeki.jp/ti/


【ポストトーク開催決定!】
10/21、10/25の上演終了後、ポストトークを開催することになりました。

◎10/21
登壇者:
アリアーヌ・ムヌーシュキン(演出家・太陽劇団創立者・主宰)
太陽劇団劇団員
モデレーター・通訳:横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)
※観客のみなさまから質問を受けつけ、それに応答する形で進行します。
劇団員も多数参加予定ですのでぜひお楽しみに。

◎10/25
登壇者:
アリアーヌ・ムヌーシュキン(演出家・太陽劇団創立者・主宰)
宮城聰(演出家・東京芸術祭総合ディレクター・SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督)
モデレーター・通訳:横山義志(東京芸術祭リサーチディレクター)
各日ポストトーク開催日の上演チケットをお持ちの方は、
そのままお席でご参加いただけます。約40分を予定しています。
他日の本公演チケットをお持ちの方でポストトークのみ観覧希望の方は先着順で受付します。

●他日のチケットをお持ちの方、トーク観覧受付方法
・16:30より先着順で20名様まで受付いたします。
・他日のチケット本状(または半券)をお持ちください。
・立ち見となる可能性がございます。予めご了承ください

【当日券情報】
当日券を次の通り販売いたします。
販売開始時間:11/4(土)、5(日)両日とも12:00~(開演2時間前)
販売場所:2階メインホール受付
料金:全席指定|S席8,000円、A席6,000円、ユース(25歳以下)4,000円、18歳以下無料、見切れ席6,000円※
※見切れ席は当日券のみで販売
※ユース・18歳以下チケットをご購入の方は、公演当日、年齢が確認できる証明書のご提示が必要です。
※未就学児入場不可。

販売枚数:50枚程度(予定)
購入枚数制限:おひとり様2枚まで
詳細はこちら

2023年11月4日(土)、5日(日)両日14:00開演
※開場は開演の45分前

全席指定(税込)
S席¥8,000/A席¥6,000/ユース(25歳以下)¥4,000/18歳以下¥0(要申込)

※未就学児入場不可
※ユース(25歳以下)および18歳以下チケットは、公演当日に受付にて年齢が確認できる証明書(学生証、免許証等)をご提示ください。
※18歳以下無料ご招待の詳細はこちら(7月上旬公開予定)

[発売日]
一般発売 2023年 7/15(土)10:00~
劇場会員先行発売※ 7/8(土)10:00~
※フレンズ会員(オンライン会員)、Club会員(京都コンサートホール・ロームシアター京都共通の会員制度)・京響友の会会員

[チケット取扱]
▶オンラインチケット 24時間購入可 ※要事前登録(無料)
 https://www.s2.e-get.jp/kyoto/pt/
▶ロームシアター京都 チケットカウンター
 TEL.075-746-3201(窓口・電話とも10:00~17:00/年中無休 ※臨時休館日等により変更の場合あり)
▶京都コンサートホール チケットカウンター TEL.075-711-3231
 (窓口・電話とも10:00~17:00/第1・3月曜日休館 ※休日の場合は翌日)
▶チケットぴあ http://pia.jp/t[ Pコード:519-574]
▶イープラス http://eplus.jp/taiyou/
▶ローソンチケット https://l-tike.com/ [Lコード:53017]

お問合せ:ロームシアター京都チケットカウンター TEL.075-746-3201

アクセスAccess

  • 東京公演

    東京芸術劇場

    〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-8-1
    TEL.03-5391-2111(代表)

    JR・東京メトロ・東武東上線・西武池袋線 池袋駅西口より徒歩2分。駅地下通路2b出口と直結

  • 京都公演

    ロームシアター京都

    〒606-8342 京都市左京区岡崎最勝寺町13
    TEL.075-771-6051(代表)075-746-3201(チケットカウンター)
    FAX.075-746-3366

    ・京都市営地下鉄東西線「東山」駅下車1番出口より徒歩約10分
    ・市バス32・46系統「岡崎公園ロームシアター京都・みやこめっせ前」下車すぐ
    ・市バス5・86系統「岡崎公園 美術館・平安神宮前」下車徒歩約5分
    ・市バス31・201・202・203・206系統「東山二条・岡崎公園口」下車徒歩約5分

東京公演

特別協賛:シャネル合同会社

助成:アンスティチュ・フランセ パリ本部/LVMH

協賛:公益財団法人稲盛財団、公益財団法人大林財団、パリ・ポンピドゥー・センター日本友の会、株式会社ポーラ

後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ

主催:東京芸術祭実行委員会[公益財団法人東京都歴史文化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)、東京都]、日本経済新聞社
協賛(東京芸術祭):アサヒグループジャパン株式会社

Special Sponsorship by CHANEL G.K.
Sponsored by LVMH and supported by Institut français in Paris
Sponsored by Inamori Foundation, The Obayashi Foundation, Japanese Friends of the Centre Pompidou, POLA Inc.
Cooperated by the Embassy of France in Japan/ Institut français du Japon

Presented by Tokyo Festival Executive Committee
[Tokyo Metropolitan Foundation for History and Culture (Tokyo Metropolitan Theatre, Arts Council Tokyo), Tokyo Metropolitan Government], Nikkei Inc.
Tokyo Festival Sponsored by Asahi Group Japan, Ltd.

京都公演

特別協賛:公益財団法人稲盛財団

助成:アンスティチュ・フランセ パリ本部 / LVMH

協賛:シャネル合同会社

後援:在日フランス大使館 / アンスティチュ・フランセ、京都市教育委員会

文化庁 劇場・音楽堂等の子供鑑賞体験支援事業

共催:京都新聞

KYOTO EXPERIMENT 2023 提携プログラム

主催:ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)、京都市

Special Sponsorship by Inamori Foundation
Sponsored by LVMH and supported by Institut français in Paris
Sponsored by CHANEL G.K.
Cooperated by the Embassy of France in Japan/ Institut français du Japon
Nominal support by Kyoto City Board of Education
Supported by the Agency for Cultural Affairs, Government of Japan in the fiscal
Co-presented by The Kyoto Shimbun

Kyoto Experiment 2023 Partner Program

Presented by ROHM Theatre Kyoto (Kyoto City Music Art Cultural Promoting Foundation), Kyoto City

Turn your phone

スマートフォン・タブレットを
縦方向に戻してください