ディミトリス・パパイオアヌーは1964年にギリシャに生まれ、アテネ美術学校に学んだ振付家・演出家である。2004年のアテネ・オリンピックにて開閉会式の演出を担当したといえば、ギリシャの神話や美術(史)の形象をちりばめた壮大なスペクタクルを思い出す人も多いだろう。開閉会式の演出に指名されたときにはまだ30代であったパパイオアヌーも今では50代になり、ギリシャはもちろんヨーロッパ諸国ではきわめて高い評価と人気が確立している。 このたび彩の国さいたま芸術劇場でとロームシアター京都で招聘公演が実現することになった『The Great Tamer』(偉大なる調教師)も、初演以来、世界各地でツアーが続く彼の代表作の一つである。2009年には同年に急死したピナ・バウシュに捧げた『Nowhere』という作品を発表していたパパイオアヌーだが、2018年には、彼女が率いたヴッパタール舞踊団に新作『Since She』(彼女が……ときから)を振り付けてもいる。 だが、パパイオアヌーの才能が最初に認められたのは美術、イラストレーション、漫画(漫画といっても総じて芸術性の高いものである)の領域であった。彼が舞台芸術に転じるきっかけになったのが、ニューヨークに滞在していた1986年に、エリック・ホーキンスらのダンスと出会ったことだという。その後の1989年にはベルリンに滞在してロバート・ウィルソンのアシスタントも務めている。
彫像と対話するような美の世界 『The Great Tamer』をはじめとするとするパパイオアヌー作品は、ダンスとフィジカル・シアターとインスタレーションの交差するところにあるといえるだろう。それはまず、シュルレアリスム的ともいえる、夢のようなイメージが連鎖するスペクタクルである。言葉は用いられないが、だからといって演劇性やユーモアを拒むわけではない。美術畑の出身であるだけあって、セノグラフィ(舞台美術)には工夫が凝らされ、ギリシャ的な──ということはルネサンス以降のヨーロッパ全体の──芸術と美、さらにいえばエロスの歴史に対する言及であふれ、そして何より、視覚的に完成され、どの瞬間をとっても美しい。まさに古典的な美を体現する彫像のような(とりわけ男性の)パフォーマーの存在も、そうした美的・詩的な印象をさらに強める。 言葉を発することのない彫像が、私たちに何かを語りかけてくる、そしてその言葉を聞き取ろうとして私たちがさらに耳をそばだてるときのような関係が、パパイオアヌーの舞台と観客の間にも存在している。特に、ミロのヴィーナス、ヘラクレスのトルソといった、不完全な状態にある彫像を見て、失われた部分を想像しながら、私たちがそれらと「対話」するのに似ていると思うのだ。
生と死の往還 『The Great Tamer』は、友達からいじめを受けて自殺した少年が泥に埋もれていたところを発見された、という痛ましい事件を出発点としているという。だが、そう言われなければ気づくこともないほどに、パパイオアヌーの想像力によって、作品はそこから大きくふくらみ、幻想的かつ普遍的な世界へと広がっている。言葉を伴わないイメージの連鎖からなるこの作品に物語性は希薄であるが、ある一定の主題性は感じられる。それは、生と死、エロスとタナトス、命あるものと命なきものの間の往還といえるだろうか。 身体はときに動き、踊り、空を舞い、エロスを体現し、笑いを引き起こし、ときに崩れた彫像のように断片となり、ときに動くのをやめる。同じように、一見するとパネルを重ねた斜面から構成される舞台空間も、それ自体がすでに完成された「作品」にも見えるのだが、その完成は決して不動のものではなく、不安定でもろく儚いものであることが分かる。地面の下には様々な仕掛けが凝らされ、隠され、思いがけないところから思いがけないものが現れ、さりげなくも変わりゆく照明の効果も相まって、空間もまた生命を得た、息づく存在であるかのように振る舞うのだ。 この作品では息や風も重要な役割を果たしているのだが、プシケやプネウマといった語に見られるように、ギリシャ語においては空気の流れ、息吹き、生命、魂/精神が密接に結びついていたことを思い出させる。その意味で、『The Great Tamer』の身体と舞台装置は、どちらも生と死、運動と静止の間を往復してみせる点で等価であって、それを同じ時空間のなかに調和させ共存させるその手つきは魔術的である。 2017年7月にアヴィニョン演劇祭で上演された『The Great Tamer』を私が見て、聞きとったことを、いくつかの資料やウェブサイトから得られた情報を交えて、このように綴ってみた。この作品に正しい見方など存在しない。みなさんが本作品とどのような対話を交わされるのか、日本公演が楽しみである。