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公演評

比類ない舞台の美学

竹田真理(ダンス批評)
2020.3.31 UP

舞踊において人形は定番のモチーフのひとつで、「人形振り」は記号であり作品の見せ場にもなる。「コッペリア」や「くるみ割り人形」などのバレエ作品では、人形に息が吹き込まれて物語が始まり、キャラクターが人形に帰るところで現実の時間に引き戻される。人形がモノに戻る瞬間は切ないものだ。動と不動、幻想と現実、異なる時間のあわいにある人形という形式は、国立の芸術学校で人形劇を学んだジゼル・ヴィエンヌとエティエンヌ・ビドー=レイにとって想像力を掻き立てずにはおかないモチーフだったろう。

ただし本作に現われる人形はファンタジーへの導き手とは異なる。ショールームの奥の壁際に並んだマネキン――等身大の人間の形をしたダミー――は、一様にモノクロの服を着け、項垂れて髪で顔を隠し、異様な印象を与える。舞台は三方を囲む白い壁と白い床が一体となったミニマルな空間である。舞台の中ほどには黒い椅子が並んでいて、黄色い服の女性(朝倉千恵子、ダンサー1)が座っている。ひとり自由に歩くダンサー1の存在を通して、マネキンたちが一体ずつ、不動の状態を解かれていく様子が描かれる。

最初のマネキン(高瀬瑤子、ダンサー2)は、グロテスクな仮面をかぶり、ファッションショーのモデルの歩きで舞台手前に出てきてポージングをする。自らを展示するように床上で360度自転するダンサー2は消費社会のアイコンであり、その虚ろな身体はダンサー1が触れると簡単に傾いてしまう。白い靴下、短いスカートをはいた少女の風貌のマネキン(大石紗基子、ダンサー3)は、作品中、ダンス的なムーブメントを見せる唯一のダンサーだが、その人形振りは過激で痛ましい。意志を持たない人形の身体は、ダンサー1が支えの手を離せば床に崩折れてしまう。前屈した身体が思わぬ勢いで反動したり、制御を外れて椅子から転げ落ちたりする様子は、当のダンサー3自身を欺くかのようである。

以前、読んだある対談(註1)では、それを越えれば人間としての条件を失ってしまう臨界にある身体像として、死体、動物、機械、マヌカンの4つが挙げられていた。それぞれ死、獣性、制度、空虚と、「ネガティブな身体の理想像」を示していると考えられる。今日ではAIやVRの技術の到来が従来の身体観の境界を揺るがせにするが、「ネガティブな」身体像の原型という観点で見れば、本作において息の吹き込まれた、人間との境界にあるマネキンたちもまた、そのあり方が主体を疎外するような、負のイメージをまとった身体である。ダンサー2と3は、やがて崩壊するように床に四つ這いとなり、呪われた存在としての様態を晒す。身体の祝福されない側面を通して人間性(とそうでないもの)をみつめるヴィエンヌの眼は、一昨年に上演された暴力を扱った作品『CROWD』にも共通したものである。

「人形」に並ぶ本作のもう一つの主題は「マゾヒズム」だ。着想を得たマゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』は、対象への崇拝や服従、被虐を、華麗な筆致で狂おしく描いている。本作ではこれを女性ばかりのダンサーに置き換え、非対称の権力関係が支配する集団の景として振付けようとする。しかもその筆致はマゾッホに反して極めてストイックだ。

ダンサー4(花島令)の登場により、この非対称の関係性は顕著になる。マスキュリアンな雰囲気をもつダンサー4は他のダンサーに対し優位に振る舞う。4に引き寄せられていくダンサー3の背中に腕を回し、ゆっくりと揺れるダンスは馥郁として美しい。しかし4は3を愚弄し、3は4の足元に跪く。行為は引き延ばされた時間の中で進行し、同性愛的なエロティシズムや主従の関係がアイロニーとともに極めて抑制的に描かれていく。

中盤以降、5人目、6人目のダンサー(藤田彩佳、堀内恵)も加わった集団のシーンの展開では、テクノミュージックとともにせわしなく動くアンサンブルと、音楽が止み、静止画となった舞台の美学とが対比的に示される。動と不動を繰り返すごとに、6人はダンサー4に対して距離を取るように舞台に自らを配置する。そうすることでダンサー4を頂点としたヒエラルキーが可視化される。終盤に向かうにつれ、6人の身体は張り詰めた糸のように高いピッチで統制され、超低速の動きとストップモーションの間を行き来する。ダンサー相互の関係性の糸と、個々の身体をコントロールする糸によって、6人の身体は動と不動、時間の流れと停止、もっと言えば生と死の間で宙吊りにされる。次の瞬間には死に出会うやもしれない微妙で繊細なバランスが無機的な空間にコレオグラフされていくのである。やがて何かが崩壊するように、ダンサー4は四つ這いになり、くったりと床に身を沈める。煙草の煙から照明に至るまで緻密に演出された空間の美学は、ヴィエンヌならではの美意識とビドー=レイのモダニズムへの関心が融合した比類ないものと言っていいだろう。

こうした研ぎ澄まされた舞台の美学の一方で、観客が受け取るべき意味性や作品全体の相貌といったものは希薄であったと言わねばならない。マゾヒズムから敷衍される非対称の関係性については、ナラティブがダンサー4と3の関係にほぼ集約されており、その他の細部が十分に見えてこないため、ともするとヒエラルキーのスタティックな構図の印象にとどまってしまう。個々の身体のモチベーションとなるはずの心理や感情の力学を、空虚なマネキンに問うのは語義矛盾だろうか。

先述の『CROWD』では、集団の中で随時クローズアップされる身体のエピソードの集積が、愚行の果ての精神性を、キリスト教文化やヨーロッパの文脈をも思わせながら濃厚に立ち上げていた。全体性の裂け目から漏れ出てくるような個々の血肉化されたコレオグラフィが、日本人のダンサーによって体現されることは可能だろうか。高いハードルではあるが、上演を重ね、レパートリーとして成熟していくことを望みたい。

(註1)鷲田清一+松浦寿輝「身体、皮膚、テクスチャー」、季刊インターコミュニケーション No.11

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