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#公演評#舞踊#2025年度

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『Sweet Mambo』ロームシアター京都公演評

燦たる不在

文:堀奈津子 編集:浄土複合ライティングスクール
2026.2.17 UP

 ピナ・バウシュが踊っている。

 映画『トーク・トゥ・ハー』(ペドロ・アルモドバル監督、2002年)の冒頭、ピナ・バウシュの舞台作品『カフェ・ミュラー』が劇中劇のように現れ、白いスリップドレスのピナが踊る。映画の登場人物、若きダンサーの女性は事故により植物状態に陥り、ピクリとも動かなくなった心身のままベッドで月日を過ごしている。腕を広げ、しなやかに身体を折り曲げ、目を瞑りながら踊るピナの姿は、動かなくなった女性ダンサーの深奥に宿る祈りのようである。

Photo: 大島 拓也(ノーザンスタジオ)

舞う葉

 演劇とダンスを融合させた〈タンツテアター〉の手法をとり、コンテンポラリー・ダンスの新たな動向を切り拓いたピナ・バウシュ。『Sweet Mambo』は最晩年の作品であり、本公演はピナと過ごした時間が沁み込んでいるダンサーたちによる再演となる。ピナの眼差しと向き合って対話を重ね、その特有の振付けを体得し、彼女の喪失と共に生きるダンサー、そのメンバーゆえに何かしら格別な意味合いを帯びるのかもしれない。

 人は踊る。なるべくしてその踊りになるのなら、その根源にあるものは何なのか。日頃忘れている熱源が揺さぶられる余韻から、鑑賞後の観客には、そんな問いも立ち現れるだろう。

 完結したストーリーは、ない。一つの物語から切り離されたような断片が集まる。断片はひらりと舞う木の葉のようである。ときに渦まく烈風に舞う葉の群像となり、やがて落ち葉の絨毯となって一面に広がる。一つひとつにダンサーのドレープ豊かなドレス、たなびく髪、巨大なカーテンのような白い布が共にある。選ばれし音楽があり、生々しい感情がある。歓声、雷鳴、光がある。

 ふいに、ダンサーの頭部はバケツの水を浴びる。空っぽになったバケツは床に転がる。水浸しになった彼女の顔と長い髪、その冷ややかな感触が観客に伝わる。なぜ水を、そんな理由は不問に付され、その感触と濡れた髪のビジュアルにより、水は確かな存在を示す。水に濡れたダンサーは踊る。しぶきが飛ぶ。

 巨大な白い布はスクリーンとなり、古い白黒映画を映し出す。白い布の端に黒いものが映されている時、黒い衣服のダンサーが布の端からスッと後ろへ入り込み、姿を消した。布が匿ったかのように。

Photo: 大島 拓也(ノーザンスタジオ)

 激情がある。女性が叫びながら突き進もうとするのを、両脇にいる男性二人がくるりと向きを変え、彼女の腕を掴んで食い止めんとする。荒々しい感情があり、力の衝突がある。何かにありそうなシチュエーションであり、見る者は自由にイメージを投影できるのだが、奇妙なことにその場面を幾度も繰り返す。

 正確には、繰り返しではない。仮に、男がくるりと向きを変え、突き進む女を食い止めんと力で抑え込むところまでの映像を巻き戻して再生するなら、繰り返しだろう。が、舞台上の生身の身体は最初の立ち位置まで戻ってもう一度始める。何度もやるほどに動作は省略され、女は小走りで戻るため、その姿におかしみが生じる。もはやシリアスな状況だけではない。意味がころがる、変転する。激しい感情も衝突する身体も、ごろんとした物のように舞台に存する。こうして葉は次々と舞い、音楽が響く。

 一方、観客にセリフを投げかけるなど演劇的要素も濃い。日本公演に合わせて日本語を発する場面も少なくないため、観客には言葉の意味が浮き彫りになる。「わたしを忘れないで」という言葉自体は凡庸だが、ダンサーたちの叫びのようなリフレインにより観客の耳朶を打つ。序盤で何度か発するこのセリフと、その意を汲もうとする観客の間で、ひとつの磁場が形成されたのかもしれない。

 ユーモアある会話のやりとりや動きから、ぽっと笑いが起きると劇場内の空気が軽く振動し、熱くなる。これは破調、あるいはコメディリリーフの効果を放つだろう。前半で目立つこの傾向は、後に待つ真打ちを輝かせる役目を担う。その真打ちはしかし、人体の限界に挑む超絶技巧ではなさそうだ。

 ピナ・バウシュ独特の振付けに、ダンサーは自身の感情を入れ込んでいく。練達の身体だから可能な表現だが、基幹にあるのはすべての人間が持つ生々しさといえよう。それがおかしみであれ切なさであれ、見る者になだれ込むから、こころが踊る。共に踊る空間が作られる。

Photo: 大島 拓也(ノーザンスタジオ)

言葉とドレス

 ピナ・バウシュはもういない。しかし、そこかしこにいる。

 たとえば俳優としての彼女。映画『そして船は行く』(F・フェリーニ監督、1985年)では、音楽の色彩が見える皇女の役どころであり、色を見つめる深い眼差しを見せながら語る。ライヴ映像『LIFE—fluid, invisible, inaudible…』(坂本龍一+高谷史郎、1999年)では、ピナのこんな言葉が挿入される。「Dance! Dance! Otherwise we are lost!(踊って、踊って!自分を見失わないように!)」「Don’t cry! Sing!(泣かないで!歌って!)」。まさに彼女自身を表すにふさわしい言葉だが、実は前者は十一歳のダンス好きの少女の言葉が元にあり、後者は、東京からヴッパタールに来た百歳を超える男性が幼い頃、母から言われた言葉だという。ダンスと歌の心髄は、時間も空間も超えて共振し、ピナの言葉となる。

 映画『ピナ・バウシュ 夢の教室』(アン・リンセル監督、2010年)は、ダンス経験のない十代の少年少女が、ピナの作品『コンタクト・ホーフ』の舞台に立つまでを描くドキュメンタリーである。ある日、天井人のようなピナが彼らの練習所を訪れ、一同に緊張が走る。畏怖される師は「噛みつかないわ」と穏やかに語りかけ、「関節がないみたいに柔らかく」と助言をし、関節がないかのようにそよいでみせた。限りない包容力と瞬時に見抜く峻厳さを同時にあわせ持つ。

 ピナの友人で映画監督のヴィム・ヴェンダースは、彼女の没後、『Pina/ピナ・バウシュ ― 踊り続けるいのち』を製作する。彼女への深い思いのあるダンサーが一列になり、明るい顔と仕草で踊るように歩くシーンが3回登場する。そこに彼女はいないが、彼らの視線の先に彼女がいる。そう思わせる何かがある。ダンサーそれぞれが亡き彼女を語る場面や、往時の彼女の語りがあり、ここでも時間と空間を超えた、あの言葉を呟く。「Dance! Dance! Otherwise we are lost!」。

 映像の中で出会えるピナ・バウシュ。断片的な彼女の語りやうつむき加減の表情、踊りのように柔らかな仕草は、空を舞う葉のようである。公演がそうした姿を呼び起こし、ダンスの向こう側に彼女の言葉が垣間見える。

 終盤近く、万朶の彩りを感じさせるドレスを着た女性と黒いタキシードの男性が、典雅な音楽に合わせて踊る舞踏会は高揚感に包まれる。

Photo: 大島 拓也(ノーザンスタジオ)

 ドレスは慎重に選ばれているにちがいない。その薄く柔らかな素材は彼女たちの皮膚、あるいは分身のようである。ダンサーがすっと足を延ばせばドレスの襞はしなやかに広がって動きを助け、ダンサーがターンするとより大きな弧を描いて大輪となる。つるりとしてシンプルに見える造形だが、確かな仕立て技術と良き素材が下支えしているだろう。

 波打つ髪もまた、ダンサーとともに踊るドレスである。黒褐色や金色の筆触のごときドレス。髪が視界を妨げたとしても、汗で顔に張り付いたとしても、みごとにスイングし頭上に君臨する。

 舞踏会のダンサー一人ひとりに多幸感がある。ピナと一緒に創ったという『Sweet Mambo』の甘やかな夢があり、ここにいない演出家からの祝福すら感じさせる。そして、多数のダンサーからソロに移り、踊りのテンションはぐっと高まる。奥底にしまい込んだ哀しみも悦びも鼓舞するに足る、長い時間である。白い布を背景に踊るダンサーは、天に供物を捧げる巫女の様相を呈する。

 思えば、本公演の舞台にはいつも巨大な白い布が共にあった。それは風を受けてなだらかな曲線を描き、場面に応じて形状を変化させながらダンサーと一緒に踊る。ピンクのドレスを着たダンサーを際やかに見せるために、白い布は暗いブルーの光に身を沈める。ダンサーのほとばしる汗と熱い身体を受けとめる。舞台を包み込む、その大きな白い布に、ピナ・バウシュの白いドレスを見る。

 ピナ・バウシュが踊っている。

Photo: 大島 拓也(ノーザンスタジオ)

  • 堀奈津子 Natsuko Hori

    名古屋市生まれ。立命館大学卒業後、司書として勤務。浄土複合ライティング・スクール6期生。

  • 浄土複合  Jodo Fukugoh

    制作、発表、批評が交差するアートスペースとして、2019年、京都市左京区にオープン。同年にスタートしたライティング・スクールでは、受講生が年間を通じて展覧会レビューの執筆や雑誌の編集に取り組んでいる。https://jodofukugoh.com

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