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「ショールームダミーズ #4」公演評

造反する肉体―表層と深層を反復するトポロジー

文:飯田高誉
2020.3.31 UP

フランスの舞台演出家であるジゼル・ヴィエンヌが、エティエンヌ・ビドー=レイと共に手がけた初期の代表作『ショールームダミーズ』を、ロームシアター京都のレパートリーとして改めて再創造したのが『ショールームダミーズ#4』である。『ショールームダミーズ#4』は、ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』(1870年)に生命を吹き込まれた作品である。それに関連して共同演出者のエティエンヌ・ビドー=レイは筆者の問いに対して次のように語っている(註1)。「ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』は主人公が彫刻に恋をしてその感情を人間の方に投影していく、という物語です。僕たちはそもそもマネキンや人形に興味を持っていて、そういった人工物と人間との関係性は同作の世界観に繋がると感じていました」。そしてジゼル・ヴィエンヌも『毛皮を着たヴィーナス』のほかに、ジル・ドゥルーズの批評『マゾッホとサド』(1973)にも影響を受けたことを次のように語っている。「ドゥルーズは、マゾッホの作品キーワードを、“宙吊られた物語”、そして“不動性”だと評しています。その内部にある時間性は、“過去でもあり現在でもあり未来でもある”のです。その複数の時間性を考えるうえで、『毛皮を着たヴィーナス』には非常にインスパイアされるところがあります。パフォーミングアーツのステージ上は、リアルな時間とはまた別の複数の時間性が存在できる場所なのです」

『ショールームダミーズ #4』における「宙吊り」状態とは、舞台空間そのものが変幻自在に過去・現在・未来をループ状と化し、その時間制とともにパフォーマンスの反復動作がある極点に達すると次第に変容し崩れだし、その結果肉体の過剰さが溢れて氾濫し、人間に内在している底無しのカオスが口を開くこととなる。ドゥルーズ曰く「マゾッホの小説にあっては、いっさいは宙吊りにされて極点に達する。小説に、純粋状態の小説的手段として宙吊りの未決定という技法を導入したのはマゾッホだといっても誇張はない」(註2)。「宙吊りの未決定」の永遠化こそ、ジゼル・ヴィエンヌの『ショールームダミーズ#4』の舞台上で実現したかったことであろう。そしてジゼルとエティエンヌは、『ショールームダミーズ#4』の舞台上でドゥルーズの次の描写を見事に再現してみせた。「『ヴィーナス』の全篇は、肉体と毛皮と鏡との神秘的な関係につつまれた、ティツィアーノ風の雰囲気に支配されている。冷淡なものと、残酷なものと、感情的なものとの絆が結ばれるのはかかる風土にあってである。マゾッホ的情景は、彫刻ないしは絵画のように凝固し、それ自身が彫刻と絵画の分身と化し、鏡か反映のうちに自分の影を写すことが必要なのだ(自分のイメージに不意に襲いかかるセヴェリンのように……)」(註3)。この情景は、まさに身体性とその不在、意識と無意識、そして生と死の境界領域を浮かび上がらせている。秩序を超えてカオスへ向かい、さらにカオスとカオスが重なり合っていくと、そこにある「秩序」が生まれる。ダミー(人形)自体が人間のダミーであって、人間はそのダミーを思いのままに動かそうとするが、そのうちにダミーの身体に人間の不条理が乗り移りカオスが漲る肉体の氾濫を契機に、人間に内在している不条理がマネキンに転移し次から次へ過剰に変形して浮かび上がってくる。そして、パフォーマンスにおいて同じ動作が繰り返し反復されればされるほど、逆に「冷淡なものと、残酷なものと、感情的なものとの絆が結ばれる」という分裂状態へと導きその極点で肉体を壊乱させていく。その結果、生と死の境界線が崩壊し、さらに人間とマネキンの境界線をも越えていく。その境界領域で突発的に起こるハプニングの連続性が『ショールームダミーズ#4』である。

ドゥルーズが言及した「自分の影を写す」鏡に囲まれ覆われている現代は、まさにSNS(=鏡)が進化して我々を取り巻いている環境のヴァーチャリティを映しだしている。このような状況下で身体感覚の喪失感が加速度的に増していると言えよう。『ショールームダミーズ#4』において、現代のバーチャルな環境のなかで身体というものをどのように捉えていくのか、そしてそれをどう作品化しているのだろうかという疑問をジゼルとエティエンヌに問い掛けてみた。エティエンヌは「本作では舞台上でマネキンを使っているということがリアリティーとバーチャルの分岐点。もちろんマネキンは動かないわけですが、そこにダンサーを配することで、観客はマネキンもいつか動きだすのではないかと想像する。初演から今回の4回目まで、いつもふたりの間でどれくらいマネキンを動かすべきかと相談はするのですけれど、回数を重ねるごとにやはりマネキンは動かないほうがいいと感じます。ミニマルであればあるほど、場にいろいろな力が生まれてくる」と語る。一方、ジゼルは「人形とはあくまで人間の身体を表象しているものです。日本では人形の中に魂が宿ると考えがちですけれど、ヨーロッパでは人形というのは感情の無い空虚なもののイメージなのです。この作品においては人間の方により重きを置いています。人形と対比することで、人間の存在と不在を浮かび上がらせるのです。それだけではなく、人間性の存在と不在の問い──存在の質、存在の強度とも言えますが、そこへ視点をスライドさせたい。あくまでパフォーマーの身体は現実に存在しているけれども、その身体から生まれてくる意味や物語性でいえば、存在と不在は瞬間的にシフトすることもある。それをライブパフォーマンスでやるという面白さがあります」。いかにソーシャルメディアが進化し展開しても、劇場というひとつの場所に人々が集まって時間を共有することが重要であると彼らは考えている。人々が集まることこそがコミュニティーの原点であり、これが劇場や映画館の持っている社会的価値であり、その価値がいまSNSをはじめとするインターネットによって失われつつあることに危惧している。

今や世界は、グローバル化の速度を伴って新型コロナウィルスがパンデミックと宣言され、先の見えない深刻な状況となっている。2018年にロームシアター京都にて上演されたジゼル・ヴィエンヌによる『CROWD』は、今の混乱状態を鋭く示唆した作品であると考えられるので最後に言及してみたい。『CROWD』は、狂奔の伝染病に取り憑かれた若者達を題材にしている。舞台は、あたかもマタイの受難やカラヴァッジョの絵画イメージと通底しているかのような美術演出がほどこされ、現代社会に潜んでいる人間の暴力性や衝動的な不条理性が露わにされ、それらが熱病のように若者達に感染していく。理性的な記憶にとどまらない身体的記憶を呼び起こすことによって文明と野蛮というものを対峙させていくことを考えさせられた。野蛮であることと文明化していくことは対立構造ではなくて、むしろそれらは入れ子構造になっているのではないかということを、この作品によってあらためて確信することができた。今や新型コロナウィルスの蔓延が人類を狂奔させ、「ネクロポリス」(死者の都市)と「ヒストポリス」(生命を宿す都市)の所在を浮かび上がらせている。「マタイ受難曲」の深い悲しみのアリア「神よ、あわれみたまえ」が残響している。

(註1)ウェブ美術手帖 ジゼル・ヴィエンヌ & エティエンヌ・ビドー=レイ インタビュー
https://bijutsutecho.com/lp/againstcontemporary/interview.html
(註2)ジル・ドゥルーズ「マゾッホとサド」(蓮實重彦 訳 晶文社 1973、P44)
(註3)ジル・ドゥルーズ 前掲書、P89

  • 飯田高誉 Takayo Iida

    1956年生まれ。スクールデレック芸術社会学研究所所長、国際美術評論家連盟会員。京都造形芸術大学国際藝術研究センター所長を経て、COMME des GARÇONS Sixキュレーター、青森県立美術館美術統括監。現在、インディペンデント・キュレーターとして数々の展覧会を企画。主な著作に「戦争と芸術-美の恐怖と幻影」(立東舎、2016)、「文明と野蛮のアーカイヴ」(新曜社、2020)など。

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