砂のように、音が舞いあがる。
暗がりのホールに現象する無数の音たちが、音の砂嵐を巻きあげているのだ。突如、口をひらいたその砂嵐の深淵へ、呑まれるように引き寄せられていくのは、異界からやってきたような叫びに似た響きである。ボンゴやコンガの民族楽器から、マリンバ、ヴィブラフォン、シンバルにウッドブロック、そして和太鼓まで。打楽器の硬質な音の連なりに召喚されて、音と音の協奏は、ノイジーなエレクトロニクスの叫びをこの空間へと招き寄せる。とどまることをしらず高まりつづけるエントロピーは鑑賞者の身体を巻き込み、だんだんと空間全体を歪ませてゆく。
さまざまな音楽的実験を展開してきた「Sound Around」の第三回目は、荒れ狂う砂塵のように音が物質性を帯び、空間を物理的に様変わらせる、そんな幻影の時間であった。打楽器の音が鳴らされるたびに、それまで鎮静していた場の空気が、音という振動を帯びた、ひと粒ひと粒の粒子となって存在を主張しはじめる。それが反響を伴って場につぎつぎと繰り出されることで、ふだんは意識にのぼらない不可視の空気の粒たちが、触知可能な振動する音の粒子へと目の前で変化していくかのようなのだ。
それはまるで嵐に巻きこまれた、と形容したくなる体験だ。サンドストームと呼ばれる砂嵐は、ときに上空数千メートルにおよぶ壁を形成して陽の光をさえぎり、昼間でもまるで夜になったかのように暗くしてしまうという。そして終息すれば何事もなかったかのように散逸してしまう。ここで体験する音の幻影も、砂漠のなかを彷徨う旅人がつかのま見出す砂嵐の城、ひと擦りのマッチが映しだす刹那のご馳走のように、ふだん目に見えないエネルギーが突如かたちを得たかのようにありありと浮かびあがっては、さっと輪郭を溶かしてゆく。しかし、そんな嵐のなかへ放り込まれるようにして感受する爆発的なエネルギーは、矛盾するかのように緻密に造形されている。物質的な触知を伴って空間に刻印されゆく打音の精巧な組成が、誘雷針のような骨組みを構成し、そこへ荒れ狂う響きを召喚せしめているのだ。
打音が描きだす図形と磁場
はじまりの音は、なにかの落下音だ。
暗闇のなか、左、右、まんなか、左、右、まんなか……地面になにかが落ち、バウンドする音が聞こえてくる。その音は、ものの形状、重さ、落ちる地面の質感、重力のありかた……と、イメージをこちらに伝えてゆき、しだいにこの場所——音のつくりだす空間——の様相を浮かびあがらせていく。いつのまにか打音は速足の五月雨へと変わり、その音は湿度と共に外気の気配を連れてくる。人間は音から環境を読み解く生きものだ。ときに言葉に近似するメロディではなく、打音であればなおさらである。こちらの身体は簡単に、音が描きだす架空の環境へと放りこまれてしまう。
暗闇を基調とした幻想的な雰囲気のなか展開される、打楽器とエレクトロニクスの協奏の時空間は、ホストである日野浩志郎がメインアーティストと構成を担い、多彩な面々とタッグを組んで制作された。クラシック楽器から電子音まで幅広く駆使し、打楽器を軸とした数々の音楽的探求を国内外で続ける日野と組むのは、ダムタイプのメンバーとして知られ、エンジニアとしても様々な制作をおこなう古舘健、ヴィブラフォン・マリンバ奏者・作曲家の藤田正嘉、他分野との共奏を多く手掛ける打楽器奏者の谷口かんな、元鼓童メンバーで和太鼓奏者として多様な活動を展開する前田剛史。そこから織りなされる多彩な打音のサウンドスケープは、一般的なライブやコンサートとは一線を画する。うごめく砂塵のような打音の連なりは、スモークが闇にゆらめく夢幻の空間演出とあいまって、幾何学的な図形を幾重にも空間に刻印していくかのようだ。そうして辺りで眠っていた音未満の粒子たちをつぎつぎに覚醒させて連鎖を引き起こし、振動する音の粒で空間全体を埋め尽くしてしまう。
その伝播はやむことがない。高速のウッドブロックや太鼓がふちどる軽やかな図形、木魂のようにふたつのヴィブラフォンの応答が描くまあるい図形、落雷のように落ちてくる和太鼓の図形、シンバルやマリンバの端を弓がなぞるようにして生じる電子音まじりの図形。点滅するように幾重にも描かれる音の図形は、あたりの空気を震わせつづけ、だんだんと磁場のような引力を形成していく。過活性化される空間内の音と音の粒子のあいだに、なにかの気配が宿りはじめるのだ。
身体を粒子化するサウンドストーム
そしてふと、異なるものがここへ訪れていることに気づく。はじめはちいさく。しかしすぐに耳をつんざくほど強烈な存在感で。音が描く図形の磁場に引きよせられるかのようにして、招かれざる客のような異形な響きが、この場所に呼びよせられてゆく。
はじめ、それは風のようだ。入り組んだ洞窟を吹き抜ける風の音。物質と物質のあいだを通り抜ける際に軋みのように引き起こされる、和音であったり不協和音であったり、ハーモニーであったりノイズであったりする風の音だと。しかし、それはしだいに風の領域を越えはじめていく。恐ろしげに響く荒々しい反響音は、人間や動物の叫び声や悲鳴にも聞こえはじめ、無数に置かれたスピーカーや、鉄板、エレクトロニクスが事態をさらに増幅し、鑑賞者の身体にもいやおうなく負荷がかかっていく。空間全体の粒子が隈なく磁気を帯び、音という振動を携え、空間が歪んで崩壊寸前にエントロピーが高まっていくと、突然、ビー―――――――――というエラー音が空間をつらぬく。するとそれを極みに、潮が引くようにして空間はじょじょに鎮静に傾き、舞いあがっていた砂がふっと地面へ落下するようにして暗転へ至る。
ミニマルな打楽器が、つぎつぎ音と響きを呼びこみ、ついには嵐を発生させる。本作は、そのような一連のうねりが三回つづく、三部構成として捉えられるが、音の嵐が鑑賞者に見せる幻影のありようは毎回ちがう。というより、「見せる」という表現はあてはまらないだろう。舞いあがる嵐となった音の粒子は、鑑賞者の身体の細胞と細胞のあいだに分け入って、攪乱させるかのようにふるえだすのだ。すると身体は、細胞という粒子の集合体であることを呼び覚まされて輪郭を融解させ、空間の音と同期するように振動しはじめる。いまにも身体の拘束から抜け出て、音の砂塵たちと一緒に舞いあがっていってしまいそうになる。そのような強烈な身体感覚は、音楽を「聴いた」というより、音の嵐となって舞いあがった、と言ったほうがしっくりくる、サンドストーム、もといサウンドストームと呼びたくなる体験だ。
場に投じられた打音の緻密な構成が発生させる強力な磁場。そこに異界の響きを降臨させる営みは、作曲・演奏というより、儀式・召喚に近い。曼荼羅のようにめくるめいて展開される打音の圧巻の協奏は、綿密に執り行われ天へ捧げられる、雨乞いの儀をも想起させる。叫びにも木々のざわめきにも聞こえる、身体を突き破っていく強烈な響きをこの場所に降ろす音の連なりが、呪術の際に組まれる結界や、魔法陣のようなものとして浮かびあがってくるのだ。そうであってはじめて、あのような異形な響きの出どころが腑に落ちる。
「作曲(コンポジション)」をテーマに「Phase Transition」と題された本作で変容(transition)を遂げたのは、活性と鎮静をくりかえすミクロな音だけでなく、音によって粒子化され舞いあがった身体と、それを巻きこんで幻影を描く時空間全体だ。音・身体・時空間を渾然一体にトランスさせるコンポジションがこの場所で、蠢く嵐のように轟いていた。