その日の夜、庭に出るとそれまで気付かなかった変化が起こっていた。いつの間に鳴き始めたのだろう、ジジージジー、キリキリキリキリ……虫たちの「音」が、草木のそこここからさざなみのように立ち上り空気を震わせている。昨日までは意識に上っていなかったのか、それとも今日から始まったのか? それはさだかでないが、自然の営みや相のあわいに生じる変化と私たち人間との周波数が合った時、何かの「感得」が一気に流れ込んでくるということは、ある。普段は気にも留めない周辺に、何かのきっかけで突然に回路が開かれるような驚きとでも言おうか、その存在が突如、立ち上がってくるのだ。
ロームシアター京都で開催された「Sound Around 003」、「ジャンルや固定観念にとらわれない『音楽』を軸とした表現活動を行うアーティストによるパフォーマンスシリーズ」を掲げた連続企画の第3回となる本公演は、打楽器を中心としながら「作曲」をテーマに据える。藤田正嘉、谷口かんな、前田剛史らによるヴィブラフォンやマリンバ、ボンゴ、コンガ、ウッドブロック、和太鼓などの多彩な楽器群に、古舘健率いる電子音楽のエレクトロニクスが加わり、メインアーティストの日野浩志郎が中心となってひとつの楽曲を組み上げる。そこに生まれるもの、作曲(コンポジション)の可能性を観客に投げかける試みだ。
パフォーマンスの場となるスタジオ内は前方に打楽器スペース、後方にエレクトロニクスの操作卓スペースが客席を囲むようにしてシームレスに配置され、彼らの織りなす表情豊かなアンサンブルを体験する非日常空間となっていた。いわゆるステージをしつらえたコンサート会場とは違い、段差は無い。また照明やスモークの使用、暗転によるシーン分けなどの演出があるという点で多分に演劇的な要素も感じられる。
演奏はその曲調や用いられる楽器の種類などから、大きく3部に分かれると捉えていいだろう。パーカッションとエレクトロニクスとのスリリングなセッションが主となる第1部、マリンバ、ヴィブラフォンなど鍵盤打楽器による禁欲的な瞑想を思わせる第2部、続く第3部では和太鼓がメインとなり、抑制の中に炸裂するエネルギーを孕んだ鼓動を空間に穿つ。ひと打ちごとに震え整えられる空気に、それまでの喧騒や瞑想は統べられ、電子音のかすかな余韻を残し収束となる。
このように動・静・動のシンプルな形を取る本作は、それぞれの章で多種の打楽器を組み換えながらリズムの波を形成する入れ子のような構造を持つ。打音のスピードや強弱をあやつり離散と融合を繰り返す様子から、想起されるイメージは豊かだ。今回エレクトロニクスという異種の電子音が入ることで、楽器それぞれの個性がより際立っていたことも背景にあるだろう。
それだけではない。打楽器特有のビートがフィジカルに響くことで、客席自体も楽器となり、自分たちの内側にある拍動というもうひとつの楽器が呼応するような瞬間があった。この体験を含む流れ全体が、生命の共鳴を励起するひとつの劇的な儀式のようにも感じられる。すなわち、打音の鑿を自在にふるい空白を彫刻する過程とでもいおうか、そこに見えざる「何か」をかたどり、召喚せしめる一連の流れが、今回の場に創出されていたように思われるのだ。「中心」を作らない、打楽器だからこそ可能なコンポジションで、不可視の何かを予感させる。
打楽器はその性質上、曲の伴奏やスピードを維持し支える拍として、主旋律に対する「周辺」を担うことが多い。マリンバやヴィブラフォンといった鍵盤打楽器はこの限りではないが、今回それらが主となる2部においても決してメロディを奏でることはなく、音階を変化させつつ規則的な調べを繰り返し、ついには後のパーカッションのリズムに融解していた。それまでの、打音と電子音のセッションから暴力的なまでの狂騒へ至る1部の直後に現れるこの2部の情景は、ひときわ印象的でひそやかな燐光を放つ。ここでこの景色を追想してみたい。
乾いたドラムの雨音のような響きから徐々に音数を増やし、まるで多数の人間の胸の高鳴りのような騒々しさ、電子音のノイズを加え目まぐるしく展開する音の洪水に「嵐」を思わせる1部が終わり、2部は静寂の空間から始まる。天井にはそれまでのオレンジから一転、ブルーのライトが夜空の標のポラリスのように輝き、遠雷のような音が響いている。
電子音のエコーがかすかに流れる中、マリンバの澄んだ音色が、水面を渡る風のように耳を掠めてゆく。主になることを周到に避ける間奏の連なりといった様相で繰り返されるシンプルな音階。まるで何かを鎮めるかのような抑制を示し空間を統べ、折り重なる柔らかな音色が私たちの混乱した心を整えてくれる。そのトーンに体がチューニングされ一体感を感じ始めた頃、1部のはじめで鳴っていたパーカッションがカットイン、コロコロ、カチャカチャというリズムがリフレインする。マリンバは次第に彼らの刻む鼓動に拍を合わせ、ついに同化し消えてゆくと、どこからかコチョコチョ、ピチピチといった細かな電子の音たちが現れ増殖する。下方からプチプチと弾けるような水音や、体の内部で起こるようなクーチチチという有機的不快音。つ、つ、つ、ピチピチピチ……。微細な音はさらに増え、雨音のように弾ける中にヴィブラフォンの冷たさを伴う深い音色が響く。こうして音の世界は複層化する。
心地よさの一方で不穏さもたたえた、このひそやかなにぎやかさには覚えがある。虫の音響く夜の庭。姿あらわには見えねども、生命の予感満つる初夏の空気。それは自然界の有機的な営みが仮託されたかのような、豊かさを孕む凪の空間だ。メロディの無いヴィブラフォンの、幻想的なトリル。弓で縦方向に音盤を弾く奏法によりその余韻は長く響き、シンバルの響きが加わって場の音域を馴らしてゆく。中心(主旋律)を欠いた周辺音がエコーする中、ヴォイドとして浮かび上がるのは、私たち客席の、いや私たち自身の内側を流れる生命のかたちだろうか、そのイメージは自然が奏でる有機的な音世界に接続してゆく。ここにおいて私たちは同期する。かたちのないその存在に。やがて音は止み、和太鼓の力強い響きが場を統べる終幕へと続いてゆく。
生命力の横溢とその予感。見えざるものの気配を備え、息づく確かな生の景色。自分の中のスイッチがそれにより半ば強制的に目覚めさせられるような、切り替わるような、そんな瞬間が確かにあったようだ。今回の公演は私たちの身体にそのようにはたらきかけ、別のフェーズへの扉を開くようなアプローチを生み出していたのではないだろうか。