2020年のただ今、世界で最も人々の関心を集めているのは、コミュニケーションの問題だ。教育の現場ではこの重要性が掲げられ、本屋のビジネス書棚にはコレ系の書籍がてんこ盛り。北朝鮮とアメリカ、日本と韓国、EUとイギリスなどなど、「話しても平行線」という現実に絶望しながら、いや、それだからこそ、我々はコミュニケーションを強く欲するのである。およそ、芸術にはそれを生む時代背景というものがあって、この『サイレンス』は、まさにコミュニケーションと一言で言う存在の不確かさ、もどかしさ、不思議さを訴えてくる。川端康成の恐ろしく切れ味の良い恐怖譚(本当にこういう作品の後に誰が小説家を志せるのか?! という一篇だ)の上に浮き彫りになるのは、どんなにわかり合ったと思っても、セックスでたとえ一体感を得たとしても、「相手の考えていることは絶対分からない」という事実。すなわち、川端康成が描いた『無言』であり、このオペラ『サイレンス』。この秋冬、人々はラグビーでワンチームという一体感を称えたが、その狂騒はすなわち、「誰もわかり合えない」というコミュニケーションの不都合な真実を人々は本当は知ってしまっているからだろう。
病の後遺症で口頭でも筆談でも言葉を発しなくなってしまった老作家を巡る、実の娘と来訪者が繰り広げる不穏のようでいて一種の安息状態、なおかつつかみどころの無い世界は、難解どころかズドンと観客の胸に直球で打ち込まれる。「このどうにも変な関係の世界は、実はワタシはすでに知っている」という不思議な共感覚に最も与しているのは、アレクサンドル・デスプラの音楽。思えば彼の名を一般に知らしめた『シェイプ・オブ・ウォーター』も、人間と半魚人との、「フツー恋愛なんてあり得ないでしょ! 」という異種間の恋愛交流の物語。愛、というコミュニケーションの紋切り型を良い意味で脱臼させていたデスプラの音楽は、このオペラにも一気通貫している。
さて、オペラとしての音楽に注目すると、物語の牽引役、タイトルロールの来訪者役にはバリトンを持ってきている。かつてマイクの無い時代に大劇場の大バコで育成されてきたクラシック声楽は、実のところ、ディテールやテクスチャーが求められる現代のデリケートで心理的な表現には適さないのだ。(岩松了の演劇に劇団四季のメンバーのミュージカル発声が入ったらどうなるか、という話)そのバリトンの来訪者が。まず初っぱなに不安や浮遊感のようなものを、かそけき声の中に醸し出すようなハイトーン(もちろん、彼の声域ではない)で歌っていたことにまず、興味を引かれた。そのアリアを経て、来訪者はどんどん本心を露呈するがごとくもともとのバリトンに戻っていくのだが、デスプラがオペラを目論んだとき、その「およそ、現代的ではないクラシック声楽」の「置き方」に心血を注いだことが読み取れる。このあたりは、この作曲家の「クラシックのお約束」に思考停止になってしまわない、批評性の発露だろう。
意外だったのは、音楽や演出における、「今の時代、こんなベタで大丈夫か?」という演出や音楽のジャポニズムと東洋趣味。音楽はミニマルを軸にしているが、日本の旋法の多用、数人の楽器奏者が同種の楽器を扱うという雅楽のスタイル、三味線のような弦のピチカート、篠笛のようなフルートや太鼓が加わって、いわゆる現代音楽に一ジャンルを築いている、日本と東洋的なモチーフとエッセンスが色濃い。演出にしても、スクリーンにもなる巨大な引き戸とそこに撮される映像、後ろを向いて寝っぱなしの老作家(まるで庭石のようにも見える)とこれまた、日本がお得意の桂離宮アンド無印良品なミニマリズム。演奏家達は舞台のホリゾント近くにまるで歌舞伎の出囃子のような位置に坊主頭に袈裟姿で鎮座している。
しかし、これらの「ちょっと盛り込みすぎじゃないか?」という杞憂は、オペラの進行とともに払拭される。実は聴覚と視覚でガッチリ構築された日本&東洋趣味はベタで重厚だからこそ、息苦しく、囲い込まれたような「美意識の拘束感」の方を強く発現してくるのだ。そんな東洋趣味のある意味「茶室」の中のような異世界で、作曲家デスプラのディテールに沿った音の情感が爆発。不安なヴァイオリンのリゲティ的な16分音符の上昇、老作家を世話する娘・富子のソプラノソロには、ヴィヴラホンの官能的な響きが添えられて、彼女の隠された女性の情念を表していく。ミニマルな構造の中に、ドビュッシー的な和声感やフレーズの香華が差し色のように入っていく様は、この作曲家の才気と呼ぶべき魅力だろう。 「一生におびただしく、まことにおびただしく書き続けた言葉よりも、『ミ』とか『チ』とかの一字の方が、秋房の名言であり名文である、力を持つかもしれない」という来訪者の思考は、原作の中で二度登場し、物語のキーになっているが、それはまさに「音楽」の本質の言い換えであり、その核心が前述した「美意識の拘束感」に立ち上がってくるところがこのオペラの醍醐味だと思う。
ミニマリズムに徹した、ピエールパオロ・ピッチョーリの衣装は、もはや舞台演出の一翼のような色彩説教が素晴らしい。タクシーの運転手、語り部、来訪者など、実世界を背負う者たちの色彩は、薄茶と灰白色の今、女性誌などで流行色として取り上げられることが多い、都会的すなわち人間的なグレージュカラー。対して、老作家と娘は白衣と黒衣。グレージュの中にこの色が立ち現れると、その強烈さに改めてびっくりする。(かつてパリコレを震撼させたコムデギャルソンの衝撃はコレだった! )劇中、近親相姦的な彼らの関係を匂わせる演出もあり、白黒の「異界」的な際立ちは、父と娘の底知れぬ関係を表徴している。演奏者の袈裟は、チベット仏教の砂絵のような、パステル系の配色で、それはまた、デスプラの音楽の色彩感のようだ。
それにしても、川端康成文学の何と音楽的なことよ! 全体の物語よりも、強力に印象的な「創作者と創作物の問題を提示する、白紙の原稿用紙を自分が書いた小説だと言って母親に読ませる精神病患者」のエピソードの存在などは、部分が逸脱して主客が転倒するマーラーの交響曲のよう。実際に幽霊が登場するエンディングの部分は、来訪者と運転手の会話のそっけない16行だけで、莫大なイメージをつくっていく。川端の恐怖短編集には、主人公が若い女性から一晩片腕を預かる「片腕」のような、恐怖と官能の話もあり、こうなったら、デスプラ×川端康成オペラとしてシリーズ化してもらいたい、と思うのです。