長いお家時間の中で、ハマったコンテンツのひとつに、『ル・ポールのドラアグレース』がある。 男性の女装家たちの勝ち抜きレースショウの当初は「分かりやすい女らしさ」だったものが、途中から、もはや男女の性別を越え、しいては人間そのものを越えるような”美しい異形”の女装が場面場面に登場し始める。まるでアニメの少女のように隈取られた大きい目、ペガサスや昆虫などなど。それらはまるで、仮面や装束を使って自分を超越しようとした、いにしえの人々の有り様のようなのだ。クィーン達のクリエイティヴな情熱は、文化の枠組みとしてガチガチに決められてしまっている「人間の条件」に対しての異議申し立てにも思え、それをまた、多くの大衆が支持するのも今という時代なのだろう。また、その時代性は、バージニア・ウルフの小説に描かれた、世紀を超えた異なる環境に性別を超えて転生する主人公、オーランドをモチーフにした本作にも色濃く表れ、歴史の中で社会や文化の決め事からこぼれ落ちる人間の情感や本能が、古楽や民族楽器の響きとともにしみじみと心に迫ってくる。
「性の超越をいかに表現していくのか?」という演出上のアイディアは、この作品においては「足と声」にそれらを集約させた。 中国の纏足に明らかなように、女の行動の自由を奪う「履き物」は、現代でもハイヒールというファッションアイテムに残り、#ku too運動を生んだことは記憶に新しい。第1幕の少女戦士は裸足。ということは、自由である喜びを闊達に表していいようなものなのに、彼女は顔を帽子で隠し、苦悩を表すかのように身をよじる。それは使命感から男装したものの、自分の女性的アイデンティティーとの折り合いに戸惑う少女の心のようだ。しかし、一転して第2幕のスカート姿のサン・ミゲルは、先の尖った17世紀起源の竹馬に乗って、その異形ぶりと刺激的な旋回舞踊で周囲を魅了していく。「前掛けの下は、焼け付くような地獄。私は聖人だからやけどすることはない」と歌われるガルシア・ロルカの扇情的な詩句とともに、彼女(彼)は「竹馬に拘束された不自由な足」のメタファーである「女の文化的コード」を乗りこなすことで、自由にかつセンシュアルにふるまう。それはまるで「不自由や苦痛があった方が、人は生き生きする」という、私たちにも身に覚えがある社会通念を目撃しているがごとくなのだ。第三幕のジプシータララに至っては、竹馬は極限まで高さを出したハイヒールと化し、彼女(彼)は、その足でもって、フラメンコのサパテアードを踏む。メイクした顔、ハイヒールの足、しかし、その上半身は男らしい裸の胸板であり、その男と女の個別の”強さ”が、キメラのような融合した姿態は、日本でも歌舞伎の『道成寺』などに描かれる、情念の物狂いの果てに女から鬼に変化する異界のパワーそのものだ。
ダンサーは男性のフランソワ・シェニョー。彼はなんと踊りながら、カウンターテナーからバリトンまでの声域を使い、バロックからピアソラまでの楽曲を、ジェンダーを攪乱する声域でもって歌い、そして踊る。歌い踊る表現者は、ポップスの分野では、マイケル・ジャクソンやレディ・ガガを始めとして珍しいことではないのに、それがクラシック音楽やダンス表現においては追求されてこなかったという意外な事実にも気づかされてしまう。「男でも女でもなく私たちは人間だ」という、人間という概念ありきの近代スローガンではなく、「男でも女でも、ましてや人間でもない私たち」という、神話や中世の自己認識や感覚にシンクロさせてくれる、刺激的な作品だ。